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演劇から文章を書くことを学ぶ理由

僕はここ何年か、演劇から「文章を書くということ」を学んでます。
なんでそんな話をというと、先日、演劇の舞台を観に行き、そのまま流れで打ち上げにも参加してまして。

『楽屋』という、おそらく日本でもっとも上演回数が多いとされる清水邦夫さんの作品を全18団体が61ステージに渡って、入れ替わり立ち替わり演るというフェスティバル。

女優の“業”を描いたこの作品。同じ小屋でこれだけ集中していろんな団体がつぎつぎ演じる機会なんて、そうないんじゃないかな。

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この“楽屋フェス”に参加したカンパニーの一つである『おででこ』の千秋楽。

まさか、客入れを演者女優のMさんがやってるとは思わず、ふつうにスルーしてたら「こいつ気付いてねえよ」とMさんに肩をどつかれたんです。

いきなり肩を殴ってくる女優w あ、disってるわけじゃなくまじで驚いたので。彼女、すごくちゃんと役と自分と向き合ってて強いんです。

「え、あ!」とか素で驚いた拍子に傍にいたお客さんにぶつかって「す、すみません……」みたいなコントをやってしまったわけですが。

ほんと僕は人の顔をあんまり見てないらしいんですよ。一対一とか少数のときは見るけど、大勢の人がいると、その中に知ってる顔がいても気付かない率がかなり高い! 何の自慢にもなってませんね。

それはともかく、すごくいい舞台で泣きそうになったけど、今回の話はそこではなく書き手にとっての「演劇の効能」についてです。


まあ、ほとんどの人にとって演劇は「自分がやる」のではなく「観る」ものですよね。僕もそうでした。学校の授業の一環でやらされるとかでもなければ、参加するなんてなかなかハードルが高い。

しかも、いい大人になってから演劇の世界に足を踏み入れるなんて。よほど昔やってて、やっぱりまたやりたくなったとか何か「理由」がないとふつうはしないですよね。

周りの人からも「なんで?」と、ことあるごとに聞かれるんですが、なんでだろう。もの書きとして一応なんとかやってきて、書籍ライターという世間的にはいまいち謎な仕事でまあふつうに食べることはできてる。

けど、正直このままじゃあかんという気持ちがあるんです。


何の危機感なのか。言語化するのが簡単なようで難しい。あえていうなら「読まれなくなる危機感」です。

まあ、こうやって書いてる文章もそうですが、誰かにちゃんと読まれなければ何の意味もない。

読まれるっていうのは、ただ単に文字が視覚でスキャンされて脳で処理されることではないんです。なんだろう。読み手との間に「目が離せない何か」が立ち上がっている状態になること。わかりにくいかもしれないけど。


本でもウェブでも文章を通してそういう“体験”ができるから、わざわざ人は時間を使って読んでくれるわけで。じゃなきゃ、ただデータを読み込んでるのと同じじゃないですか。まあ、そういう速くわかりやすく消化できる情報としての文章も必要なんですけど。

でも僕がナリワイにしてるのは、文章を読んでるその瞬間を意味のあるものにすること。これが、当たり前のようで当たり前じゃない。難しいんです。何年もの書きをやってても。

読み手を惹きつけるために、リアルで生々しいことを赤裸々に書けばいいってものでもないし、難しい言葉を使ったり表現をこねくり回すことでもない。文章を通して「そこにちゃんと存在する」ことが重要。


いや、これやっぱりわかりにくいですね。ザ・自己矛盾。なので頭で考えるだけじゃ限界なので、演劇のワークショップに入ったり、舞台のプロジェクトに参加したりというのを始めたわけです。

「ちゃんとそこに存在する」というのは、どういうことなのか。

僕が演劇を通して学んでるのは、目の前に相手役がいて、その場に立ち上がってきている空気や情感やなんやかやを、どれだけちゃんと受け取って、そこにちゃんと肉体と感情が伴った反応ができるかということ。

自分が台詞を言うこと、どんなふうに自分を魅せるかどうかでいっぱいになってるんじゃなく、ちゃんとその場で起こってること生じてるものに素直に向き合って、そこから受け取るものを生かした自分の表現をする。

上演台本に乗っかって自動的に台詞を吐いて演技してるのでは、本当にちゃんとそこに存在してることにはならないんですよ。

台詞を言ったり演技をするときだけが芝居なわけじゃなく、台詞や演技で表れるまでの時間や“間”の中にも表現者にとって大事なことがある。
そこに気付け! ということなんです。

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言語化すると、どうしてもまどろっこしいんですが、それを舞台なら瞬間的に自分がつかんで演技に生かし、文章なら描きながら書く。

頭で処理するのではなく、そこに生身の自分を委ねる。それは不安定で恐いんだけど、だからこそそこから生まれるものは面白い。文章だって読み手の中で再現される舞台だと考えれば理屈は同じじゃないですかね。

みたいなことを打ち上げの席でも話したり、芝居の反省会話しながら突っ込んだり突っ込まれたりをやってました。


まあでも、日頃、頭ばっかり使って仕事してるからこそ、自分の身体を使い、感情というフィルターも通った言語と向き合うのはすごく意味がある。

これって、案外どんな仕事でも通じるものがあるような気がします。

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