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「パンダグリュエル」 フランソワ・ラブレー

宮下志朗 訳  ちくま文庫  筑摩書房


シーニュの行方


難物?ラブレー「パンタグリュエル」を読み進めている。

 そればかりかガルガンチュアは、その予知能力によって、この子が将来、のどからから人の支配者となることを透視していたのである。このことは同時に、もうひとつのもっと明らかな表徴(シーニュ)として顕現することとあいなった。
(p51)


パンタグリュエル、ここに二言語の複合語として「のどからから」という意味ができている。当時のリヨン周辺は干魃が続いていた。この名前が後に「のどからから人」を従えるとなるのは表徴ではないはずなのに…と思っていたら…

 こりゃ、幸先(シーニュ)がええわ。
(p52)


パンタグリュエル誕生を描く次ページにこんな文が…
シーニュというのは、なんとなく宗教的意味を感じさせる言葉ではないか、と今思う。

 「眼の病気ほど、視力に悪いものはないのである」
(p76)


疲れたら、こういう文で楽しんで。「自明の理」というラブレーお得意の技法。
(2022 01/02)

ごった煮の小説にごった煮の感想

解説…第33章、ブロンズの球の中に入ってパンタグリュエルの身体の掃除をする…というシーンを映画「ミクロの決死圏」になぞらえるのは笑った。宮下先生、意外とSF好き?

 (パニュルジュは)パンタグリュエルの無意識の欲望あるいは克服すべきエゴの体現者として、つまり鏡=反省する意識として考えるのがわかりやすい。
(p459)


 ガルガンチュアの手紙(第8章)は、このように集積された知をめぐる風刺的あるいはコミカルな章(第7章守旧派の架空の書物列挙←この中で一冊だけ、ユマニスト側の書物が入っているのは何故か、第9章パニュルジュのハナモゲラ語のような架空言語を含む多言語パロディ←ここの「意訳」が非常に楽しい)にサンドイッチにされているわけで、仮に手紙の地模様がシリアスなものであったとしても(ちなみにこの第8章、全面キケロばりの文章(引用含む)だったり、最後に「ユートピアより」と書いてあったり)、挟撃されることにより、その価値は、あたかもオセロの駒のようにひっくり返されてしまうはずだ。
(p462)


(引用文の中にいろいろ放り込んでごめん…)
本文はp251、第20章まで。ここのパニュルジュとイギリス人トーマストとの間のジェスチャー問答は、落語の「蒟蒻問答」思い出させる。
(2022 01/04)

アルナク王との戦い


「パンタグリュエル」を進めている…のだが、時に宮下氏でも意訳不可能な地口含む心地よい(調子よい)文章はサクサク進むけど、これだけでいいのかな、という気もする。
例えば、後半大詰めのアルナク王との戦い…この「アルナク」というのは、ギリシャ語か何かで「頭のない」とか「司令する権限のない」という意味の造語らしい。名前の付け方も意味深な上、次のエピステモンの首が切れたのを元通りにくっつけるというところにもつながるのかな。

その章最後では、あの世へ行ってきたというエピステモンが見たという、王様や皇帝や教皇などがあの世では貧しい行商人などに変貌し、生前には貧しかった哲学者に使われる、という列挙と挿話がある。バフチン流だな、とも思うし、権力批判にも、ただ楽しんでいるだけのようにも見える。とりあえず、フランス王権に結びつく人物は前の版にはあったけど、この決定稿では削除されているということを踏まえて、さあどうなのかな。
一方、その前のところで、パンタグリュエルたちが戦いの記念碑(こういうの、当時は流行っていたという)を建てるのだが、「ガルガンチュア」(成立は「パンタグリュエル」よりあと)では、そういう風潮に批判的な書き方になっている、というのも気になる箇所。
(2022 01/05)

器としての文学装置


昨晩「パンタグリュエル」本体、今日先程この「パンタグリュエル」の元というかきっかけというかの「ガルガンチュア大年代記」読んで、本全体読み完了。
「パンタグリュエル」本体からは、パンタグリュエルの口の中に入って、キャベツを植えてたりいろいろな人々に出会うところ。

 地球の片側に住んでいる人々は、その反対側の半分で、人々がどのような生活を営んでいるのか知らない
(p367-368)


新世界の人々が、「発見した」と言って渡ってきた旧世界の人々を見つけた時に言わせてみたい台詞でもある。
あとは、パンタグリュエルの淋病治す過程で出た尿が、各地の温泉の元になったとか…温泉入りに行けないではないか…

解説からはもう一文

 しかしながら、作者ラブレーにとって、ストーリーとは、自分の思想・信念や文学的な挑戦を盛りこむための、自由自在な器だったのだ
(p447)


元の「ガルガンチュア大年代記」と比べて、最も異なるのはこの「盛りこむ」量の破格さだろう。この間読んだ「ラブレーとルネサンス」関連づけようとしてたけど、あんまりというかほとんどできなかった…唯一、「ラブレーは中世とルネサンス」の交点にいる、という指摘をたまに思い出して読んでたくらい。こういう「盛りこみ過ぎ」作品はそんな端境期にしかできないと思う。
(2022 01/06)

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