見出し画像

「小説というオブリガード ミラン・クンデラを読む」 工藤庸子

東京大学出版会

本のタイトルにある「オブリガード」とは、音楽用語で、ある楽曲のなかで、特定の声部や楽器が「欠くべからざるもの」であることをいう。


Ⅰ クンデラによる七つのノート-『裏切られた遺言』を中心に

 彼の主張によれば、十九世紀の「国民芸術」を担ったイギリス、ドイツ、フランス、ロシアなど大国の周辺で、徐々に活力をたくわえてきた小国は、さまざまな時代の記憶や伝統の「不思議な混在」を可能にする豊穣な土地なのである。
(p3)


狭間で生きてきた「周辺」のいいとこ取り、のような感じか。中欧論と言われるものを少しは読んでみたけれど、こういう視点はなかったと同時に、「不思議な混在」の具体的例をもっと知りたいとも思う。確かにチェコにはそういうものがあるとは思うから。

 必要なのは、「視点」という概念を「声部」におきかえて、複数の主題とその変奏からなるポリフォニックな音楽として小説を読んでみること、すくなくとも一度は、音楽理論の枠内で、楽譜を分析するのとおなじ手法を用いて、クンデラのテクスト分析をやってみることではないか。「視点」から「描写」にいたるまで、考えてみれば、わたしたちの批評装置そのものが、視覚偏重方の語彙と世界観、そして十九世紀小説的なレアリスムの規範性に、あいかわらず依存したままのような気がするのである。
(p14-15)


つい上で自分も「視点」という言葉を出したけど、既存の批評装置や概念は、音楽(聴覚)、におい(嗅覚)などの持続しながら微妙に変化しているものに目(ではない、耳や鼻…)を向けてなかったのかもしれない。この意味でも先駆者だったのがプルーストなのだろう。
人間の知覚における視覚の重要性、それに西洋キリスト教世界の見ることへ与える特別性(ヴィジョン)など、仕方ないところもあるとは思うが。

最後の(やはり?)7節「作家の遺言」(ここが特に「裏切られた遺言」と関係する)、マックス・ブロートは、カフカの「遺言」を破って作品を発表した。しかしそれだけでなくて、ブロートはその文学を裏切る「批評」をもしている、とクンデラは言う。例えば、作家個人のミクロ的な批評、美的技法的側面を無視した思想的批評、他の現代芸術の枠組を無視…など。ではクンデラの「批評」とは。

 はたして問題の文学作品が、人間の実存について、未知の側面を明らかにしているか。芸術の歴史に貢献するような、美的な(すなわち創作技法上の)革新をなしとげたか。
(p16)


一方、第二次世界大戦後フランスの新しい批評や思想について、クンデラはかなり批判的(これはゴンブロヴィッチもそうだという)。工藤氏はその理由の一つは、それらの批評(特にナラトロジー)がやはり19世紀のクンデラのいう第二期小説を「モデル」とし、第一期と第三期(ドン・キホーテや現代小説)をそこからの距離・逸脱で測ろうとしているからだ、と見ている。
(2023 02/12)

Ⅱ「不滅」を読む-小説論の方法
1、目次について

クンデラの7番目の作品「不滅」…
次の「緩やかさ」は(7部小説を7作書いたからか)、51の断章がつながる形。工藤氏によれば、この51という数字は「7×7+序章+コーダ」なのだとのこと。

 「小説」ではないことを執拗に主張しつつ書きすすめられるナボコフの作品にくらべると、ちょうど意図を逆転させたからくりといえるかもしれないが、クンデラの「小説」には、いま書かれている作品が、所詮は小説にすぎないことを暴露してしまうような設定の文章が、あちこちにもりこまれている。
(p38)


ここで取り上げられているナボコフ作品は「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」。この作品の表紙に「小説」と掲げるのは、小説の主題に抵触してしまう。一方、表紙に「小説」と掲げているクンデラ作品は、小説にすぎないことの認知を読者に加速させる趣向を持っている。

 作家がみずからの想像力が生んだ世界のなかの被造物となってしまうという主題は、ボルヘスの短編にもしばしばあらわれる。またビオイ=カサーレスの『モレルの発明』とも一脈つうじるところがあるのだが、こちらは、奇妙に生々しい映像を生み出す精巧な装置が、生身の肉体をもつ語り手を最後に呑みこんでしまう話。その「いきさつ」を述べ、ある程度納得のゆく説明もすることが、作品の主要課題となっている。これに対し、クンデラの場合、すべてがなんの説明もなく、ぬけぬけと「レアリスム」の手法で記述されているために、ことがらはよく考えればいっそう唐突であり、しかもその唐突さは思いのほか目にとまらない。
(p41)


これは「注」から…今の自分的にはボルヘスよりコルタサルの方のイメージだけど(「続いている公園」とか「悪魔の涎」)。それはともかく、クンデラの小説手法とビオイ=カサーレスの小説は、比較できる次元とは思っていなかった…ここは自分的に要検討。
(2023 02/14)

2、顔のない小説

 アニェスの顔は、外界の醜さにさらされ、そのことに苦しんでいる。それゆえ、彼女は考えるのだ。いつかこの醜さの襲撃に耐えられなくなった日には、勿忘草を一茎、顔のまえにかざして、その美しい青い点だけをじっと見つめながら、ひとりで街を歩いてゆこうと。
(p45-46)


p43-44で引用されるファーストフード店の顔の点描の生々しさ、小説第一部「顔」の顔はこのような顔、そしてそれらを知覚(様々な知覚総動員)してしまう無防備な顔のそれである。

 近代小説の批判をくわだてる作家にとって、「顔」はもはや、個々に描写すべき対象とはなりえない。そういえば、アニェスがファースト・フード店で見かけた醜い顔の陳列も、個別化されてはいなかった。とりあげられていたのは、むしろ「存在としての顔」である。
(p58)


近代小説はバルザックにしてもフロベールにしても「顔」の描写から始まる。そして、そこからの逸脱加減でどんな小説作品なのか判断されてしまう。

 クンデラの登場人物たちのなかで、作者が特別な情愛をそそいでいるらしい人間は、だいたいにおいてカメラ嫌い、写真嫌いである。
(p61)


今すぐ思い出せないけれど、確かにそんな人物いた…まだ読んでいない「冗談」はまさに全体主義国家における写真等情報の管理から起こる悲劇でもあった。一方、「不滅」はフランスが舞台であるが、事態は変わらないのか、別の理由か、それともどちらも変わらず一貫した思想なのか。

アニェスの夫ポールよりも、彼女の死を悼むのが愛人?ルーベンス。彼女の顔を思い浮かべて、その像が穏やかに変容して死の顔になる…しかし、変容はそこで終わらなかった。

 土のなかで腐食していく顔、あるいは一瞬のうちに炎につつまれる顔。この「おぞましい想像」が愛の行為のさなかに胸のうちに甦ることをおそれて、ルーベンスはカサノヴァ流のながい女性遍歴に終止符を打つ。
(p63)

 クンデラにとって「顔」とは、近代小説の批判をとおして近代そのものの批判にとりくむために、おそらく避けてとおることのできぬ特権的な主題であった。
(p65)


顔のない人間の世界は死の世界、そして醜く個々の顔を描くことができない現代(それは近代が引き起こしたものでもある)もまた死が忍び寄っている。この手段はウォーの「愛されたもの」と関連している。続けて読んだら繋がって面白いかも。第一部最後の文が、カミュ「異邦人」のピストルを弾く時の文と(原文では)似ているというのも気になる。
(2023 02/15)

3、「不滅」をめぐる主題とモティーフ


ここでは主に身体論、身体描写、性行為(近代小説は性行為そのものを描いてこなかったのでは?)、身振りと仕草など。標題に関わるところから一箇所引いてみる。

 アニェスを生みだした軽やかな仕草は、いわば無償のものとして虹色の輝きを放っており、作中人物は、こうしたモチーフを専有することはできない(この点は、それぞれの人物が固有の旋律をもつ、ヴァグナー的モチーフとの最大の相違である)。異なる文脈にくり返しあらわれるささやかな構成要素としてのモチーフは、それ自体としては、かぎられた情報しかもたらさず、過剰な読解をさまたげる。
(p89)


主題が例えば「顔のない対象」だったとしたら、モティーフは例えばアニェスが登場する時の身振り。それは後々いろいろな場で出てくるが、それはアニェスに関連するかしないかは関係がないもの。(近代の)ヴァグナー的モティーフはそれを人物と結びつけ専有させる。
(2023 02/16)

4、物語の構造

 「劇的緊張」に対する願望は「小説に負わされた呪い」のように機能したのである。すべてが最後の大団円に通じる準備段階として按配され、終幕にいたって、小説そのものが「麦藁のように」燃えつきてしまうスタイル。『ピエールとジャン』の序文でモーパッサンが批判しているのは、まさにそのことだ。
(p100)


上の文章のうち、「…スタイル」まではクンデラの主張。

 現在が歴史的時間の一点として位置づけられたこと、そして小説がもっぱら因果律の支配する世界として提示されるようになったこと、これらは同じ楯の両面なのである。
(p105)


セルバンテスの小説において、ある出来事と他の出来事の順番を入れ替えても、ほとんど影響がない。それに対して時系列化したのは、スターンとスコット、ディドロとバルザックの間、ということらしい。

 視点人物の理論をつらぬいたこの種の教養小説で、読者が隠された因果関係を読みとろうとするならば、主人公の能力をはるかにこえる分析と認識の能力を求められることになるだろう。バルザックの作品のように、饒舌な語り手にともなわれることなく、読者みずからが、生の現実さながらの、不可解で不透明な奥行きをもつ世界にふみこんでゆくのである。
(p108)


フロベール「感情教育」。こういう作品は小説の王道のように思えてしまうけれど、実はそれほど実例は多くないのでは。

 プルーストの小説には日付がない。いやそれどころか、『失われた時を求めて』の冒頭を占める第一節「コンブレー」は、小説を語りはじめる瞬間を、時の流れのなかに位置づけることのむずかしさ-極言すれば、文学を成立させる時空を設定することの不可能性-を、ひとつの問題として記述することにささげられているようにさえ思われる。
(p108-109)


そして、「失われた時を求めて」をクロノジカル(年表風に)に再配置する試みはことごとく失敗している、と工藤氏。冒頭の宙吊りになった「私」の意識に、第七部までの何かの記憶が挟み込まれている。
クンデラが認識する未来の小説のための四つの「呼びかけ」(「小説の精神(技法)」の第1章かららしいのでそちらも参照)
1、遊びの呼びかけ
2、夢の呼びかけ
3、思考の呼びかけ
4、時間の呼びかけ

5、文字盤と変奏曲

 そもそもこの作品には、日付を刻んだ年代記風の時間の台座が欠けている。『不滅』のなかで語られるアニェスの物語は、歴史的事実の報告やクロノロジーとは無縁の、想像の世界ではじまり、おわってしまうのだ。
(p121)


「時計の文字盤」…第六部のタイトル。人生の隠喩(生から死への出来事が書かれている文字盤の上を人という針は進む)。先の4つの呼びかけ(遊び、夢、思考、時間)に関わる、そして作品タイトル「不滅」と相対する。

 ギリシャ哲学からキリスト教の伝統にいたるまで、円環のイメージが無限性を象徴していたのに対し、クンデラにとって、時計の文字盤は「有限性を教える学校」となる。
(p125)


クンデラの作品を読むにあたって、章名を文字盤の番号として、そこを進み、そして文字盤の外に出る(死など)、という操作は有効かもしれない。
今日はp128まで。
(2023 02/17)

第5説続き。
「主題と変奏」。予め(ア・プリオリに)空間を区分し、速度記号を記入された小説。空間分節化テクスト。
工藤氏が重要だと考える、分節化されて内部区分の冒頭。

1、隣接する区分とは一見縁のない、あらたな主題やモチーフを導入
2、隣接する区分の集結部を反復
3、これから展開される主題やモチーフを先取りし、素描
(p130 一部改変)


「ポリフォニー文学」についてのクンデラの考え。

1、さまざまな旋律線の同時的展開
2、声部の等価性
3、全体の不可分性
4、複数の声部は異質のテクストで構成
(p137-138 一部改変)

 芸術の営みが、無からの創造というよりは、反復と変奏の手続きに似ていることを、むろんわたしたちは、クンデラ以前から知っていた。にもかかわらずクンデラが、かくも新鮮に思われるのは、作品自身がそのことを露呈させ、しかもそのことが作品創造の原理として、これほどみごとに機能している小説を、これまでだれも書いたことがなかったからだ。
(p146)


ちなみに、ミシェル・ビュトールの「ディアベリのワルツによるルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの三十三変奏曲との対話」も、空間分節化テクストの一例。そこでは活字の種類も予め決められている。
(2023 02/18)

Ⅲ フランス近代小説をめぐって-身体論の地変へ


(クンデラ論はしばし休み。これはクンデラ流に言えば、コンチェルトのソロ楽器が一切沈黙し弦楽合奏だけで奏でられる楽章となるのだろうか…まあ、この本も初出はいろいろなのを合わせたものだから…)

 われわれの「社会的人格」は、むしろ「他人の思考」によってつくられるのだ。そう考えるプルーストにとって、眼に見える身体は、内部に意味が充溢する表面ではなく、見る者がそのつど主観的な意味を注入する「袋」のようなものになる。
(p167)


バルザックの時代には、骨相学を土台として顔など身体的特徴が集中して書かれた。プルーストの場合は、それを見る視線の方を重視する。

 性が時代の「問題」としてクローズ・アップされるとき、その「問題」をめぐって生産される過剰な言説やイマージュは、文化的権力装置の機能を発揮して、個別的な経験をまきこんでゆく。文化論が対象にすべき現象は、「抑圧」と「解放」という二項対立の図式で解明されるほど、単純明快に構造化されてはいないだろう。
(p177)


小説における同性愛について。プルーストの時代にはかなり屈折して織り込んだ同性愛の主題は、1980年代くらいからそのままストレートに主題化できるようになった。でもそれはそれで「まきこまれた」ものであろう。

上は昨晩読んだところ。今日第Ⅲ部読み終えた。まずは自分なりのポイント列挙。

ゾラ「生きる歓び」では、出産の描写が初めて直に描かれている。
モーパッサン「女の一生」のラストで、女主人公が昔住んでいた荒れた城館に戻ってきて、その建物の匂いを嗅いで昔を思い出すシーンは、プルースト的主題のはしり。
フロベールは両性具有的。ボヴァリー夫人の光線の震えの場面の「振動」を表す単語の使い分け。
プルーストはアルベルチーヌを男性のモデルから作り上げた?そして、この小説を書きながら、プルーストは自身が女性化することに快楽を見出していた?
娼婦と客としての男。この図式を逆転させたのが20世紀に入ってからのコレット。そのコレットを含む女性同性愛者は、プルーストのソドム(男性同性愛)描写には賛同したが、ゴモラ(女性同性愛)描写には反発したという。
とにかく、19世紀小説は男性作家による女性の性愛描写が主で、男性の性愛描写は未知の領域だった。男女のあいだのこぼれ落ちている領域を拾おうとしたのがプルースト。

では、まずプルーストの引用文から。シャルリュスとジュピアンの同性愛者が奥の部屋に入り、それを「私」が盗み聞きするシーン。

 たしかにこの音は非常に激しかったから、もしもたえずそれと平行した一オクターブ高いうめき声によって引きつがれていなければ、私は自分のわきでひとりの人間が別の人間の咽喉をさいているのだと思ったかもしれないし、そのあとで人殺しと生き返った犠牲者とが、犯罪の痕跡を消すために風呂に入っているのだと思ったことであろう。後になって、私はそこから結論した。苦痛と同じくらい騒がしいものがあり、それは快楽である、とくにすぐに身を清めようという配慮がそこにつけ加わっているときには、と。
(p202)


盗み聞きだけあって、聴覚を通じた書き方になっているのと、前半の鬼気迫る文章と後半のなんだか長閑な文章の対比…じっくり読みたい(長い)…

 花は生殖器官であることを、一八世紀のリンネが確認し、分類学の基礎概念として以来、植物の世界の受精と繁殖をめぐる探究は、自然科学を志す者だけでなく、詩的に宇宙を理解しようとする者たちにとっても、夢想をかきたてられる主題となっていた。花がいかに大胆に、しなやかに昆虫を誘惑するか、植物の雌と雄の器官を通じさせるために、ときにはいかなる暴力が必要か…。
(p210)


「失われた時を求めて」の第5部入ったところで挫折(中断?)した自分が、例のマドレーヌの場面、第5部の「私」が起きる場面(ここ初めて邦訳された箇所でもある)と並んで格別印象に残っている、「花は性器だ」説。ダーウィンの影響もあって、実際にこういう話がサロンで話されてもいたらしい。
残りは第Ⅳ部。
(2023 02/21)

Ⅳヨーロッパ文化とクンデラ-文化論的記述の試み

 中央ヨーロッパとは「最小限の空間に最大限の多様性」をもりこんだ「原ヨーロッパ」なのであり、この地域こそが、諸民族が共存するヨーロッパの雛形を提供できるはずだった。これに対して「最大限の空間最小限の多様性」という原則をふりかざす「ロシア全体主義の文明」が行った暴力的な介入を、クンデラは「誘拐」と呼ぶのである。
(p225-226)


「最小限の空間に最大限の多様性」というのはこの第Ⅳ部の通底する主題になっていく。

 私にとって小説家であることは、他のジャンルのなかの一つの「文学ジャンル」を実践する以上のことになったのである。それは一つの態度、一つの知恵、一つの立場だった。一つの政治、イデオロギー、道徳、集団へのどんな同化も排除する立場、逃避もしくは受け身としてではなく、抵抗、挑戦、反抗として理解される自覚的で、執拗な、怒りにも似た非=同化。
(p237 「裏切られた遺言」から)


ここでの同化とか、下の文の「テーゼ芸術」というクンデラが反対するものを代表するのが、オーウェルの「1984年」など。同化はともかく、風刺は別の側面もあるように自分には思われるのだが。

 絶対的な「非=同化」とは、足場をもたぬこと、あくまで宙吊りの姿勢をえらぶことでもあるだろう。いっぽう「風刺」とは、結論の見えている「テーゼ芸術」であり、みずからの信念に照らして打倒すべき敵を見定めたのち、これを安全地帯から笑いものにする。「風刺」とは異なるアイロニカルな仕掛け、すなわちあい矛盾する複数の視点が対比的に構造化されている世界は、一瞥ではとらえがたい。クンデラが、「小説」を「小説」として読むためには、何度も読み返さなければならないというのはそのためだ。
(p243-244)


クンデラがムカジョフスキー、ヤコブソンなどのプラハ ・サークルを誇りにしているのに、バフチーンにほとんど言及がないのは何故か…興味深い問いが立ててあって、答えは宙吊りのまま、デイヴィッド・ロッジ『バフチン以降』(クンデラ論も有り)に横滑りしていく運び。

 ぼくはあらゆることに一抹のほろ苦さがあってほしい、勝利のさなかにお決まりのように野次の口笛が吹くといい、さらに熱狂のさなかには悲嘆さえあってよいと思うのです。それでジャファのことを思い出しました。あの町に入ったときには、レモンの木の香りと屍骸の臭いを、いっぺんに吸いこんだものです。朽ち果てた墓場が腐りかけた骸骨をのぞかせている一方で、青々とした灌木が、ぼくらの頭上で黄金の果実をたわわにみのらせていました。貴女にわかってもらえるかしら、この詩情がどれほど完璧なものか、これこそ壮大な総合なのですよ。
(p259 フロベールのルイーズ・コレ宛の手紙から)


ジャファはフロベールが実際に立ち寄ったイスラエルの港町。クンデラがフロベールを高く評価する、散文的詩情の開拓者的側面。汚いものや臭うものと、美しいものの同時併存性、これがここのフロベールから、カフカ 「城」のKが知り合った女と性交する場面を経て、クンデラの汚物とともにある性交場面の執拗さへ。

 そもそも一枚のヴェールのしたに唯一の真実が隠されているというような状況は、現代世界には存在しないのだ、とクンデラは固く信じているように思われる。
(p271)


『ヴェールをまとったオリエント』(アラン・ビュジヌ著)という本では、ヴェールを剥がすという行為を西欧哲学の底に見る。一方、それに対して戦略的にヴェールをつけるというオリエントの方策。

 わたしとしては、個人の身体も、文化的に構造化されており、その意味で、総体としての文化をいかにして記述するかという問題と、身体的なものの分析は、どこかで連動しなければならないと考える。小説の読解は、たぶんはすかいに、そのような文化論に貢献することができるだろう。
(p279)


ここでの「わたし」は工藤庸子氏。身体に文化が織り込まれ、逆に文化も身体的コードに溢れている。そうした端境の様相を描くのもまた小説(散文)なのだろう。
(2023 02/22)

作者・著者ページ

関連書籍


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?