詠めなくなったかわりに

前はよく帰りのバスなんかで短歌を詠んでいた。短歌と言っても季語とか枕詞とか技巧を凝らしたものではなく自分なりの五七五七七を作っていただけである。

しかし、ふと「詠め」なくなった。いや、「詠ま」なくなった。

日本人は古来から気持ちが高ぶると歌を詠む。それは雅で風流で色っぽい、モテ仕草でもあった。私もいろいろと気持ちが高ぶることがあったら帰りのバスの中で指折り文字数を数えていた。平安時代だったらさぞモテただろうとか思ってた気がする。

3年間で1人百人一首が作れる程の数を詠んだ。もちろん駄作だなぁと思うものもあるが、その時納得が行った一つの作品なのだからなんとなく残していたら100首をこえた。

しかし、最近はピタリと詠めなくなった。そもそも短歌のことなんか忘れて過ごしていたし、ふと作ろうとしても何も思い浮かばないのだ。

今の生活において、どうしようもなく悲しいとか凄く嬉しい!とかの波はない。短歌の材料とは、と考えたら、それは心にためておけないほどの溢れる感情だったんだと気づく。昔みたいな溢れる負の感情がないことは幸せなことである。

短歌を作れない自分を通してひとつ幸せに気づけた気がする。

自分の百人一首を時々見つめながらあの頃の吐き出していた苦悩を振り返る。ある日は目を輝かせながら、ある日はゾンビのような顔をしてひたすら五、七、五…と文字をつづっていた。短歌は31文字で収まる日記であり、一つ一つが一生懸命生きた勲章みたいで嬉しくもなる。

誰かに見せたいと思うこともあったが気が引けていて、昔のだしなんかもう時効だと思うので少しずつ投稿していこうと思う。

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