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「アルテミオ・クルスの死」 カルロス・フェンテス

木村榮一 訳  新潮文庫・現代世界の文学
(岩波文庫に同訳が復刊)

人称と時制

この小説の特徴であるものの一つとして人称がころころ変わるというのがある。クルス自身の意識である一人称、語り手の三人称はまあわかるが、問題は二人称「お前は」。ただその直前のクルス自身の意識の部分に、自分が分裂しているみたいな記述があったので、なんかその片方がしゃべっているのだろうと今のところは思っている。

それより?奇妙なのは、この二人称の部分で語りの時制を未来形(昨日のことなのに)でしていること。今のところなんでそうなのかよくわからない。二人称ならビュトールとか他の例もあるが…

なんか人称も時制も他のもろもろなものも、ここで全部まとめてしまえ、というような感じがするが…どうでしょう。
(2012 12/05)

極端な正論?

 極端なものはすべてその反対物を、つまり残酷さはやさしさを、臆病さは勇気を、生命は死を内にはらんでいることをお前はよく知っている。
(p32)

「お前は」なので、二人称でしかも未来形の語りなのだが…それはともかく、なるほどと心底からはまだわからないまでも、なんとなくその通りなのではないか、と感じる。ここで、アルテミオ・クルスの分身が語っているのは、本人に対してだけでなく、メキシコ全体に対しての語りかけでもあるだろう。

昨日の日記では人称と時制のごたまぜについて書いたが、それだけでなく場面も半ページごとに移り変わる。クルスと母娘の場面が交互に代わる三人称の語りが終わったら、死に直面しているクルスの一人称、そして二人称。語りの集積によって世界を記述しようとしているのか。

一人称のところにたびたび出てくるテープレコーダーは何の意味なのだろうか。筋的にはなんらかのキーになるのではないかと思うけど…
(2012 12/06)

メキシコ革命後、死んだ仲間の家に乗り込むところ。妹が目的みたいだが、そのベルナル家みたいな旧来の地主階級と、野心持ったこれから成り上がるクルスとの対比がこれから繰り広げられる…のかな?
1日10ページくらいしか進んでない…
(2012 12/07)

追憶とは

 目蓋を閉じた時、お前は知るだろう。小さくて不完全な感光板の奥まで射込んでくる光の強さによって、お前自身の意志や身体の調子とかかわりなくさまざまな感情が生まれてくるということを。
(p64)

今朝読んだところはそんなに多くはないけれど、この小説の成り立ち(なぜ二人称で一人の人間が分裂しているのか)をある程度説明してくれるところでもあるだろう。

続いて、

 過去へ過去へと思い出の糸をたぐってゆくことで、お前は自ら望むものを手に入れるだろう。
 追憶とは満たされた欲望にほかならない、
(p66~67)

ここも小説の成り立ち説明部分でもある。細かいけど「思い出」ってのはも少しよい語はなかったのかな(原著でどうなっているのかはわかりませんが)。あと、「自ら望む」のは誰なのかな?クルスのうちどちらか?あるいはその統一体?追憶というのは欲望と密接な関わりのある、不断の営みなのかもしれない。
(2012 12/08)

昨日から今朝にかけて読んだところは、前の場面より更に前、メキシコ革命の戦乱。クルスは戦場から逃げたという認識を抱き、突然夜に敵の包囲を一人で破って逃走する。この逃げたという認識というと、自分はすぐ「ロード・ジム」思い出しますが、ジムとクルスの認識はどう違うのか。少なくとも彼ら二人の後生見るとまるで正反対のような気がする…
(2012 12/10)

香の中の時間

 神が存在しないのであれば、侮辱するにもしようがない。これからは何を言われても反論するまい。反論するというのは、相手の言い分を認めるということだからな。
(p128)

結局、最初の命題もそれに対する反論も議論する場は同じことを認めないと議論すらできない。それを解決しようとしたのが例の正ー反ー合の弁証法なのだろうけれど、人間はそんなに悠長に考えられずに表面だけ見て賛成か反対かを決めてしまう。元の文から離れていっているような気もするが・・・

 香の匂いの中には時間がこめられていて、さまざまなことを語りかける、
(p135)

こっちは、もう何も言わないで、この文の詩的な味わいを愉しもう。この作品のタイトル「香の中の時間」でもよかったのかも?
(2012 12/11)

波と足跡と時間

…さて、「アルテミオ・クルスの死」はやっと真ん中くらい。

 打ち寄せる波が足跡を次々と消していった。踏み出した足跡だけがつかの間の唯一の足跡なのだということにも気づかず、自分の足跡を見つめたまま…。
(p178)

解説拾い読みによると、この小説の一つのテーマは「時間」らしい…いまを顧みず、未来へ未来へと志向する精神を批判している…とすれば、ここなどもその一つの箇所。ぽつぽつと過去の一場面が一見バラバラに提示されるというこの小説構造は、波(忘却)に消されることがなかった、或いは波が引いても残っていた数少ない足跡をたどっている…ということかも。
(2012 12/13)

想起と回帰

後半に入り、いよいよ物語の核心に入ってきました。

メキシコ革命の戦乱時、後のクルスの妻の兄と地下牢に入っていた時、処刑場はどうなっていると聞いた瞬間に、今までは振り返りもしなかった過去(出身のベラクルスの農園など)が脳裏に浮かんだところ
(p210)。

一人称の箇所で、一切のものを投げうち、一切のものを獲得するのはなんというのだ、というところ
(p231)。

それから二人称の箇所で、今までクルスに語りかけていたような感じだったのが、生命のまた人類の発達の過去に遡っていく語りかけになるのはなんでだろう
(p233~)。
(2012 12/15)

少なくとも3人の二人称

今日は久しぶりの平日休みだったので、午前中ゆっくり「アルテミオ・クルスの死」を50ページほど読んだ。前から「馬」がどうたらとかいうセリフが断片的に出てきて気にはなっていたが、ここでもう一つの筋の核心、クルスの息子ロレンソの物語が想起される。
ロレンソはアルテミオによって(母から切り離されて)クルスの生まれ故郷であるベラクルス州の農園でも育てられていく。先の「馬」のセリフはこうした父子の会話で出てきたもの。そうした中、ロレンソは父親が果たすことのなかった一つの可能性の物語を生きる(または死ぬ)ことになる。スペイン市民戦争に義勇軍として志願し、そして敗れピレネー山中からフランスへ逃れる途中でナチスの爆撃機によって殺されてしまう。
ここでの三人称場面の主人公はアルテミオではなくロレンソ。アルテミオは果たせなかった自分の物語(作中では「鏡」とも呼ばれます)をこの想起(実際にはロレンソの仲間が送ってきた彼の手紙でそうした戦況と死を知るのだが)している。

ここで二人称部分の語りに着目してみると、この層はいろんな語り手が混在しているように思える。アルテミオ自身の分身、前に書いた人類の進化を見届けている者、そしてアルテミオの分身が問題になるのならそこに当然このロレンソも加わってくるようにも思える。
表面的には前と変わらない語りかけだとしても、そこにはその声が伝わってくる。となれば、他にもいろいろな声が響き渡っているという可能性も。

もう一つ、ロレンソがアルテミオの言わば分身として死んだのならば、アルテミオの分身として死んだとされる人物がもう一人いる。それがゴンサーロ・ベルナル(アルテミオの妻カタリーナの兄)で、これは対称構造になっている。そしてこれでカタリーナのアルテミオに対する感情もわかってくる。

そしてアルテミオ・クルスは今、死のうとしている。(2012 12/17)

書き忘れたこと少々。ロレンソの視点が始まったところで、椅子に座ってテラスにいる老人がちらっと出てくるが、これって自分のもう一つの可能性がどうか見ているアルテミオなのかと思った。後、書き足すことがあるとすれば、前読んだ「脱皮」でもこの作品でもヨーロッパの第二次世界大戦が裏舞台になっているが、フェンテス自身はその頃何を体験していたのかな、と考えたこと…かな。ちなみに今朝はかなり今のアルテミオに近い後年の年越しパーティーの箇所を。
(2012 12/18)

張られた糸と自由

 今日、死がお前の起源と運命を同列に並べ、その両者のあいだに、自由と呼ばれる糸を張る、
(p317)

文の途中で切ったみたいですが、これでこの章?は終わり。まあ、この二人称部分は全体がそんな感じです。そしてこの問いかけなのか語りかけなのかが、そのまま次の想起の場面の導入になる。

にしても、糸と自由というのが、普通には反対(とは言わなくてもあんまり結びつかない)のイメージだと思うのだが…鏡の比喩と並び、この辺にフェンテスの時間観が現れているのかも。
(2012 12/19)

伏線はフォークナー?

「アルテミオ・クルスの死」も300ページ越えて、クルスが少年だった頃の場面になってきた。クルスの祖母が零落した農場の屋敷のある一部屋に引きこもって住み、クルスはそのそばの小屋で混血のルネーロと半ば隠れて生活している。なんだかこの祖母とクルスには誰かの代わりに長生きしているという意識の共通性があって(暴動や災難の起こった日に生誕したという点も似ている)、この祖母何十年かの過去への引きこもりを今クルスが死ぬ直前に凝縮して体験しているような…

あと、農園という設定といい、敗北した側の生活といい、出生の秘密といい、何より閉塞した部屋の語りというのが、フォークナーの世界…特に「アブサロム、アブサロム!」を思い出させずにはいられない…フェンテスにはフォークナー論もある…
(2012 12/20)

頭上で瞬く星はお前の死

「アルテミオ・クルスの死」読了。

p349から始まる二人称の箇所は全文書いてもいいくらい張りつめた詩的な文章。

 その時間が少年であると同時に瀕死の老人でもあるお前のうちで具現されるだろう、そしてお前は今夜、神秘的な儀式を通して、切り立った岩山を這いのぼってくるちっぽけな虫けらと無限の宇宙を静かに巡る巨大な天体をひとつに結び合わせるだろう・・・。
(p352)

クルス少年が農園から抜け出して岩山に登った夜の一幅の絵。人間が幼児期から抜け出して自己を持ち始める時期。夜空に瞬く星の光はここに到達する頃には元の星は死滅しているのかもしれない。そんな死と、それから今まさに一歩を踏み出したクルス少年が一つに合わさる、そんな時。確かカルペンティエールの「光の世紀」でも、あれは大西洋を挟んだ郵便の記述だったが、そういう構図が描かれていた。生と死が、歩き出したクルス少年と死にゆくクルス老人が、人称全てが、一つに溶け合う。

 神話とは、現在において実現しうる未来であるところの過去である。
(p377 解説中のオクタビオ・パス「弓と竪琴」からの引用より)

(2012 12/23)

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