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夏の日記

キャリーバッグはお土産でパンパンに膨らんで重く、駅までの道が意外にガタついていることを教えてくれた。日常の線を越えて、普段乗らない電車に乗る。ここからが夏休み。
久しぶりの新幹線に浮かれていたのか、出発時間より30分も早く東京駅に着き、あてもなくそこらを歩き回り、コーヒーとパンを買った。

妹と合流して新幹線に乗り込む。小さな窓から見上げる空は青々と晴れている。
前日に台風でお笑いのライブを諦めたことを思い出すとなんだか疲れが込み上げ、隣に座る妹の声にもしばらくは生返事で、ぐったりと椅子にもたれていた。
仙台を過ぎたあたりで景色が馴染みのある色に変わる。トンネルが増え、合間に緑が一瞬で過ぎ去る。東京にいる私は何をしてきたんだろう。ただの平行移動が、時間を逆行する旅行のように思えた。

駅のホームに降りると、人波は一斉に同じ方向を目指した。迎えに来た両親は元気そうで、年々小さくなっていくとかまだ全然そんなことはなく、涼しい涼しいと連呼する私たち姉妹に苦笑いしている。
あれはなんだろう、ふるさとの空はまっさらに晴れていてもどこか薄く遠い。
父が最近気に入っているらしい歌手の歌は、知っているような知らないような曲だった。

とうもろこし、ミョウガ、夕顔、ゴーヤ、なす、トマト。夏野菜が並ぶ食卓を前に、いそいそと父は日本酒の用意をする。弟がいるからと、母は肉を焼く。
それぞれが違う場所で人生を送るようになった子供たちを、静かになったこの家でどんな風に思い出すのだろう。
今度は私が見送る側になるのだ。いつかはわからないけれど必ず来る時に。

父が追い出された寝室に、女3人で横たわる。
耳が痛いくらい静かで、野生の動物の声だけが遠く響いて止まず、隣に寝ていた母があれはキツネの鳴き声だと教えてくれた。
突然、自分の身体が形を保ってここに在ることを感じる。暗闇と静寂の奥底に人間の輪郭が浮かび上がる。生きている実感というのは、こんな時に身に沁みるものだろうか。私は涙を流して、その跡を輪郭の形に残したまま眠った。

弟の同級生が亡くなった話を聞く。
人が亡くなったことをただの話題として日常に溶け込ませる人に私はいつも慄く。どちらに死が現実的で近いものなのかしばらく考える。亡くなった人を悼む時、私は即座にその事実ごと口をつぐむ方を選びがちだけれど、丹念に名前を呼び、いつか波のように引いていくのを待つ方が優しいだろうか。

海が広く深くて良かった、と窓の外を見渡して何度も思った。リズムで覚えている文章に、そんな一節があった。
陸に抱えられている形の海に、抱かれている気持ちになるのは何故だろう。大量の水に私はいつも安心する。大きいものは怖いけれど、水は個体ではないから。区別のないものに紛れる感覚は、いつも私に優しかった。笑い声に紛れる自分の姿を、ぼんやり遠くから思う。

祖父の墓参りに初めて行った。祖母が遺骨を離したがらず、お墓に入ったのは亡くなってからずいぶん後だった。
祖父は愛した山の麓に抱かれ、まっすぐその視線の先を向くと森に縁取られた海が広がっていた。私は目を閉じて手を合わせ、「いいところだね、いいところで良かったね」と何度も祖父に語りかけた。
祖父の遺体を前にして、私はその肩に手を当てながら、もう一度だけ手を握りたいと思ったけれど、布団の中をまさぐるのは悪いような気がしてやめてしまった。今でもそれを後悔している。でもその後悔の分だけ、祖父を忘れずにいられるのかもしれない。それならこれで良かったとも思う。

帰り路、鬱蒼と繁る緑に囲まれながら電車に揺られ、「私は一生この緑を語る言葉を持たないままなんだろう」とぼんやりと考えた。
朝まで降り続けた雨で、海に続く川は増水し濁っていた。来た道を戻る。故郷にも、東京にも「帰る」という言葉を使うようになったのはいつ頃からだったか。軽くなったキャリーバッグには、地元でしか買えない即席ラーメンの5パックセットが詰まっていた。

短い夏休みを終えて日常に戻り、数日前に寝違えた首の痛みがひかず、顔を顰めて苦しんでいた朝、年上の同僚の訃報が届いた。
死は静かだっただろうか。
最後にやり取りをした時、素っ気ない態度をとったままになっていた気がして、でもそんなことももう、なんの意味も持たないと思い直す。
私にできることはその場その場で自分のできる一番優しい態度を取り続けることなのか、と考えかけて、その自己保身にまた落ち込む。
ああ卑小な人間だ、こわいこわい。

近しい人を亡くしたショックは、一拍遅れてやってきた。何もする気が起きず、気を紛らすために流した音も耳を通り抜けていく。
その人と力を合わせて乗り越えてきたいくつもの仕事を思う。もう動かないチャットルームを遡る。それでも進めなければいけない仕事があり、物事は回っていく。
ひたすらベッドに横たわっていた。幸福に浸りきってぐずぐずに溶けた骨を抱えたまま、私は老いていく。

分類というのは、まとまりを分けて断つものではなく、むしろ個をまとめ上げて括るものだと思う。分類しないと、物事は無限に分かれ個より細かい個が生まれ続けていく。私たちの脳はそれを受け止め切れるようには出来ていない。
優しくなることは、その分類を出来る限り細切れにしていくことなのかもしれないけれど、それぞれの解像度を上げるには限界があって、私たちの理解には偏りが生まれる。
選択と集中、という便利な言葉があることに思い至る。それでも人間全員を尊重し思いやりたい時、私たちに何ができるというのだろう。

柔らかい手に触れられることが重要だ、と思って、女性が個人でやっているマッサージに行った。活発そうな女性に結局は背中をゴリゴリと揉まれ、とにかく運動をしろと発破をかけられ、思っていたのとは違うけれど兎に角リフレッシュはした。
気になっていたケーキ屋に行く。店員を鼻で笑う客に気が滅入る。バナナパイは理想からは程遠く、キャロットケーキはふくらし粉の味しかしなくて嫌だった。コーヒーがぬるくなっていく。

週が明ければライブ漬けの日々が始まる、そうなればもう大丈夫だ、と思えた。
そしてそれは現実になった。
夏が終わっていく。


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