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「デカメロン(上)」 ジョバンニ・ボッカッチョ

河島英昭 訳  講談社文芸文庫  講談社

この講談社文芸文庫版「デカメロン」は抜粋版。
省略箇所一覧(上下巻)
第2日目…第3話、第6話、第7話
第3日目…全て
第4日目…全て
第7日目…全て
第8日目…全て
第10日目…第4話、第6話、第8話、第9話
底本…1989年講談社「世界文学全集(第四巻)」
(底本は全訳なのかは未確認)

新倉俊一「ヨーロッパ中世人の世界」から


ファブリオ、コント、ノヴェレ、ロマン
第3部の語り物系部門、最初の章は「ファブリオ、コント、ノヴェレ」。これに対する長編であるロマンも交えて具体的テーマの一つを見比べていく。そのテーマは「心臓を食べさせる話」。浮気している妻に、殺した相手の心臓を取り出して調理し食べさせるが…

ロマンの反対がファブリオ、コントであるが、両者のいいところを入れて成立しようとしたのがノヴェレ。
そのノヴェレの元であるイタリアのボッカッチョ「デカメロン」にもこの心臓の話が出てきているが、一方。スタンダールは「恋愛論」で、歌が物語の中心近くに登場することなどを含む、半ばロマンの作品としてこの話を導入している。
(2020 08/22)

恋人の心臓を食べさせた夫の話、の読み比べ


というわけで、「ヨーロッパ中世人の世界」から引き継いで、「恋愛論」と「デカメロン」を読んでみよう。

まず、スタンダールの「恋愛論」からの「ヨーロッパ中世人の世界」の直接引用は2箇所(他でも、「中世でもジュリヤン・ソレルのような若者はいたのである」と、新倉氏のお好みの作家らしいが)。宮廷の恋愛法廷と司祭アンドレ(「付録」)と、表題の心臓を食べさせた夫の話(第二巻第52章)。

早速その第52章読んでみると、これも10ページ未満でそこまで長くはないが、少なくとも「ヨーロッパ中世人の世界」で紹介されていたほぼ1ページの作品と比較すれば長い。これは中世に流布してたこのプロヴァンスの話のヴァリエーションの最も長いものを、スタンダールがほとんど手を加えずに翻訳したもの。このスタンダール版では、長くなったのが前半、夫が妻の詩人に対する愛を知るまでのところ。一番特徴的なのは、一回中傷者によって妻の不倫を知ってから、妻の妹夫婦の協力で一芝居うち夫を欺く場面(「トリスタン」にもこうした場面があるという)。

と、次はボッカッチョ「デカメロン」版。えっと、第4日目…え、「省略」って何…
これでは、完訳の平川訳も購入せざるを得ない…3巻本だから高いよ…定評はある訳だけど、買ったら、両者とも全部読むの??

デカメロン、語り始めるまで


…という問題はあるのだが、とりあえずこっち河島訳「デカメロン」読んでみる。えっと、結論言えば、3、4、7、8日「略」。

はしがきはなかなかに複雑な狙い。
猥談?多い「デカメロン」、男性受けしやすいネタ多いのに、ここでは女性に呼びかけている(そもそも男性以上に、識字率や当時の倫理的にも女性は不利だったと思うのだけど)。
先達ダンテの「神曲」かなり意識している(「言っておくが」とかいう1日目序もそう)、神そのものより愛神と人間に近いものへの言及。
そして実際の「百物語」(「神曲」との百と合わせたのと同時に、アンブロシオスの「ヘクサメロン」(六物語)との対応…アンブロシオス(4世紀)のは、ローマ皇帝に対する教会の自由を説いたもの。ボッカッチョ(14世紀)のは、キリスト教会に対する人間の自由を説いたもの…そして、内容は非キリスト教世界をも含む説話を集めたもの。

1日目序は、フィレンツェのペストから。「いいなづけ」のミラノも酷かったがこちらもなかなか。そんな中、サンタマリーア・ノヴェッラ教会(フィレンツェ中央駅広場に面して現存する)に集まった7人の貴婦人と3人の貴公子(釣り合わない気もするが、3-3の対を引いた4人の貴婦人は、これら貴公子のなんらかの親類という設定、また彼ら彼女らの名前は半数くらいは、ボッカッチョのこれまでの作品の登場人物から取られたらしい)、ここから、「郊外」の別荘に移動して(「郊外」というのもなんかテーマになりそう)物語を語り始める。
というところまで。両訳読めばいいんだけど…
(2020 08/30)

偽の司祭

いよいよ本体。1日目第1話。昨夜駆け込んで読む。
…なんというか、ほろ苦い味だよね。先程、この「デカメロン」というタイトルは、アンブロシオスの「ヘクサメロン」を変形したもので、アンブロシオスのとは図式反転して、キリスト教会に対する個人の自由を書いたもの、ということを言ったが、それにしても、いきなり相当の悪人が善意の司祭騙して虚偽の懺悔をし、死後聖別までされるというのは、相当の皮肉だな。ユマニスムが狙っていた人間復興というのはこういうものであったのか…
それでもいいんじゃない…
(2020 08/31)

教会批判三変化


昨夜読んだ「デカメロン」。1日目の2、3、4話。教皇始め多くのカトリック指導者が堕落しているのに関わらず信仰をやめないのは魅力ある宗教であるからだろうと、ユダヤ教から改宗した話。サラディンにユダヤ、キリスト、イスラームどれが一番優れているかと訊ねられ、似ているためどれがオリジナルなのかわからないと答えた話。農家の娘を部屋に入れたのを見られた修道士が、修道院長をその部屋に誘いこんで同罪にした話。とまあ、教会権力強い時代にまあ書けたなという内容なんだけど、同じような話はボッカッチョだけでなく、同時代にいくつもあったともいう。教会権力が強いといっても、近代の支配ではないため、いろいろと抜け穴があったのだろう。
(補足:「チーズとうじ虫」のメノッキオは、ここが削除される前の版で、第3話を読んで、裁判で審問官に答えている  2022 08/02)
(2020 09/02)

ディオネーオとは誰か


第1日目終了から、第2日目第1話まで。
かなり自分のツボにはまった1日目の2-4話から、話が続いていくにつれちょっとピンと来ない話もあったりして。複雑なのかねじ曲がっているのかわからないけど、とにかくそういう現代人は、なかなか当意即妙というのが理解しにくくなっているのか…

で、第2日目に入り第1話はまたなかなか愉快でちょっと長めの話。第1日目の第1話のように聖人化された人物がでてくる(こっちのアッリーゴは人物的には問題ない)、またトリヴィージ(現在のトレヴィーゾ)にやってくる「当地の」(フィレンツェの)人物、3人の芸人、フィレンツェ人がどう登場するかという構造的問題は解説にて、とのこと。

で、すっ飛ばした第1日目の「結び」。1日進行の「女王」(3人の貴公子はこれになれるのだろうか?)を決め、2日目女王フィロメーナがお題を発表し(第1日目もあったようなものだけれど…)、いろんな既存の詩句から作った歌を歌って終わる…というのはいいのだけれど、なんか突然ディオネーオ(貴公子の方)が「オレだけはお題外れて好きな話してもいいんだろ」(かなり言いぶりは脚色(笑))と言い出したのには唖然。「彼が愉快で陽気であることを知っていた」のでその申し出を承諾したとある。彼の役割とは何か…
(10話全部同じような話だと飽きるかなというボッカッチョの親心か、あるいは「このディオネーオというのは実はオレの分身で、ここだけは他の説話集から持ってくるのではなくオレのオリジナルで勝負するからな」、というボッカッチョの自負なのか(まあないとは思うけど、そう空想するのも楽し)
(2020 09/04)

ダンテを踏まえて

第2日目、第3、6、7話「略」。

 貴婦人が風呂に入っていると、いまや一羽の鸛となったリナルドが、嘴ならぬ歯を噛み鳴らしながら、震え戦き奇声を発しているのが聞こえてきました
(p158)


ここはボッカッチョが明らかに意図するダンテ「神曲」を踏まえたもの。「神曲」地獄篇第三十二歌から

 

 嘆き悲しむ影の群れが水漬けになって
 鸛のごとくに歯を噛み鳴らしていた


二回目は笑劇として?
(2020 09/06)

滑稽かつ残酷な、男の立ち位置

 それでは女たちのなかから生まれ出て、ここまで成長し、いまも彼女らのあいだにいるわたしたち男が、まるで女の願いが何であるかを知らないと言っているのも同然ではありませんか。これから申しあげる物語をすることによって、わたしとしては、あなた方に示してみたいのです。そういう男たちの愚かさ加減が、どのようなものであるかを。
(p256)


2日目。女王役フィロメーナが第9話を語り、続いてラスト第10話を特典?としてディオネーオが主任を務める。第9話で出てきた、妻の貞操を疑ったベルナボを裏返して、滑稽というか救いようのないというか、普段はあまり共存しないようなこの二つの性質が合わさる男の話となる。確かにこの話は男が語った方が自虐的な笑いで効果的。
p265から268までにわたるバルトロメーアの語り、というか啖呵は、これ読んで切なくなる中高年男が多くいることだろう…

 …わたくしはあなたのところへ戻るつもりは毛頭ありません。あなたからは、ぜんぶ搾りだしても、小皿いっぱいのソースさえ出てこないのですから。
(p268)


(2020 09/16)

未知の国へ


3、4日目は「略」で、第5日目。上巻には第7話まで。そこまで読了。
5日目は「苦難を乗り越え幸せを得る話」というテーマで、その逆のテーマだった(らしい)4日目と対比させている、ようだ。でもなんか似たような話が続くな。人間というか読者というものには、ハッピーエンドは不要なのかな。
気づいたこと。その1。5日目になるとかなりイタリアを逸脱してチュニジアとかキプロスとかアレキサンドリアとかアルメニア(ここら辺になるとボッカッチオにも全くの未知の国)とか広がる。
その2。第5話で、町を掠奪した兵士が残された少女を拾い育て、彼女を友人に預けて死ぬ。その友人と娘が一緒に別の町へ行き、そこで町の有力者の若者二家で争奪戦となる、という話。そのうち一方の若者が実は娘の兄ということが後にわかるのだが、これわからないまま掠奪されて関係できると近親相姦だよね。そうなると全く話は悲劇になる…また、いくら娘を助けたからといって、町を掠奪した側と仲良くするのだろうか。作品の構造上仕方ないのか、それとも中世という時代は、日本でも結構そうだったように日和見主義で結構自由だったのか…
(2020 09/21)

下巻はこちら

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