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会いたかった文章

“いい音は会いたかった人なのだ”という意味のことを早川義夫さんが書かれている。

いい音は会いたかった人。このときのいい音とは技術的なことでも形而上のものでもない。文字通り、こころの芯を食った音のことだ。

「いい音」を「いい文章」に置き換えたとき、僕は会いたかったと思われる文章を書いているのだろうか。甚だ心許ない。

どんな仕事をしていても「こんなのでいいのだろうか」と悩むことはある。自分のアウトプットにであったり職業そのものに対してであったり。
この道何十年の人間国宝クラスの匠だって悩むし、3時間前に初めて配属された饅頭の包みあん機の前でだって人は悩む。

ただ僕の個人的想像でしかないけれど、もの書きはやたら「こんなのでいいのだろうか」と悩む瞬間が多いんじゃないだろうか。僕もそうだ。なんなら数時間に一回ぐらい、そういうのが降ってくる。川越線の電車の本数よりは少ないけど、烏山線の本数よりは多い。

なぜなのか。たぶん、ことばを扱う仕事の性質上、常に自分の周りに使うことば、使わなかったことば、使い損なったことば、使えなかったことば、いろんなことばが漂ってるからだ。

大工さんなら自分が刻んだ材を組めば、もうそれは手元を離れて建物の一部として自分とは別の存在になる。それが納得いくものか、いかないものかは別として物理的に手が離れる。なのに、ことばは何かに書いても緩い呪いのように僕から離れようとしない。


ことばはかたちがあるようでない。しかもことばは書き手使い手の人間性の一部と切り離すのが難しい。誰かのために文章を書いても、そこには必ずどこかに書き手の何かが滲み出るのだ。人間性が薄ければ薄い何かが、複雑で面倒くさいものならそのカオスさが。

もの書きはそれを続ける限り、面倒くさい自分とその周りを漂うことばたちから逃れられない。それはいい。そういうものだから仕方ない。いいよ、わかった。だけど、せめて少しは「いいもの」でありたい。

早川義夫さんの『いつか』という曲にこんな詞がある。

足りないのではなくて 何かが多いのだ

そうかもしれない。