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「ラブレーとルネサンス」 マドレーヌ・ラザール

篠田勝英・宮下志朗 訳  文庫クセジュ  白水社

中野古本案内処にて購入。
(2021 09/23)


ユマニスムと宗教改革

昨夜ちょっと読んだところ。

 特にルネサンスの精神は、ユマニスムとキリスト教の和解を求めていたが、それにもかかわらず改革派の厳格な教義と対立した。そして人間の尊厳というものを自覚し、人間の弱さよりもその点を強調して、人間の肉体と魂の全的な開花を願い、地上の幸福を見出す権利を確認し、神と世界の調和を目指した。人間の条件をこのように楽天的に承認することは、ルター派やカルヴァン派の採るところではありえなかっただろう。
(p22)

ユマニスムと宗教改革との関係。次のユマニスムとルネサンスの関係はこの本のタイトルからして重要と思われるが、今のところ、ルネサンスにユマニスムが含まれるという包含関係で論じられている。
(2021 12/12)

ラブレーとその吸収した文学

ラブレーの職業? 修道士であり、医者であり、法律も論じ、もちろん文学者ユマニストであった。

ラブレーが吸収した文学…古代ギリシャ・ローマ(特にルキアノス)、近代文学(つまり同時代文学)フランチェスコ・コロンナ、ビュデとエラスムス、中世文学及び中世民衆文化(ここを掘り出したのがバフチン)。ただしこの本の著書マドレーヌ・ラザールは、民衆的な要素とユマニスム的な要素が一体となっていることに注意を呼びかける。

 このグロテスクなレアリスムによって引き起こされる笑いは、必ずしも喜劇的なものと一つとなっているわけではなく、才気ある人々の笑いとは本質的に異なるものを持っている。そして破壊力を内に張らせていて、社会的あるいは精神的な抑圧の力に対する反乱を写し出しているのである。
(p49 ヴィクトル・ユゴーの言葉から)

(2021 12/13)

パンタグリュエルシリーズの偏移

パンタグリュエルシリーズ…第一、第二の書は、バフチンの指摘するような民衆文化の層が濃厚。第三、第四、そしてラブレーが関与したとしても少しだけという第五の書は、ユマニスム的な思想が全面に出てきて、民衆文化は背景に下がる(例えばパンタグリュエルらが巨人であるという設定は、第三の書以降忘れ去られてしまう。

ソルボンヌなどから批判される一方、カルヴァンのような改革派からも批判される。一方、意外にも国王の庇護は受けていたようで…

第三の書のパンタグリュエル草というものの発明?これはどうやら麻のことを指しているようだ。麻は衣服から大航海時代の帆船まで広範囲に重要。ここいら辺ぜひ読んでみたい。しかしここも、似たような箇所の第四の書の「大腹宗匠」も、ラブレーのテクストは解釈の幅がいまだ揺れているという。

(2021 12/15)

特に第一、第二の書に多い食べたり出したり…する記述は、ルネサンスの一側面の生命・人間(人体)復興という思想がベースにある。

テレーム挿話は、ユマニスムというより、既に文化的上昇を遂げた人々を想定して書いている。

このシリーズには、いろいろ女性蔑視的な記述多い。それは当時は当然なことだった。それにラブレーが一番重要視しておいたのは自由であることだから、そういう記述だけを鵜呑みにしてラブレーは女性蔑視的だとするのは短絡的。

(2021 12/16)

ユマニスムと戦争ほか

前回書き忘れたけど、ユマニスムはストア派やエピクロス派に近づいているという。

戦争について、侵略戦争を否定し、自衛のみを認めているのはユマニスム全体で同じ。ただエラスムスが戦争全体を否定し軍隊についての記述をしていないのに対し、ラブレーは自衛のための常備軍は持つべきだという、またトマス・モアは常備軍を否定し、ユートピア国の全市民に軍事教育を施す。

第二のの書(ピクロコル戦争)までは、戦争に勝利しても征服はせずに捕虜も解放しているが、第三の書では植民地主義の思想が出てくる。仕えていたランジェ侯のサヴォイ地方統治、あるいはフランソワ1世のアメリカ植民の影響が見られる。

 カトリックと改革派という二つの宗教ということなのだろうか。否、むしろ多くの宗教があったのであるとというのも宗教は二つだけではなかったのであり、統制のとれたプロテスタンティズムと信仰を純化したカトリシズムを対立させるだけでは、この基本的な世紀の豊かさは決して説明できないからである。
(p125 フェーブルの言葉)

ラブレーはエラスムスと同じように福音派。

ラブレー自身が自覚していたかはわからない(出版元は明らかに連続性を意識していた)が、ラブレーの作品が「薔薇物語」のジャン・ド・マンの後継という認識があった(自由意志、生と歓喜への愛など)。そいえば、「薔薇物語」の最後の方には、テレームに近い何かの園みたいなのもあったなあ。
(ラブレーと「薔薇物語」は突き詰めるべき面白いテーマかも)

(2021 12/17)

交点としてのラブレー

結論と訳者あとがきを朝読んで、とりあえず読み終わり。

まず、巧いまとめなので、申し訳ないけどほぼ1ページまるまる引用。

 さまざまな要素の混淆という作品の性格は一目瞭然に見て取れる。『パンタグリュエル』の活気から『ガルガンチュア』の象徴主義と写実主義へ、あるいは『第三之書』に見られる博識から『第四之書』の政治風刺に至るまで、極めて意想外の要素が巨人物語の素朴な主題に接木されている。それらは、書物を典拠とするもの、民間伝承に由来するもの、学問的な源を持つもの、あるいは現実の体験、その時代の精神に関わる諸問題など、実に多種多様なものを供給源として、そこから作品に注ぎ込まれた。そして作品を豊かにすることに対応するのは、驚くほどの活気や、比類のない言語想像、時として場違いになりかねない博識などで構成された作品そのものである。
 作品に見られる著しいコントラストは、文体にも現われている。ラブレーには一つの文体というものは存在しない。そこにあるのは複数の文体であって、それらは極めて多種多様な文学ジャンル、語り物・騎士道物語・対話や独白・笑劇・演説・叙事詩・説教などから借用したものであった。そこからさまざまな調子を並列した作品固有の音色の多様性が生まれてくる。
(p139)

16世紀、ラブレーの時代、フランス語は変動期にあって、その時代だからこそ、一方ではルネサンスで復興したラテン語のキケロなどの名演説とかから、また一方ではまだ残る古仏語の単語など民衆文化から貪欲にラブレーは自身の作品に取り入れる。p146にあるように、「ラブレーの作品が十字路に位置する」のだ。

 人間の生を再現しようとする配慮と意欲は一つの言語の創造を必要とした。精神と肉体を分かたず、また思想とその具体的表現を切り離さずに、人間の生の多様な側面をあまさず捉えうるような、極めて柔軟な言語の創造である。いくつかの対照的な文体が溶け合っていたり、同一の挿話のなかにそれらが同時に存在したりするのは、そのことに由来する。こうして作られた言語は、日常生活を映し出すのに適した写実的とも言える言語であり、また、人間に関わる現実の多様性と変わりやすさをより正確に描き出すために、秩序と規則性というものを排除する自然な言語でもある。
(p144-145)

著者マドレーヌ・ラザールはルネサンス文学の中でも特に演劇が専門なのだという。

前に読んだ「フランス・ルネサンスの人々」始めとする渡辺一夫氏の著作も、全集などで紐解いてみようかな。二宮敬氏もいるし・・・

おまけ

「愚者の王国 異端の都市」ナタリー・ゼーモン・デイヴィス 平凡社

参考文献に挙げられている一冊。16世紀のフランス民衆文化。このナタリーと夫のチャンドラの夫妻は、マッカーシズム全盛期、共産党支持を変えなかったため、パスポート剥奪とかされたみたい。ナタリーの他の著作には「マルタン・ゲールの帰還」平凡社(平凡社ライブラリー版「帰ってきたマルタン・ゲール」)など。「愚者の王国…」は訳者、宮下氏の他にマルタン・ゲールを訳した成瀬駒男氏などの共著。

平凡社ライブラリーが読みたい本の追い打ちを…
(2021 12/18)

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