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「チーズとうじ虫 16世紀一粉挽屋の世界像」 カルロ・ギンズブルグ

杉山光信 訳  みすず書房

吉祥寺の防破堤(古本屋)で購入。

ギンズブルグといえば上村忠男氏だと思っていたのだが、この本の訳者は杉山光信氏。この訳、フランス語版からの翻訳。どういう経緯なのかは不明。で、杉山氏は政治・ジャーナリズム論の著作が多い。そして訳書としてはアリエスの「〈子供〉の誕生」やアンスバック「悪循環と好循環」など。

チーズとうじ虫


16世紀イタリア北東部フリウリ地方の粉引屋メノッキオの、異端審問で死刑になったその思想から時代と交流を探る書。カタリ派とかボゴミール派に似てる、と思う。支配される側に間歇的に現れるラディカルな平等主義なのか… 
(2009 03/09)

13年前に図書館で借りて少しだけ読んだ本を購入。

メノッキオとは、粉挽屋とは

 私が考え信じるところでは、すべてはカオスである、すなわち土、空気、水、火のすべてが渾然一体となったものである。この全体は次第に塊になっていった。ちょうど牛乳からチーズができるように。そしてチーズの塊からうじ虫が湧き出るように天使たちが出現したのだ。
(p52)


粉挽屋メノッキオの異端裁判。粉挽屋は当時は畑の地代は払っていたが、後に娘の結婚の資産を普通に出せるくらいの中くらいの家。重要なことは、彼は読み書きができて、フリウリ地域の田舎町の助役みたいなこともしていた。そんな彼が当時のローマカトリックでは「異端」と思われる教義を周りの人々に語り始める。思いつきで始めたのではなく、この裁判の30年くらい前からやっていたという。それが、ここ(17世紀前半)で司祭?の讒言により教皇庁に告発される。
16世紀前半までイタリアで流行した「再洗礼派」でも、宗教改革プロテスタントでもどちらでもないメノッキオの立場…ではどのようなものと考えられるのか。

 私たちはむしろ、宗教改革の激動が浮上させることに寄与したが、宗教改革よりもはるかに古くから存在していた農民ラディカリズムの自律的な潮流にこれらの主張が属しているのではないかと問うてみなくてはならない。
(p79)


農民ラディカリズム…って何?その説明は注に詳しくある。
(2022 07/25)

「ザンポロ」(「カラヴィアの夢想」)

 それゆえ、メノッキオは啓示を受けたとかある特別な霊感をうけたことは誇ってはいなかった。かれの説のなかでは反対に、かれは自分の思索・推論を前面においていた。このことだけでも、十五世紀の末から十六世紀のはじめにかけてイタリアの諸都市の広場で理解しがたい諸々の予言を行った預言者、妄想家、旅の説教師たちからメノッキオを区別するには十分である。
(p94)


前章でメノッキオが持っている「ザンポロ」(「カラヴィアの夢想」)をじっくり説明し、そこに書いてあったことに近い内容を、メノッキオは30年くらい前から友人達に聞かせていたという。この本はメノッキオが告発される半世紀くらい前の本。フリウリ地方がややイタリア全土と比べ取り残されていた感があるというが、それらを踏まえて上の文章を見てみる、時代の空気も若干落ち着いてきているとは思う。
この次の章はメノッキオが所持していた本の紹介。この「ザンポロ」も含むが、実は「コーラン」などもあったりするらしい。「前日島」でイスラムに改宗したロベルトの元家庭教師の修道士も思い出す。意外に読まれていた?(1547年にはイタリア語訳されていたという)
(2022 07/27)

「農民ラディカリズム」と本貸借ネットワーク

まずは前に宿題?にした「農民ラディカリズム」について。第9節、17と18の注。
例を挙げるとこんなやつ。

 「果実、穀物、その他大地から生まれるものは、神が天上から生長させているのではなく、大地の湿気がそうさせるのである」
(p297)


ウェイクフィールドという学者の論考を元にギンズブルグは…

 数世紀の隔たりをおいて幾度も露出してくるこの文化的伝統なのである。合理主義、懐疑主義、唯物論というウェイクフィールドによって列挙された構成要素にたいして、平等主義を根底とするユートピア思想と宗教的自然主義をつけくわえる必要がある。
(p298)


と考えている。そして次の18の注において、この「農民ラディカリズム」と近接概念の「民衆の合理主義」、「民衆の宗教改革」、「再洗礼派」との違いを考察している。ここでは、農村と都市の思想の差異を埋没させないようにこの言葉を選んだ、ということだけ引いておく。

さて本文、お待ちかね?のメノッキオの蔵書リスト…「異端審問官が家宅捜査をしたけれど、たいしたものないので返却した…ので、ここでのリストは裁判の時にメノッキオが自分で発言した分(「コーラン」は別の証人の発言)。あと興味深いのは、無削除版の「デカメロン」。
これらのリストのうち、ほぼ半分の6冊が誰かから借りたもの(もちろんメノッキオも貸してもいる)。メノッキオの住んでいるフリウリ地方の一農村で、本を貸し借りできるグループが存在していたこと、それらの本が濡れたりしててもあんまり気にしない環境であったこと、またメノッキオの「聖書」のように、親類等が「危険な書物」ということで燃やしてしまった(ということが結構一般的にあった)こと…これはこれで、また別の研究領域。とりあえず、今想定しているよりこの時代の識字率は低くない可能性が示唆されている。
(2022 07/28)

メノッキオとは何の代表なのか

 読み書きのできたこの十六世紀の粉挽屋のようなかくも一般的でない人物を、どの程度まで代表的な人物として考えることができるのであろうか。要するに、なんの代表なのであろうか。
(p103)


そう、この本読めば読むほどわからなくなる、そこ…
ギンズブルグはそこに逆説の鮮やかな何かを隠しているのであろうか。あるいはそのまま…だろうか。

 テクストよりもずっと重要だと思われるものは、メノッキオが自分自身と印刷されたページのあいだで意識しないままに置いている解読格子、ある文章には照明をあて他の文章は隠してしまい、ひとつの言葉の意味をコンテクストから飛び出させ、メノッキオの記憶のなかでテクストの文章さえをも歪めさせる解読格子、読書の鍵である。そしてこの解読格子、読書の鍵は印刷されているページのうちで表現された文化とは異なる文化、すなわち口頭伝承への参照をたえず促している。
(p104)


解読格子とは、メノッキオに限らず、読書という行為(今まさしくその途上だが)に関わる心理的社会的装置。この自分が毎回こうやって(1回読んだところを)立ち戻って打ち込んでいると、必ずどこかしら印刷されている文章とは違うように読み込んだ箇所にぶつかる…これも解読格子。

 だが私たちが引用した文章のねらっている目標は別のものであるように思われる。それは宗教の基礎を掘りくずすものとして、外面の宗教よりも内面の宗教の傾向を告発している。
(p118)

ギンズブルグが引用しているのは、トゥリオ・クリスポルディという著者の「赦すことの若干の理由」という小冊子。「赦しの宗教」という人道的なキリスト教理解が進むと、「神」の存在理由がなくなるので、「神の恩寵」という人間には予測できない仕組みを入れることで、その宗教の危機を除こうとするもの。この冊子が出た50年後、メノッキオがこの「危機」を引き出してくる。

 上層文化のもっとも先進的な人びととラディカルな傾向の民衆的なグループとのあいだで部分的な収斂現象のあったことを垣間見ることはできる。
(p119)


この本の「序」において、民衆文化と上層文化との関係がテーマとして掲げられていた。

 マンデヴィルによって書き記された信仰や慣習の多様性は、かれに同時代の人びとの信仰の根底について問わせさえした。大部分は想像の産物であるこれらの島々は、メノッキオが生まれ育った世界をながめるための足場・支点をあたえたのだ。
(p126)


マンデヴィルの旅行記というのは、中東聖地巡礼記の前半と、ほぼ架空の土地の旅行記の後半からなる。この旅行記はメノッキオ自身が選んで読んだわけではなく、ある司祭にいろいろ見繕って借りた本の一冊。

メノッキオとモンテーニュ

この時代の有名人物との比較。
ダ・ヴィンチ
「メノッキオと同じ平民の」と書かれている。その意味は、レオナルドもラテン語はほぼ理解出来なかったというところからきている。
マキャヴェリ
「赦しの宗教」という箇所で、マキャヴェリもこの小冊子の著者と同じ考えを持っている、と述べている。「道具的宗教」という考えより、こちらの方がマキャヴェリに近いと。
モンテーニュ
ピグミー(具体的な民族ではなく)の人食いの記述に驚いた、という点で、モンテーニュとメノッキオは原体験として近いところにある。ただ残念なことにメノッキオはモンテーニュではなく、相対性の思想を持つことはなく、自身の聖書理解に修正が長い間で起こったという。
この時期(16世紀)までは、こういった異国についての本は、新世界のものよりは旧世界のものの方が多かった。モンテーニュが読んだものは新世界、メノッキオは旧世界…
(2022 07/30)

メノッキオと上流階級の思想の収斂

 それゆえここでもまた、メノッキオはもともとのテクストをこえて先に進んでいる。たとえ偶然に中世的な寛容のテーマにはぐくまれたものであるにしても、かれの宗教的ラディカリズムは、同時代のさまざまな異端や人文主義的教養をもつ人びとによる洗練された宗教的理論形成にむしろ合流している。
(p138)


p134の「民衆的信仰をうるおしていたいくつもある水路」は注見ても引用先だけでよくわからないが、このp138での「中世的な寛容のテーマ」というのと恐らく繋がっている。そしてそれが、前も引用したように、上流階級の思想と収斂し始めていた。
この次のメノッキオのカオス理論、どうやらカオス以前から「神」はいたのか、というところが、この裁判のポイントとなるらしい。またボッカッチョ「デカメロン」の三つの指輪の話(メノッキオが読んだ無修正版のあと、教会から禁書となる)、また見直してみるか…
(2022 08/02)

思想誌の具体例

昨夜読んだ箇所。

 かびが生じかけてきたチーズのなかでうじ虫が生まれるという日常的にもつ経験は、メノッキオが生命ある存在の誕生を説明するのに神の介入を求めることなしにカオスから「生の未分化の」物資から、最初のもっとも完全なものである天使が誕生することの説明として役立っている。
(p149)


前に着目していた、カオスと神のどちらが先かという問題のメノッキオ側の源泉はここにありそう。

 まったく意識せず礼を欠いたやり方で、かれは他人の思想の破片を石や煉瓦として利用したのだ。しかしかれが手に入れることのできた言語的および概念的な道具は、中性的なものでも無垢なものでもなかった。それがメノッキオの話のうちにみられる大部分の矛盾、不正確さ、非常識さの原因である。キリスト教、ネオ・プラトニズム、スコラ哲学などに浸透された用語でもって、メノッキオは農民たちが世代から世代へとわたってつくりあげてきた原初的にして本能的な唯物論を表現しようとしたのである。
(p157-158)


こうなると、16世紀農民の異端の典型例というテーマを越え、この世界のただなかに置かれた一人の人物がどうやって思想形成していくか、を追っていく思想誌の問題になっていくと思われる。「原初的にして本能的な唯物論」というのが、農民ラディカリズムとか中世的な寛容のテーマとか呼ばれたりするものとつながるのだろう。
(2022 08/04)

尋問、一旦終了

魂と精神は同一か別のものか。メノッキオは自然の四元素を神と言い、魂は死後、そこに帰って行くと言っていた。魂と精神は同じものだという。ところがある尋問で、メノッキオはこの点を覆し、魂は身体の死とともに消えるが、精神(悪人でない場合)は最後の審判まで眠りにつく、という。その思想は16世紀はじめ、アヴェロエス、ポンポナツィの影響下のパドヴァ大学に遡る。そこからヴェネツィアの再洗礼派に採用され、最後に助任司祭でメノッキオの友人でもあるジョヴァンニ・ダニエレ・メルキオリにたどり着くという。
メノッキオ自身は、次の尋問ではまた魂と精神の同一に戻っている。また、メノッキオ自身はいつも周りの人々に語っているときに「本当はもっと複雑なのだ、教皇などにそれを語ってみたいものだ」というようなことを言っていた。また、尋問以外は牢に入れられ疲労はしていたが、尋問で自分の考えを述べて「自分の言葉に酔っていた」ともいう。
(2022 08/05)

「新しい世界」への手立て。ルターについて、少しは好意的に書かれてもいた「年代記補遺」という書物。それから世俗的貴族への反抗(少し前には一揆して貴族の館を放火する→孤独に貴族に反抗(一人で襲うなど))。どちらもメノッキオは選択しなかった。

 かれにはもはや「新しい世界」の願望しか残されていない。だが、それはあまりにも多くの人びとの手から手へと渡っていったであろう一個の貨幣と同じように、時間が摩滅させてしまった言葉なのである。
(p194)


(2022 08/06)

メノッキオへの尋問が一旦終了し、メノッキオは牢に戻る。そこで、今までの主張一切を反省し慈悲を求める長い手紙を書く(読むことはできるが、書くことはできるが慣れていなかった模様)。だが、審問側では、討議の結果メノッキオを有罪にすることにしていた。刑が長期化するに及び、メノッキオの健康状態も悪化していった。
(2022 08/08)

農民ヘラクレイトス

牢に約三年いて、出る際に「上着に十字架の印を着けること」と「この村モンテレアレから出ることを禁じること」を条件に、メノッキオは村に復帰する。とすぐにまた村の役職についたり、新しく風車を借り受けたりしていた。先の条件のうち村を出ることの禁止は、メノッキオ自身の働きかけによってなくしてもらい、メノッキオの家族が昔メノッキオを告発した司祭を飛ばしてもらったりしていたが、息子が先に亡くなってしまうと、彼の境遇も徐々に悪くなっていく。
ギターを持って歌い歩くメノッキオは、ウーディネで一緒に歩いていたバイオリン弾きの男に、また聖書の話をする。また放浪しているらしいユダヤ人ともその話をする。隠しておけないのか。そして約15年ぶりに審問官に呼ばれ、また審問が始まる。

 こうして過去へとさかのぼる気疲れのする旅のなかで、メノッキオはそれと知ることなしにキリスト教的世界像をこえて古代ギリシャの哲学者たちの世界像を見いだすことになった。変幻自在で不滅の火のうちに、この農民ヘラクレイトスは本能的元素をみたのだ。
(p239)


歴史学離れ、文学的にも美しい文章。現代西洋思想は古代ギリシャ哲学とキリスト教思想の二つが土台にあるものだとは言われるが、外側にいる自分などの直観に反して、内部の人にとってはかなりその二つは別物という認識なのだろうか。

 じっさい、創造主と被造物という区別、また創造主たる神という観念は、かれにおいては心底から無縁なものであった。自分のもっている観念が異端審問官のそれとちがっていることがかれにははっきりわかった。しかしこの時点で、このちがいを表現するための言葉がかれには欠けていた。
(p240)


前に見たようなメノッキオの汎神論のどこがキリスト教社会で危険なのかがまだわかっていないのだが、この文章ではそれより、メノッキオが審問相手と思想構造が共通していないことに気づいた時の底無し感が胸を打つ。

 私たちがすでにみたように、モンテーニュもメノッキオも各人なりのやり方で信仰と制度の相対性という激震体験を経ていたのである。
(p242)


ここも前に見た。そして「歴史を逆なでに読む」でも見た。フランスやイタリアの貴族や庶民においても「激震」なのだから、この間の「インカ帝国地誌」のシエサ・デ・レオンなど現地にいた人々の認識の揺さぶられ様は想像を超える。
(2022 08/10)

粉挽屋という場所

 だが、地理的にも文化的にもこれほど孤立していない状況においてさえも、この農民的宗教の痕跡を見つけだすことはできるのだが、それはキリスト教の導入に端を発する外来のものの影響により変形され、隠されてしまったのである。
(p252)


ここは昨日読んだところから。今舞台となっている北イタリアの平野部ではない、もっと辺境の地域(例エボリ)にはもっと明確に「農民的宗教」が残っているという事例を受けての文章。

 産業化以前のヨーロッパにおいて、コミュニケーション手段がほとんど発展していなかったことが、少なくとも水車小屋や風車小屋を人の集まるごく小さな中心施設にしていた。それゆえ粉挽屋は職業柄きわめて顔が広かった。中世の異端の諸宗派のなかに粉挽屋が数多く含まれ、さらに再洗礼派のうちに多く存在していたことは、したがって驚くにはあたらないことなのである。
(p268)


ここは今日分。そしてそれは単に粉挽屋という職業が異端になりやすいという状況説明だけではなく、粉挽屋間に何かしらのつながりがあったのでは、という考えになっていく。
(2022 08/12)

彼らは同一の言葉を持っていたのか

まず補足。
この辺りの展開は、メノッキオの同類?農民のスコリオ、そしてメノッキオと同じく粉挽屋のペレグリノ・バロニ通称ピギノを横並びにして考察している。
(ちなみに、今まで書いてなかったけれど、メノッキオの本名はドメニコ・スカンデッラ)
ピギノと人文学者リジノ・フィレノとのボローニャ貴族の家での出会い(もちろん仮説の域だが)の場面は、ギンズブルグが提唱する上流階級と下層階級の思想上の交流を一番よく表していると思う。

 ピギノがメノッキオの読み方と同じような仕方で『略述記』を読んだと想定するのは恣意的にすぎよう。しかし、かれらがふたりとも期せずして同一の矛盾に陥り、フリウリでもフェラーラにおいてもただちに異端審問官によってその矛盾が指摘されているのを見ておくことは重要である。もし魂の不滅を否定するのなら、いったいどのように天国について語るべきなのか。この反論がメノッキオをどれほどまでに錯綜した矛盾の連鎖のなかに追いこむことになったかは、すでに私たちがみたとおりである。ピギノは、天国は一定期間のあいだ過ごすところであり、その後で魂は最終的に無に帰すると語ることでこの困難を断ち切った。
 じつのところ、数百キロ離れた土地で暮らしていて互いに相手を知ることなく死んだこのふたりの粉挽屋は、同一の言葉を語り、同一の文化を吸収していたのである。
(p278-279)


「重要である」のは、前半のピギノとメノッキオ側だけでなく、後半のそれぞれの異端審問官側の指摘の共通もまたそうであろう。それはある程度対応がルーティン化していたと思われる。
それが果たして「同一の言葉」、「同一の文化」と呼べるものなのかは果たしてどうだろうか。

メノッキオの処刑へ

 この事例は、現在になってようやく漠然とながら重要性が理解されはじめた問題を力強く提起しなおしている。すなわち中世および中世以降のヨーロッパ上層文化の大部分にひそむもろもろの民衆的起源という問題である。おそらくラブレーやブリューゲルのような人物だけが燦然たる例外であったというのではないのだ。かれらは上層文化と民衆文化とのあいだで、そのふたつの方向において豊かな地下の交流が存在することにより特徴づけられる時代にいたのである。それに続く時期は、これとは反対に支配階級の文化と職人的・農民的文化とのあいだでのつねに厳格な分離、あるいは民衆階級にたいする一方的な教化が際立った時代なのである。十六世紀後半にみられるこのふたつの時期を隔てる年代的な区切りを私たちは見定めることができる。その区切りは、価格変動の衝迫のもとで社会的格差がますます広がっていくことと意味深くも符合している。しかし、決定的な危機はそれよりも数十年前に、農民戦争とミュンスターの再洗礼派の支配とともに生じていた。
(p281-282)


最初のラブレーやブリューゲルのところは、バフチンの「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化」が取り上げていて、ギンズブルグもそれを参照している。ふたつの時期の後ろ側にいるメノッキオとピギノにとっては、自らが備えた上層文化と民衆文化の混合物(どちらも主導的ではない)は、既に前の時期の残照であったのかもしれない。だから特にメノッキオは、周りの人々に自分の考えを触れ回ったのだろう。
メノッキオは1599年、教皇クレメンス8世自身の指示により、(躊躇していたフリウリ側を押し通して)同年処刑された。

解説及び(後回しにしていた)序からは、この著作に対する批判2点(序にあったギンズブルグの論点を解説では引き合いに出しているので)。主な論者はパオラ・ザンベッリとドミニク・ラカブラ。
一つは農民文化について。メノッキオの言説に「あるひとつの共通の農民文化に還元しうるもろもろの特徴の存在」(p23)があるとするならば、その農民文化そのものの立証はされていないというザンベッリの指摘。
もう一つは「なんの代表なのだろう」とギンズブルグも問いかけたように、メノッキオの位置に関して。ラカブラは「ほかでもないメノッキオが口承文化と書字文化、民衆文化とエリート文化のあいだの境界線上に位置する「例外的な」存在であったからこそではないのだろうか」(p356-357)という。
特に後者に関しては自分もそう思う。だが、その位置をずらすと、ギンズブルグがバフチン敷衍して想定していた上層文化と民衆文化の交流という図式もずらさねばならないことになり、前者の農民文化の問題系ともつながる。こちらはこちらで、各時代の民衆文化の掘り起こしが必要なのだろう。
という解説は(訳者ではなく)上村忠男氏の解説。
(2022 08/13)

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