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「遊戯の終わり」 フリオ・コルタサル

木村榮一 訳  岩波文庫  岩波書店


続いている公園
誰も悪くない

殺虫剤
いまいましいドア
バッカスの巫女たち


キクラデス諸島の偶像
黄色い花
夕食会
楽団
旧友
動機
牡牛


水底譚
昼食のあと
山椒魚
夜、あおむけにされて
遊戯の終わり

✳︎
訳者解説

1956年発表。
1977年刊行、国書刊行会ラテンアメリカ文学叢書5 の文庫化


「続いている公園」、「誰も悪くない」

前者は4ページほど。コルタサル作品の精髄を凝縮したようなメビウスの輪。後者はセーター着るのが上手くいかなくて自殺した男の話…って書くと無茶苦茶だけど、セーターの中に顔を突っ込んで自分の身体が見えなくなると、右手も左手も自身の制御を越えて他者となる…という、これまた非常にコルタサルらしいテーマ。
目次打ち込んで、解説ざっと見た感じだと、この間半分くらい読んだ「遠い女」のコルタサル作品に比べ、短く直裁的だと予想してみる。
(2021 07/29)

「河」、「殺虫剤」

八ヶ岳の麓、渋御殿湯で読む。温泉は独特。
「河」はまたひねくれたメビウスの輪。実際は彼女はベットにいるのか、河に身投げして水死体なのか。
「殺虫剤」はとある少年の繊細な動き。妹、親戚の男の子、女の子の友達、隣家の相性のよくない三姉妹…といった子供環境が、叔父の買ってきた蟻退治の殺虫剤と絡んで…という話。

 巣穴は地面の下を縦横に走っているが、それを見た人はいない。脚の血管みたいに皮膚の上からは見えない。だけど、その中を蟻と神秘が行き交っているのだ。
(p36)


(2021 07/31)

「いまいましいドア」、「バッカスの巫女たち」、「キクラデス諸島の彫像」


前半2編を、昨夜、八ヶ岳高見石小屋で読んだ。前者はホテルの怪談、後者は指揮者とオケが聴衆を狂気に陥れる話。
…と、山旅にこの文庫持っていったのだが、突然の雷雨でリュック中のこの文庫も下側濡れ、読む分には支障無し。
(2021 08/02)

第二部に入って「キクラデス諸島の彫像」から。

 つまり、考古学者というのは自ら探究し解明した過去と多少とも一体化する。
(p92)


(2021 08/03)

上記の日にこの短編読み終え。
若手考古学者の三角関係と、古代がのりうつったようなマッドな友人との諍いでその友人を亡くしてしまった考古学者が、恋人をその部屋で待っている間に凶器の斧を研ぎながら待っている、というラスト。思うにコルタサルの脳裏には最初にこのラストの情景が浮かんだのではないか。考古学の背景とか最初に狂気に陥る友人とかは、最初に浮かんだ情景を語るための後付けなのかも、とか考えてみた。

とにかく、落語の「へっつい幽霊」と「宿屋の仇討ち」を足して2で割ったような「いまいましいドア」や、モラヴィアとかデーブリーンのシュール短編と読み比べてもよさげな「バッカスの巫女たち」等、こっちの方がよっぽど「ラテンアメリカ怪談集」という感じ。この短編集終わるまで路線変わらないのかな、そんなことはないように思うけど。
(2021 08/04)

「黄色い花」、「夕食会」、「楽団」、「旧友」、「動機」、「牡牛」


第二部終わり(「黄色い花」のみ前に読んだ、あとは今朝)。

時間、劇場、ハードボイルド
前2つが時間の揺らぎ系、「楽団」は「バッカスの巫女たち」と似た劇場がカオスになる話(コルタサルは劇場にオブセッションがあるのだろうか)、あと3つはボルヘスにもあるハードボイルド系(それぞれ、ギャング内での暗殺、殺された友人の仇をうつためのマルセイユへの船旅、怪我?をしたボクサーのとりとめなき回想)。

時間揺らぎ系について、「黄色い花」はある子供に自分の経験が一致するのを見る話。似たような体験は多いとは思うけれど、それを思い込むと別世界が広がる。「夕食会」は書簡形式。冒頭の夕食会に誘う手紙の次に夕食会で起きた諍いについての相手の手紙が来るが、よく見るとその手紙の日付が前の手紙の前日。そこに先の諍いの当事者の一人が自殺して…というもの。全体の謎解きはできていないのだが、ひょっとしたらコルタサル自身が謎解きを放棄している可能性も。とりあえず諍いを知らせてきたローハスが鋭敏な霊感の持ち主だということにしておこう。

最後に「楽団」から。

 実際に見ていると、とても信じられないが、やはりあれは紛れもない現実だったのだ。こうして時間をおいて考えると、それがよく分かる。彼が見たのは確かに現実なのだが、同時にそれはまやかしでもあった。まわりのものすべてがどこか狂っているように思われたが、もうあまり気にならなかった。自分は別世界にいるのだ、そう考えると、街も『ガレオン』も、紺の背広も、今後の予定も、オフィスでの明日の仕事、貯蓄計画、避暑、ガールフレンド、中年になること、死を迎えること、なにもかもがその世界の中に組み込まれており、当然のことに思われた。
(p137-138)


現実とまやかしの区別は、本当は存在しないのかもしれない。

「水底譚」

 暇を持てあましてぼんやり酒を飲んでいたが、ああいう空ろな気持ちというのはどうしようもなくぼくたちを追いつめるものだ。そこには、憎悪というよりももっと微弱で仕末の悪い、嫌悪感みたいなものが弥漫していた。
(p180 弥漫は「びまん」と読む)


古代から大気の中に微弱に伝わる何か、それはゆっくりとしかし着実に人の心に浸透していく。「キクラデス諸島の彫像」と作用は同じものなのかもしれない。
ブエノスアイレス郊外の川の中洲らしいバンガロー。そこに友人マウリシオが尋ねてきて昔の回想話をする。若い頃の賑やかさと倦怠感、水死体として川を流れる自分自身を見た悪夢、その夢を別の友人ルシオに話したこと、ルシオは「俺の夢の場所を奪ったな」と切り返す。

通常、語り手とマウリシオの場面は枠構造の外側として、内部の話、語り手とルシオの場面とは干渉しないはずなのだが、この作品ではその枠が歪み干渉を許しているような気がする。

 夢の中まで追ってきて、にやにや笑いながらぼくたちをどこまでも追いつめる証人、きみはあれに似ているよ。
(p174)

「昼食のあと」、「山椒魚」、「夜、あおむけにされて」


「昼食のあと」は両親の依頼で「あの子」を散歩に連れて行く話…話はいろいろ続いていくのだが、そもそも「あの子」って誰?というか何? という冒頭の読者の疑問を置き去りにしたまま続き、終わる。「遠い女」にあったバスの話もそうだけど、ここでの市電もコルタサルにとって特別な文学装置なのだろう。

「山椒魚」…これと次は異世界へと語り手が移る話、こちらが「静」で、次のが「動」。

 はじめて山椒魚に出会った時、彼らのいかにも平静な様子に惹かれて、思わずぼくは身を乗り出した。その時、彼ら山椒魚の秘めた意志、つまり一切に無関心になりじっと動かずにいることによって、時間と空間を無化しようとする彼らの意志がおぼろげながら理解できるように思えた。
(p204)


こうした作品を読んでいると、コルタサルは動きの激しい現代に耐えられないような人だったのかな、とも思うけど、実際のコルタサルはそうでもないような気もする。この作品にとっては「ぼく」と「彼ら」の移り変わりも読みどころの一つ。

「夜、あおむけにされて」…バイク事故で入院している男、その男の見るアステカ人たちに追いかけられ、捕まり生贄にされる悪夢、これが交互に現れるのだが、徐々に悪夢の比率が高くなってきて…ここに収録はされていない「すべての火は火」も、現代と古代が交互に現れる作品だけど、あちらは確か元々違う世界を交互に書いていたのが接近し合う話で、文量の比率もほぼ同じで変わらなかったような記憶がある。

という現代と悪夢の交代が話の主軸とすれば、以下の文はそれとは異なり、そうしたコルタサルの創作の原動力を僅かに示している文ではないか、と思う。

 その空虚、ポッカリ口をあけたその穴は永遠のように思えた。いや、あれは時間といったものではない。むしろ、その穴に落ちた時、何かを通り抜けた、とてつもない距離を走り抜けたような感じがした。
(p221)


あとは表題作のみ。

「遊戯の終わり」


この短編集の「殺虫剤」や、カルヴィーノの「魔法の庭」のような、少年少女期の、そして終わりの物語。後者は特に線路が出てくるということで共通点が多い。

 私たちはルトおばさんに呼ばれているからと言って立ち去ったが、彼女はひとりレモンの木に群がる蜂を見つめていた。
(p243)


3人の少女のうち、視点人物は「私」なのだが、物語の中心はここでいう「彼女」であるレティシア。病弱であるけれど、一番恵まれていて、なおかつ線路際の彫像・活人画ごっこで少年にみそめられるのもレティシア。「私」とオランダ(もう一人の少女の名前)は彼女と少年の間の手紙のやり取りを想像して見守るしかなく、そこで「終わり」となる…何が?

最後は解説から、オクタビオ・パスのコルタサル評。

 詩はユーモアと境界を接し、-審判官であると同時に共犯者でもある-コルタサルの目は、事物や人間のうちに潜むグロテスクな側面を鋭く見抜く。
(p251)


(2021 08/08)

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