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「灯台へ」 ヴァージニア・ウルフ

鴻巣友季子 訳  池澤夏樹=個人編集世界文学全集
(「サルガッソーの広い海」を併録、そちらは別項立てて掲載)

補足:ヴァージニア・ウルフとジーン・リースって意外にも8歳しか離れてない。ウルフが1882年生、リースが1890年生。
作品自体は「灯台へ」が1927年、「サルガッソーの広い海」が1966年、と大きく離れている。
以前、御輿哲也訳の岩波文庫で読んで、これで再読。前回は、第二部の「時はゆく」での時間の進め方に圧倒されて、それ以外の記憶がほぼない・・・
その時の記録はこちら ↓


「灯台へ」鴻巣友季子バージョン

 待ちに待ったあの夢の塔に、ひとつ夜を越し、半日も海を行けば、手がとどくような気になった。齢六つとはいえ、彼もまたあの大一族に属していた。つまり、それはそれ、これはこれと、気持ちを分けることができず、楽しいにつけ悲しいにつけ、先のことを考えると、きまって手元がよく見えなくなってしまう質だ。
(p6)

一つの物、一人の人が、その延長を越えて重なり合って干渉し合う場、その場がこれから繰り広げられることを、最初のここで示しているような。

 これから大遠征に出ますのよ、そう言って夫人は笑った。町へ繰り出すんです。「切手や便せん、煙草などのご入り用はございません?」カーマイケルのそばに立ち止まって訊く。ところが、いや、けっこう。彼は大きな太鼓腹の上で両手を組み、こういうご親切にはねんごろにご返答したいところだが(ここの奥方は愛想はいいが、いささか細かい質だな)そうもいかんのでね、とでも言うように、目を瞬いた。
(p14)

「ラ・カテドラルでの対話」でも多用された、フロベール起源の自由間接話法。ここでも話者をぼかすために多用している。
この例では大遠征に出るとか、町へ繰り出すとかもラムジー夫人の会話なのに、次の「」文と異なり地の文となっている。逆に言えば、どうして次の文はわざわざ「」付けなければいけなかったのか。対話している場に聞き手(読者)をそこで立ち合わせたかったのだろう。なぜならこれは対象人物が移り変わりますよ、というシグナルだから。
夫人の内面にあるいはいた読者は、この直接話法で会話の場面に目を向け、そこにいるカーマイケル氏に乗り変わる。乗り変わりに成功したら、また地の文に戻る。彼が発話したのは多分「いや、けっこう」だけだっただろう。

1、「ところが」は誰が言って(内言)いるのだろう?カーマイケル氏でなければ、ラムジー夫人? 作者ウルフ? それともこの北の島にいる何者か?

2、こういうご親切には…というのは実際に発話していないカーマイケル氏の内言なのだけれど、これはカーマイケル氏の中に入って言っていることを取り出したわけではなく、誰か外部の人物が想定している(だからそれは誰か?)。では()内はどうか?内言の中の内言。一段深いところにそれは位置している。

自由間接話法はとっかかると次から次へと気になることが出てきて長くなるのが難点?
(2021 03/22)

波とブヨとキッチンテーブル

 ふだん岸にうちよせる単調な波の音は、あるときは夫人がもの思いにふける傍らでおおむね規則正しくなごやかなリズムを刻み、子どもたちと一緒にいるときなどは、懐かしい子守歌を繰り返し繰り返し聞かせて、「わたしが守ってあげよう-わたしはあなたたちの味方だ」と、自然の優しい声で囁いてあやしてくれる気がするかと思うと、突如として、手がけている仕事から少々気がそれているときなどはとくに、ふっとそんな慈悲深い含みをなくし、一転して薄気味わるいドラムの轟きのように自然の拍子を無情に刻んで、いつかはこの島が崩れ去って海に飲みこまれる日のことを思わせ、生活のこまかい雑事に追われて毎日を過ごす夫人に、いずれすべては虹のごとくはかなく消えることを改めて思い知らせてくる
(p22)

長文引用…

ウルフは「波」の作家なのだろう。前に読んだ「波」もそうだけど。一方、最近読んだとこだと、バスケスの「物が落ちる音」とか、ル・クレジオの「隔離の島」など聴覚が印象深い作品が多かった。

p27から始まるリリーとバンクスの話している場面。小説の文章はリリーに続いてバンクスに、と人物の意識に自在に分け入っていくので、それに読者はついていきながら、でも実際にこの二人の会話はどう進んでいっているのかな、と聞き耳を立ててみたくなる。そんなに活発な対話をしているとは思えないけれど、時々息継ぎのように現れる実際の発言がその対話を思い出させる。

という中のリリーの意識にだいぶつきあったあと、

 などと、さまざまの思いが、ブヨの群れのように上へ下へと目まぐるしく踊っていた。ブヨたちはばらばらでありながら、目に見えない伸縮ネットのなかでみごとに統制された動きを見せ、リリーの頭のなかで上へ下へと踊り狂い、しまいには梨の木の枝間に踊りこみ、あたりを飛びまわり、見れば、その木の股には、例の使いこまれたキッチンテーブルがラムジー氏の肖像としていまも掛かっていた。
(p33-34)

アンドルーがリリーに教えたところによると、ラムジー氏の哲学者としての仕事は、「それが見えないところで、キッチンテーブルをじっと想像してみること」ということらしい。実体論か認識論か。とにかく、リリーはこれ以来、ラムジー氏の仕事を想定する時は必ずキッチンテーブルが念頭に浮かぶようになったという。

キッチンテーブルに気を取られて、ブヨを見失ったぞ…
(2021 03/25)

Rの思考

 かなたを強く凝視するうちに、トカゲの硬い瞼のようなものが目の前にちらつきだし、Rの字を覆ってしまった。その一瞬の暗闇に、ラムジーはRには手が届くまい-あれは失格者さ-と言う声が聞こえてくる。Rには決して辿りつけまい。いや、もとい、Rだ。Rとは-
(p45)

ラムジー氏はAからZまで一瞬で手に取る天才ではないけれど、Aから順を追って進んできたと思う。そしてQまでは辿りつけたという。そしてR…

(個人的にはQまで行ったという自信がすごいなと思う。アルファベットの半分以上だよな。この自分はAも行っていないと思う…さてラムジー氏の頭文字はLかRか)

トカゲは現在のラムジーがいる場所の草むらになにがしかいたのかもしれない。ラムジー氏の意識はそれをかすめ取りつつRを考えている。ラムジーにはRには手が届くまいと言っているのも、彼のRの思考と何か別のところで聞いた(彼自身とは全く関係ないことかもしれない)言葉が合成して、現在の彼のRの思考から派生したのかもしれない。
(2021 03/27)

ラムジー氏は海を眺める。

 海に突き出した小さな岩場に立って人間の無知の闇とむかいあい、人がものを知りえぬまま、その足元にある地面が海に浸蝕されていくさまを直視する-それもラムジーの定めであり、天与の才だった。
(p57)

 人生とは無数の小さな出来事から成り、人はそれを一個ずつ経験するものだけれど、そうした出来事が巻き込む波のようになってひとつにまとまる感覚。波にふわりと持ちあげられ、浜辺に打ちつける波とともに投げだされるような…
(p61)

海に囲まれた島。そこに打ち寄せる波。
波は海岸を侵食し、飛沫をあげる。
人の受ける一つ一つの印象もそれに擬えている。
常になんらかの波、なんらかの原子に曝されている。

 そして、寝室の窓は開けてまわる。ドアは閉めてまわる(そのさまを思いうかべながら、頭のなかでラムジー夫人の口癖を思いだそうとする)。
(p64)

御輿哲也訳で読んだ時に自分でメモした表現。他者の侵入は拒むけど、他人の動向は観察する…というだけでもないような…
(2021 03/28)

灯台の光

 夕方も遅い時間になってきた。庭に射す陽がそれを告げている。白んでいく花の色と、木の葉のつくる薄暗い影がいっしょになって、不安な気持ちをよびおこす。(p79)

 こんな夕まぐれにこんな気分で灯台にの光を見つめていると往々にして、目に入ったなにかにことさら自分を重ねてしまうものだ。というわけで、あの光、長く、しっかりと撫でていくあの条が、わたし。編み物を手にしたまま、身じろぎもせずなにかを見つめ、じっと見つめているうちに、見ているものと同化してしまう。
(p82)

灯台の光になった自分を想像してみよう。音でも光でもなにものでも、外部のものの原子を取り入れて、逆に自分の原子を外に放出している。そこで起こる内部と外部の原子の並列。窓を開けて、ドアを閉めるのは、こうした経験を求めてのことなのか。
(2021 03/29)

 ほんのひととき、なにか世界がばらばらに飛び散ってしまったような、茫漠とした、心もとない感じがあたりに漂った。薄れゆく入り陽のなかに立つ彼らはみな、くっきりと際だち、空気のように軽く、たがいに遠く遠く隔たっているように見えた。
(p94)

一人一人がいる平面はそれぞれ違うけど、遠くから見るとそれらの平面を貫いて同平面化して見る。でも、それぞれの平面の軌道はお互いに遠ざかっている、とか、そんな感じ?

で、この小説はだいたい登場人物の誰かの意識に入り込んでいる描写が多いのだけど、ここで「彼ら」とか「見えた」とか言っているのは誰? 作者? 作者の視線かもしれないけれど、だとしたら、例えばこの場面描き上げて悦に入っている画家の心持ちか、あるいは見てはいけないものを見てしまった感じか、この時点の何十年後の変化を知っている時間旅行者が物陰に隠れて見ている設定か。
(2021 03/30)

晩餐会に入り込む海

 見知らぬ無人の地へと漂っていく夫人に気づき、じっと見守っていたのは、リリー・ブリスコウだった。その地に彷徨いこんだ人を追いかけることはできないのに、遠ざかると心からぞっとして、その姿をせめて目で追ってしまうのだ。彼方へと消えゆく船の帆が、水平線のむこうに沈むまで見守るように。
(p108)

別に海上の描写ではなく、ここはラムジー家の夕食。リリーもバンクスもタンズリーもカーマイケルも集まっている。夫人は皆にスープを配りながら、心は海の涯へ? そしてそれを見るリリー…という構図。美しさと諧謔さが同居する、そんな表現。

 さて、彼もリリーに感謝して好意をもったようだし、お喋りも楽しみだしたようだし、と、ラムジー夫人は考えた。わたしはあの夢の国に、あの現実にはないすてきな場所に、そう、いまを遡ること二十年前、マーロウのマニング家の客間に、もうもどってもいいでしょう。あそこでは、なにかに急き立てられたり、不安に駆られたりすることなしに、動きまわっていられる。だって、将来のわずらいがないのだから。いまの夫人はマニング家のその後も、自分たち一家のその後も知っている。こうして思い出にひたるのは、おもしろい本を再読するようなものだった。なにせ二十年前のことで結末はわかっているし、人生は今夜の晩餐会から先も、流れ落ちる滝のように行く末も知らず下っていくわけだが、追憶のなかのひと幕はしっかりと封じこめられ、彼我の岸にはさまれた湖のように穏やかに横たわっていた。
(p119)

マニング家の思い出なるものがどういうものなのか、この前にちらっと話されるだけなのでよくわからないのだが、夫人にとっては最上の思い出なのだろう。何度も再読したのだろう。そうそう、この「灯台へ」自身も再読の本なのでした…
(2021 04/01)

「灯台へ」密やかな一夜を終えて

第1部「窓」読み終え。

 ものごとにひとつのまとまりが、安定感がある、という実感。言うなれば、変化を被らないなにものかがあり、ひときわ耀きをはなっている(灯りを反射して波打つ窓を、夫人はちらりと見やった)。流れゆくもの、はかなきもの、幻影のようなものの面でルビーのごとく鮮やかに。そうして夫人は昼間にも一度味わった和やかで安らかな感覚を、夜になってまた味わったのだ。まさにこういう瞬間から、永久に残るものがつくられるんだわ。夫人はそう思った。いまこの時は、きっといつでも残る。
(p134-135)

はかないものの表(漢字変えてみた)の、靄のような変わらないもの…第3部と対になるような一日であることはわかるけど、未だ自分は実感できていない。小説内で擬似体感。

第1部の表題になっている「窓」が( )内にちらりと出てくる。スコットの小説に対する議論、その中で「そういう本っていつまで残りますかね?」という言葉に敏感な夫ラムジー氏と、その為にこちらもそういう言葉に敏感な夫人。

 まるで、仕切りの壁がごくごく薄くなって、実質的にすべてがひとつの流れとなったような(つまり安らかで幸せな気持ち)、椅子やテーブルや地図が自分のものであり、彼らのものでもあるような、どちらのものでも構わないような気分になるのだった。
(p146)

こういう人物間の意識の交流というテーマは、このあといろいろ出てくるけれど、この小説はその走り。意識の交換は、人同士だけでなく物にも通じるのか。

この章最後で、どうやらこの日に婚約が決まったポールとミンタ、そのミンタを見ているプルーなどで、夜の浜辺へ行く。が、この次の第1部最終章では、ラムジー夫妻の部屋での描写のみで、このポール・ミンタグループの夜の浜辺散歩はいわば宙吊り状態。

と、これが第2部「時はゆく」の冒頭に繋がってゆく。

 「結局、将来のことは時がたってみないとわからんのだよ」

 「どこが海でどこが浜なんだか、見分けがつかないわね」

(p162 から抜粋)

とか、言いながら。そして、カーマイケル氏がウェルギリウスを読むからと読書灯をつけていた以外の灯りは、次々と消されていく…さて、そろそろ、時が動き出しますよ…

(2021 04/04)

「時はゆく」家は…

 ランプの明かりがすべて消えるころ、月は雲間にかくれ、霧雨が屋根をそっとたたきだすと、沛然たる雨のごときはてしない暗闇があたりを包みこんだ。こればかりはなにものも生き延びられまいと思うほどの闇の氾濫であり、その茫洋とした暗黒が鍵の穴や壁の罅に忍びより、窓のブラインドの奥にまわりこみ、寝室に這い入り、こちらで水差しや洗面器を飲みこんだかと思うと、あちらで赤いボウルや黄色のダリアを、衣装だんすのがっしりした塊を四角い角ごと飲みこんだ。
(p163)

 [ラムジーはまだ暗いある日の朝、廊下を歩いていてよろめき、両腕を前に差しのべる。しかし前の晩、予期せず妻が急逝した身とあっては、腕を差しのべるのみだ。その手は虚ろに宙をつかむ]
(p166)

時々こうして[]内に一家ほかの情報が提供される。そしてここでは、ラムジー夫人が亡くなったことを間接情報としてラムジー氏を通して受け取る。他には、カーマイケル氏が詩集を出して好評だったということや、アンドルーは戦死し、プルーは出産後病死した、など。

家は雑草が繁茂し、残してきた服が虫にやられて(こういうところから、一家がここを離れた状況がある程度推察できる)、もういつ倒壊してもおかしくないところまできた。しかし、ここで「娘さん」(誰?)からの指示でまた整備して元に戻すように。老婆二人とどちらかの息子の計三人。

 婆さんは呟いた。家じゅう荒れ放題じゃないか。ただ灯台の明かりだけがいっとき部屋に射しこみ、冬の闇にうもれたベッドや壁に突然のまなざしを投げて、床からはえたアザミやツバメ、ネズミや藁くずを、諦観したように眺めるだけだった。
(p178-179)

 波は静かに砕け(リリーは夢のなかでその音を聞いた)、灯台の明かりがそっと照らすだろう(まぶたの奥まで届くかのように)。カーマイケルは本を閉じて眠りに落ちながら思った。なにもかもあのころと変わらぬ光景だ。
(p184)

この二文にはどちらも灯台が出てくる。定期的に回る灯台の明かりは、時の象徴か。

前に読んだ時の記憶では、家は廃れていく一方だと思っていたのだけれど、そうではなかった…いい加減な自分の記憶…
(2021 04/06)

第三部「灯台」開始。

 今朝の、なにか異様なまでの非現実感は恐ろしくもあったが、心をくすぐりもした。灯台行き。でも、灯台へはなにを持たせたらいい? 滅びぬ。独りで。向かいの壁に射す暗緑色の光。空っぽの席。それらはみななにかの一部のようだが、どうやってひとつにまとめればいいだろう?
(p190)

ラムジー夫人が亡くなったあと、第三部の中心人物はリリーへと移る。第一部の(幻の)灯台行き前夜から十年の月日が経ったとも、実は第一部の翌日ではないのかとも言える。
ラムジー氏は灯台守の子供に贈り物をしようとしている。「なにを持たせたらいい?」というのはナンシーの言葉、「滅びぬ。独りで。」というのはまたもやラムジー氏の詩の朗唱…こうしたものがリリーに次々と落ちていく。どうまとめようか。そして以前このテーブルで考えていた絵の構図などを一人で考えたかったのだが、ラムジー氏が来て(以前は夫人が与えていた)同情を伺おうとする…
(2021 04/07)

水中から波を見上げて

 頭のなかでは単純明快に思えるものが、いざ描きはじめようとすると、とたんにことごとく複雑なものに変わってしまう。喩えるなら、波は崖の上から見ると均整のとれた形をなしているが、そのなかを泳ぐ人から見れば、深い波窪や白い波頭に分かれて凸凹している。そういうことだ。どれほどの困難があろうと、それを覚悟のうえで最初の一筆をおかなくてはならない。
(p204)

この小説はどこから「最初の一筆」をおいたのだろう。

リリーは島から、ラムジー氏一行の船を見ている。
そしてその船上では、キャムとジェイムズが灯台守への包みを持って従っている。しかし、この二人は「暴政」を拒否しようと「同盟」を組んでいる。

 少しばかり沖に出ただけなのに、もうずいぶん離れた気がし、景色までがすっかり変わって見える。それは遠のいていくものの静穏な眺めで、もはやその構図に自分は係りがない、というような。どれがわが家なんだろう? もう見えなかった。
(p213)

キャムの日常生活圏をはみ出て、そちらを見やると自分には手出しができない、自分は果てにいるのだという気がしてくる。臨死体験というのもこういうふうに始まるのかな。
(2021 04/08)

リリーとジェイムズの視点移動

5章はリリーの視点。

 すみずみの細かいところまではっきりと見えるのに、あの場面の前はぽっかりとなにもなく、その後もまた空白なのだ、どこまでも。
(p220)

 カンバスという空間がこちらをねめつけていた。絵全体のマッスがカンバスの重みの上にのっている。絵はカンバスの面では、美しく鮮やかで、羽毛のようにふんわりはかなげで、蝶の翅のごとく軽やかに色が融けあっているべし。しかしカンバスの下には、鉄のボルトで留めあわせたような、そういう堅固な構図がなくてはいけない。
(p220)

以前読んだ丹治愛氏の「モダニズムの詩学  解体と創造」に出ていた箇所。リリーは印象派そのものの画家ポーンスフォート(ホイッスラーがモデルらしい)を批判して、一度溶解してしまった色とフォルムになんらかのの新たな構図を見つけようとする(それが後期印象派の立場)。けれど、丹治氏は印象派は単に超克されるべきとはなっていないと指摘していた。この小説自体にもその構図は当てはまるのか。

 この絵画という道は、歩いてみるにずいぶんおかしな道だ。どんどん、先へ先へと歩いていくと、いつしかとうとう、海に突き出した細い板の上をたった独りで歩いていくようなことになるのだ。
(p221)

 でも、わたしは間一髪のところで逃れたわ。リリーは思う。テーブルクロスを見ているうちにひらめいて、あの木を絵の真ん中にもっていこう。自分はだれとも結婚しなくていいんだと気づき、歓びに舞いあがったものだ。これでラムジー夫人と渡りあえる。そうも感じていた。
(p226)

ここは第一部の場面の思い返し。あの時も「あの木を真ん中に」といっていたけど、ここでその考えは結婚の放棄(リリー自身はバンクスよりポールにこの時は惹かれていたと、この直前でわかる)とセットな考えだったと判明する。何故だかわからないけれど、全く関係ないけれど随伴し一緒に動く想念というのがある。

 結局、人はだれにもなにも伝えられないのよ。ここぞという火急のときほど、狙いをはずしてしまう。ことばはふわふわと斜交いにそれ、いつも的の何インチか下に当たる。そうして人があきらめてしまうと、やっと出かけた考えはまた胸の奥に沈みこんでゆく。そうやって人はいつしか大方の中年男女のように、用心深く、なかなか腹を割らなくなり、いつも眉間に皺を寄せて、愁いの晴れぬ顔をするようになるのだ。
(p229)

6章や9章の[]で閉じられた断章をはさみ、視点はやがて、リリーからジェイムズに移っていく。ジェイムズは父やキャムやマカリスターの親子とともに灯台へと向かう舟の上にいる。

 そう、とジェイムズは考える。舟は陽にじりじりと灼かれながら、静かに水を打ってたゆたっている。言ってみれば、雪に覆われた岩だらけの荒野だよ。寂れはてた極寒の荒原。で、親父が人を驚かすようなことを言うと、まるでこの寒い荒野に、僕と親父ふたりだけの足跡が点々とついているような、そんな気が最近ではするようになった。ふたりだけはわかりあっているってことさ。だったら、この恐れ、この憎しみはなんなんだ? 振り返ってみれば、心のなかには過去が降り積もらせた葉がぎっしりと折り重なり、その森の奥を覗けば、光と影が幾重にも交錯して、あらゆる形はゆがみ、彼はまぶしい陽に目がくらんでよろめき、暗い木陰でつまずきながらも、いまこの感情を鎮め、客観化し、形あるものにまとめるイメージを探していた。乳母車かだれかの膝に身をまかせる幼子のころ、荷馬車が人の足をそうと気づかずに悪気もなく轢いていく場面を目にしたことがあったとしたら?
(p237)

こうして、ジェイムズは、第一部冒頭の灯台行き前日のことを思い出していく。

この小説のテーマは(今回は)、人間が他者をどうみるか理解しようとするのか。言葉がなくても(ない方が?)何かを通じ合うことはできる。もしくは、知らない間に何か他者が入り込む。

 その人の庭にちょっと腰をおろし、丘陵の斜面が紫に烟りながらはるかヒースの野へとつづいていくのを眺める。そんなふうにしてリリーはカーマイケル老人を知ったのだった。
(p249)

 大気が汽船の煙をしばし留めるように、あの方の考えや想像や欲望を密かにとらえて、大切にとっておく。
(p253)

一方、舟の上のラムジー家の面々は、特別な言葉は会話でも地の文でも無かったのだが、父を拒否する中に、ジェイムズとキャムの中に、何か父と共にある場面が訪れていた。

そして、島から舟を見ているリリーに戻ると。

 そうして老人がゆっくりと手をおろす仕草が、この場面のクライマックスを飾るものに思えた。あたかも、スミレとスイセンの花環飾りが長身の彼の手から放たれて、ひらひらと花を散らしながらゆっくりと落下し、ようやく地面に落ちるさまが見えるようだった。
(p266)

カーマイケル氏が「異教の神」に見えたという表現が、この文章がある段落の最初の方にある。そしてこの次の段落でリリーは「ヴィジョン」をつかみ、絵を描く。とすれば、このゆっくりと落下する色の動きが、彼女に啓示を与えたのだろう。
(2021 04/10)

「灯台へ」第三部補足

第三部のキーは「不在」ということではないか。場面がリリーとカーマイケル氏の陸側と、ラムジー一家の海側の二つに絞られ、陸側ではリリーがラムジー夫人の不在に、海側ではキャムとジェイムズがそこにいるのにもかかわらず会話をほとんどせず本を読み耽っていて視点人物にもならないラムジー氏の「不在」に、それぞれとらわれている。

灯台に着いた時、何があったのか、「灯台へ」の「へ」という意味を考えてみなければ…

解説から

 それどころか、ある人物の思考・言語のなかに作者/語り手の視点や意見が微妙に交じったり、逆に、作者/語り手がある人物の「口ぶり」を模して語っている印象の箇所もあった。この語り手は文章のスタイル、語彙、リズムなどを通して、人物の声帯模写ばかりか、一種の思考模写をおこなっているようにさえ見える。
(p446)


波-原子を通して、人の思考は媒介される。

続いて、ウルフの「ユリシーズ」評。

 [こうした描き方をすることで]広々として自由になったというより、明るいながらも狭い部屋に閉じこめられている感じがする。それは心の問題のみならず手法によって生じる制限のせいである。そうも言えはしまいか。創造の力を抑えこんでいるのがこのメソッドなのだろうか?
(p453)

ジョイスの興味は意外と?「狭い部屋」に有り? あと「フィネガンズ・ウェイク」ウルフが読んだらどうだったのだろう(時期的な問題は未確認)。

続いてp456の話題。元々ウルフの手書き原稿のラストは「これでお終い。でも自分のヴィジョンはつかんだ」というものだった。リリーだけでなく、ラムジー夫人の、また作者ウルフ(ここは語り手ではなくウルフ自身だろう)のヴィジョンが重なり合う。原稿の余白には「その白い形は完全に静止していた」とあったという。白い形・・・灯台か。マレーヴィッチか?

P457では主にフェミニズムや社会階級論からのアプローチのまとめ・・・ここはちょっとわかりにくかったが、第二部の屋敷の掃除に来るマクナブ婆さんの位置。コーギーは「労働者階級の女性」だから、声は持っていてもヴィジョンは持てない、これはウルフの限界であったという。スナイスはマクナブ婆さんは認知力に欠ける設定でありながら自由間接話法で声が伝えられ物語の記憶をまとめあげて成立させているという。スピヴァクは叙述のロジックをここの「狂気の言語」で分解していると表現する。

第二部に関しては他にも、ウルフが行なっていたギリシャ古典の翻訳からの影響というか谺を指摘。「アガメムノン」(アイスキュロス)には家が語る場面があるという。ウルフの語りもここでは古代悲劇の荘重さを帯びている。

 『灯台へ』において、passageはひとつのキーアイデアにあたり、移ろい、経過、小径、航路・・・・・・などの意味をもって随所に出てくるが、リリーは最後に、一本のラインを力強く引いて、自らのヴィジョンを集大成した絵を完成させ、それが『灯台へ』という小説が完結する時となる。このラインは絵をふたつの側に分かつものであると同時に繋ぐものでもあるだろう。この一本の線がpassageとなって、ひとつの世界が完結したのだ。
(p464)

(2021 04/11)

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