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ミドリさん

ご主人が「今日だけでいい、代わってくれ」と頼むので会社に行った。

その代り、ご主人が犬として家で留守番をすることになった。

もしかしたら、ウチの近所のボス犬から無茶な頼みがあるかも、と言うとご主人は、そんなのいいんだよと気にする素振りもない。


定期を首から下げ電車に乗り、ご主人の会社に出社して「犬ですけどいいんですか?」と、ご主人の上司に聞いてみる。

深夜のテレビで人知れずニュースを読み上げていそうな冴えない顔色の上司は、少しだけ何かを考えてから、じゃ頼んだよと言った。

その微妙な空気を見て、ああ、きっと面倒な仕事が待っているんだなと覚悟して、取引先に向かう。

                *

取引先の会議室では、何か月も前からそうしていたみたいに渋い表情をした担当者と、しかめっ面の部長が書類の山を砦みたいにして待っていた。


「ねぇ、お互い持ちつ持たれつなんですから、ここは条件呑んでくださいませんか?」
担当者はそう言いながらステラおばさんのクッキーを勧めてくる。

甘いクッキーの匂い。脊髄反射的に思わず尻尾を勢いよく振ってしまった。

それが先方の部長にはよかったらしい。部長からも、いやらしい笑顔でクッキーを勧められた。


なんだかよくわからないうちに事案は解決したらしく、機嫌よく会社に戻ると、営業庶務のミドリさんが給湯室から手招きする。

「いつも、大変ですね。今日はうまく商談がまとまったんですって?」

そう言って、行列が出来る和菓子店のアイス最中を袋から出して食べさせてくれた。
よだれを垂らしながら食べる姿を見て、ミドリさんは、ふふ、と笑う。今日は、わたしには半分食べさせてくれないんですね、と言いながら。


食べるのをやめてミドリさんの顔を見上げると、濡れた三日月みたいな微笑みが、すぐ近くにあってくすぐったい気持ちになった。

すっかり食べ終わると、ミドリさんも腰を上げて

「あの話、楽しみにしてます」と言って、スカートの裾をポンポンと掃って席に戻っていった。

                *

6時に会社を出て家に帰ると、ご主人が何をするでもなく暇そうに庭で待っていて元通り入れ替わった。いつも通りの食卓。

いつも通り、ご主人と奥さんが向き合っているテーブルの横で、いつも通りの缶詰の肉を食べる。

「今日は会社でなんかあったの?」という奥さんにご主人は、ああ、と言いかけて別になにもないよと言う。


点きっ放しになっているテレビにどこかの老舗の和菓子店が映って、思わず、ミドリさんの潤んだ口元を思い出して吠えた。

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