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「ヨーロッパ中世人の世界」 新倉俊一

ちくま学芸文庫  筑摩書房

全く同じ漢字の名前で、ここで取り上げているフランス文学者と、ディキンソンやパウンドなどアメリカ文学(詩)文学者がいるので間違いやすい。フランスは「シュンイチ」、アメリカは「トシカズ」。


ベルナールとゴリヤス

最初のベルナールとゴリヤスの章を読む。ヨーロッパ中世の文化と文学の11-13世紀までを概観できる。

ベルナールは当時の弁証法と神学の大家と言われていた人を論破し、ヨーロッパでの論理実証主義の萌芽を築いた。そして当時抑圧されていた女性を対等なものとして、エロイーズと結婚(当時の知識人内では、結婚外生活というのが流行していたらしい。結婚すると宗教などに絡みとられてしまうから、という理由。開明的女性だったエロイーズも結婚を諫めたという。がベルナールは結婚に踏み切った。結果は「読者も知る通り無残な結果に…」と新倉氏。

で、ゴリヤス。ダヴィデに滅ぼされたゴリアテに因んだこの人々(ちょっと前はベルナール自身がゴリヤスだと言われていたがそれは今は否定されている)、ベルナールの時代の後に、大学等が供給過剰になって主に文学系学生や僧侶が放浪するようになった、若いし不満もたまっている彼らは多くの詩を残してウサを晴らす。が体制批判とか哲学的熟考とか詩の洗練とかは3世紀後のヴィヨンまで待たなければならない(ゴリヤスの詩の一部は「カルミナ・ブラーナ」に取り入れられているようだ。確かオルフの曲の第3部は貧乏学生の歌だったような…)ゴリヤスの後は、百年戦争とペストの暗黒期が続く…

 黄金の太陽は去った
  我らの世界を。
 雪のふりしきる日々
  夜は凍てつく寒さだ。

 すべては冷えきっている
  しかしわたしだけが燃えている。
 わたしの心の中に
  火が燃えている。
(p47 「枝から葉が落ちて」)


(2020 08/15)

「中世人と死」、「中世人と夢」


前者から。ホイジンガ言うところの「中世の死の3つの旋律」のうち12世紀までは、家の没落と死の舞踏というテーマはあったが、腐りゆく肉体というテーマはほとんどなかった。キリスト教では、死後は天国へ行くか地獄へ行くかの道しかなく、地獄へ誘惑する悪魔という善悪二元論(カタリ派等)の異端へ通じた。
13世紀になると新たに「煉獄」なる道が出てくる。煉獄は死者が与えられる猶予期間のようなもので、この発明により現世利益の拡大傾向、新倉氏はこれをプロテスタンティズムの前段階と評する。その一方で先に述べた腐りゆく肉体というテーマが美術にも文学にも登場してくる。

後者から。主に取り上げられるのは「トリスタンとイズー」と「ローランの歌」。19世紀にペディエがいろいろの版が伝わる「トリスタンとイズー」をつなぎ合わせてペディエ版を作る(岩波文庫はこの版の翻訳)。つなぎ合わせるだけでなく、卑猥なところは落としたりしている。
新倉氏始め現代のフランス中世文学研究では、この版ではなく、出来る限り原典、あるいはそれが確定できなければ複数の版を比較して研究している。そして「トリスタンとイズー」の場合、俗本と宮廷本に大きく分かれる。俗本のこぎれいにして宮廷に献呈したのが宮廷版。この章は解説で宮下氏の言うところの「著者新倉氏の文学者としての判断」がより多く出てくる。
(2020 08/16)

法意識と近親相姦


昨夜「中世人と法意識」を、先程「中世人と近親相姦」読んで第1部終了。

法意識ではまたもや「ローランの歌」。この作品、舞台は8世紀シャルルマーニュ大帝の時代だが、成立年代は11世紀。第1回十字軍の聖戦の雰囲気の中で成立。だから実際には敵は同じキリスト教徒のバスク人とかガスコーニュ人だったらしけど、サラセン人ってことにされている。
この11世紀という時代、法意識でも徐々にではあるが変革期にあった。古代ローマは法に対し属地主義をとり、現代社会も多くの場合そうなのであるが、中世ゲルマン社会では属人主義、国家の運営より個人(家)の報復が大事という社会だった。この主義によりガヌロンは自分がローランを裏切ったのは彼に対する報復であって、決して国家への叛逆ではないと弁明し、一度はそれで決まりつつあった。
結局双方の代表が決闘しその結果で決めようということに(これも今から見ればめちゃくちゃな論理だが、熱い鉄触らせて火傷しなければ無罪、のような神明裁判と同じく、この種の決闘も「神が見ている」から正しいとされる)。結局ローラン側が勝ってガヌロン以下三十諸将は殺されてしまうのだが。

近親相姦の話も最初はローランから。ローランもアーサー王も近親相姦で生まれたという版があるという。続いて近親相姦の罪をあがなうために牛などの皮袋を身体に縫い付けて旅に出されるという話もある。
最後はトーマス・マンも中編書いた「選ばれし人」。この話のヴァージョンはフランスにもドイツにもあった(マンが依拠してるのは当然?ドイツヴァージョン)。近親相姦の兄妹の間にできた子がその母と結婚するというダブルな近親相姦。ゲルマン系ではいろんな諸事情により近親相姦はそんなに珍しいものではなかったという。

 倫理的には極めて危険の要素を内包する『教皇聖グレゴリウス伝』の発生と成功を可能ならしめた背景に、思考の、少なくとも倫理観の変革を読みとらないわけにはいかない。そう考えるとき、この聖者伝は猟奇的な説話であることをとうに止めて、つまずきやすい罪人に比類ない望みをあたえる書として、はかり知れないほどの励ましをあたえる書として受け容れられた可能性を、かなりの程度に信じうるのではあるまいか。
(p155)

「愛、十二世紀の発明」より

 動機は何であれ、彼ギヨームの中で、演技でも何でもない、本気の、まぎれもない両極分解が行われえたということ、十二世紀知識人がそれで特徴づけられる、あの〈魂の分裂〉が実際に起きえたということ、これを見逃してはなるまいと思うのだ。
 胸をむかつかせる鮮血の赤から、瑞々しい初夏の薔薇の紅げと、自己矛盾を意識することなく、一方の極から一方の極へと、激しく、ひたすらに、奔流のように移行する心性を見誤ってはならないだろう。
(p176)


(2020 08/17)

「司祭アンドレの恋愛術」から、恋愛裁判という、まあ宮廷内の遊戯みたいなものから、恋愛の最後に肉体関係を持つべきか持たないべきかという当時は真正直な問いがかけられる。標題のアンドレは、この書の第1、2之書では恋愛の教えを説いていたのに、第3之書では一転して肉体関係の恋愛を非難する。第1、2之書と第3之書が書かれた年代にはズレがあり、第3之書は、以前の書の内容を耳にする度に「若気の至り」を感じ、作ったのが第3之書なのだという解釈に、今新倉氏は傾いているという。
(2020 08/18)

秘薬考

 しかるに、トリスタン伝説における秘薬の存在と作用は、そのような自由意志の絶対性という信仰ないし幻想を、真っ向から否定するものであった。自然の人工に対する、運命の力の自由意志の力に対する、野性の情熱の美学的ないし倫理的恋愛感情に対する、これは挑戦であり、完勝であったのだ。
(p236-237)


「モロワの森の恋人たち」から。この章は最初から最後までまでトリスタン…
整理します。

「トリスタンとイズー」には俗本と宮廷本があったというのは前も書いた。俗本の代表がベルール、宮廷本の代表がトマ。原本というのがあるのかわからないけど、だいたい元の話に近いのが俗本で、それを宮廷用に(毒抜いて)アレンジしたのが宮廷用。「トリスタン」と聞いてだいたいの人がだいたい思い出すワーグナーの曲は、宮廷本のドイツ語版が元。

ワーグナーから離れて、中世のトリスタン。この第2部の最初にあったように、恋愛というものを文学的に高めたのは12世紀の南仏の吟遊詩人たち。彼らは貴婦人の誰かを仮想恋人?とし、想い、その困難さを歌う。それが国際政略結婚によって、北仏に渡り、そこではもっと思弁的に騎士道恋愛となって成立した(そうした成れの果てがドン・キホーテ)。

で、一般的なこういう傾向に対し「トリスタン」は飲んだものが惹かれ合うという秘薬(ただし期限付き)を飲む、という筋立てで、自由意志を外したところの強い力が全面に出て、さっき書いた全体的な中世恋愛文学の流れに逆行する…

というわけでp236-237の文章にやっとつながるわけだが、結局、「トリスタン」の場合も最初は秘薬とかの力だったけど、後になるにつれ「元々から実は(彼ら自身の意志で)惹かれていたんだよ」とか「だから秘薬の期限も大勢には影響しないから無期限なんだよ」という変更が加わる。から、先のp236の文みたいに方向性を言い切ってしまうのはどうかなあ、とも思わなくもない。
そのあと、新倉氏の興味は秘薬期限有りの場合に、期限切れたらどういう展開になるのか、という点に進む。そこに絡むのが隠者…恋人たちが何を悔いているのか、隠者は彼らを突き放すのか否か、そして作者(というか編者)はそれに同情しながら書いているのか、とかその辺…
(2020 08/20)

ファブリオ、コント、ノヴェレ、ロマン


第3部の語り物系部門に移る。「ローランの歌」や「トリスタンとイズー」もそれぞれおもしろかったけど、第3部に入ってきて、自分の興味の中心に向かってくる。
最初の章は「ファブリオ、コント、ノヴェレ」。これに対する長編であるロマンも交えて具体的テーマの一つを見比べていく。そのテーマは「心臓を食べさせる話」。浮気している妻に、殺した相手の心臓を取り出して調理し食べさせるが…
この読み比べの部分は、解説で宮下氏のいう「テクストと読み手との真剣勝負」が一番味わえるところ。
ロマンの特徴(の3番目)

 叙述の展開について言えば、通時性に対する共時性の優位が認められること。すなわち、作者たちは、時間の軸に沿って物語を直線的に進行させるのではなく、ロマネスクの装飾模様のいくつかがそうであるように、進行の過程に生じた各エピソードをさらに分岐させ、展開させ、かつ共存させ、思いがけぬ局面でまた綯い合わせることに、異常な努力を注ぐのである。あるいは、ゴチックの焼絵ガラスが、光と影の照応によって無限に豊かな色の階調をうみ出すように、あるエピソードにそれぞれ固有の意味性を盛りこみ、かつ、それぞれを照合させることに、彼らは熱中するのである。
(p267)

(「綯い」は「ない」と読む。縄を「なう」意味…この読み調べて表示させるだけで時間かかった)

なんかよくわからないけれど、これがロマンの特徴らしい(ロマンの作品、「薔薇物語」とかでわかるのかな?)。これのちょうど反対がファブリオ、コントであるが、両者のいいところを入れて成立しようとしたのがノヴェレ。
そのノヴェレの元であるイタリアのボッカッチョ「デカメロン」にもこの話が出てきている。一方、スタンダールは「恋愛論」の中で、歌が物語の中心近くに登場することなどを含む、半ばロマンの作品を導入している。

前の章で言い落としたファブリオを全面で取り上げるのが、次の章。ファブリオはいわば西洋の落語。p295-296で書かれている新興町人勢力とファブリオの成立経緯は中世社会を捉えるのに有意義な記述。従来文学というのは宮廷・諸侯の階級のみで行われていたのだが、12世紀中葉からは諸侯の城下町の町人階級が力を蓄えてくる。

 それにともなって、従来貴族階級が独占していた文学社会にも、このヌーヴェル・ヴァーグが押し寄せてきた。富裕な「成上り」町人は、貴族の城館に出入りするようになり、上流階級の知的水準に追いつくため、城館で披露される武勲詩や宮廷風騎士道物語に耳を傾ける
(p295)


こうなると既存の文学社会も、新興勢力の町人階級にあった現実主義的な作風に合わせ始めるし、13世紀になると、もはや最富裕な町人は自らの屋敷で文学サロンを持つようになる。ファブリオの隆盛はこうして起こった。

 驢馬曳きがあることを考えるとき、
 驢馬は全く別のことを考えている。
(p292 ファブリオ「オルレアンの町人女房」から)


「オルレアンの町人女房」自体は古今東西どこにでもある寝取られ亭主の話で、この詩句もそんな文意なんだけど、一人の人間の意識と無意識の比喩とかにも使えそうだ。

 しかし、聖職者の社会的・経済的特権に忍従し、彼らの横車をおおむね黙認した庶民の、押さえかねた怒りの爆発とぎりぎりの反抗-ここには、「人を笑わす小話」と軽く片付けるのを許さぬ何かがある。ファブリオを他愛のない笑話から、「心底からの憎悪」に笑いの衣を被せた真の風刺文学に徹底せしめたものは、ほかならぬこれら野蛮、残酷、かつ猥褻な数篇であった。
(p312)


ここのところは特に落語など他の民衆文学との呼応してそう。落語で言えば、今聞くと「ちょっと暴力的で何が楽しいのかよくわからない」話、「大工調べ」(大家)とか「たがや」(武士)とか。
あとは、具体的な「聖職者の特権、彼らの横車」の把握かな。発動者は誰で、向けられたのは何処か、など。自分としては…
(2020 08/22)

中世社会の断絶と甦り


第3部の残りの二つ。
リシューとエルサンという悪女?とそれと組んだ中年女中の話。リシューが誰の子ともわからない息子を産み、その息子が悪徳修行?して帰ってくると、エルサンと組んでこの息子をはめる…というピカレスクロマンの先駆けみたいな感じ。
長さも結構有り、文体も通常コントとは違う凝った文体で、宮廷文学のパロディ狙ったのではないかと。この章の最大?の狙いは、またも登場のペディエ始めとする20世紀初頭の大家が、こぞってこのリシューとエルサンという名前と「狐物語」の狐と狼の名前とを結びつけようとして、民衆文学は他国からの影響もなく、これまでの書物からも影響されずに、独立でフランスの民衆から生まれてきた…と立証してきたのを疑問視することにある。

一方、続いてのトルバドゥールとジョングルール。前者は作詞・作曲、後者が諸国回って歌う「吟遊詩人」。もちろん、両者の境が曖昧なケースもあるけど、一般的には異なる階級。前者にはギヨーム9世なども含まれる。そして、こちらではトルバドゥールがアラブ起源であるという通説を批判し、フランスに萌芽としてそういう文化があった、とする。でももちろんアラブ・イスラーム文化が全く影響していないわけではない(特にスペイン経由)ともしている。

第4部は、今までのものとはやや趣向を変えて、新倉氏の個人体験も交えながらエッセイ風に進む。
「ある写本の話」から。

 引用の部分が、一つの詩の成立事情を解説する「解題」にほかならないこと、すなわち、異質のものを、前後の記述との斉合性を考慮することなく「伝記」に挟みこんだ、大らかさというか、手抜きというか、無頓着加減というか、とにかくそういう脱常識ぶりに、読まされるほうは呆れてしまうし、おかしくなってしまうのである。
(p373)


もちろんそれは中世にしては普通のことで、現代の厳密過ぎる基準を当てはめるのがおかしい…のだけど、中世文学者新倉氏にとっても、中世と今との断絶を感じ、中世文学を読むことへの不安が増してくるという。

最後の「海の星」…ステラ・マリアとは、ヒトデのことでもあるし、聖母マリアのことにもなる。子供十字軍はこのヒトデを導きの海の星、マリアと見立てたらしい。
海は死者の世界でもある。前にも出てきたケルトの伝承、沈めるイスの町の話。そこを訪れた生者は町の住人に何かを頼まれるが訪れた人は断ってしまう…依頼を承諾すれば死者の町は蘇るという。

海と同じく森も異界に導く。ヨーロッパ中世では森も「陸の海」であった。12世紀後半、クレチアン・ド・トロワは「ペルスヴァルまたは聖杯物語」を書いた時、騎士階級は没落と分裂の時期にあった。それとともに勃興する町人勢力。クレチアンはもはや以前のように宮廷騎士道文学をまとめることができなかった。

 恩寵を期待して、自己完成の努力をおし進めるべきは当然としても、ついに恩寵にあずかりえない場合もありうる。犯したことを自覚しなかった過失によっても、それが妨げとなってついに恩寵にあずかりえない場合もありうる。
(p391)


ここに、のちのドン・キホーテ、そして後代の小説の種子を見るのは間違った見方なのだろうか。
(この「ペルスヴァル」ってワーグナーの「パルジファル」の元ネタ?)
海で波と戯れておた少女の「ステラ・マリア」という呼びかけに応えていれば、イスの町、中世社会が海から甦ってきたのかもしれない…と新倉氏は結ぶ。
(2020 08/23)

補足:恋人の心臓を食べさせた夫の話、の読み比べ。


というわけで、「ヨーロッパ中世人の世界」から
ボッカッチョ デカメロン(上、下)(河島訳)
スタンダール 恋愛論(大岡訳)

今朝、紐解いてみる。
スタンダールの「恋愛論」と「ヨーロッパ中世人の世界」との直接引用は2箇所。宮廷の恋愛法廷と司祭アンドレ(「付録」)と、表題の心臓を食べさせた夫の話(第二巻第52章)。
(後者のみ取り上げる)

早速その第52章読んでみると、これも10ページ未満でそこまで長くはないが、少なくとも「ヨーロッパ中世人の世界」で紹介されていたほぼ1ページからすれば長い。
これは中世に流布してたこのプロヴァンスの話のヴァリエーションの最も長いものを、スタンダールがほとんど手を加えずに翻訳したもの。このスタンダール版では、長くなったのが前半、夫が妻の詩人に対する愛を知るまでのところ。一番特徴的なのは、一回中傷者によって妻の不倫を知ってから、妻の妹夫婦の協力で一芝居うち夫を欺く場面(「トリスタン」にもこうした場面があるという)。

「恋愛論」でスタンダールは、この前の51章でプロヴァンスの恋愛概観をしている。この2つの章は対で書かれたのだろう(最初の構想の版にはこの2つの章はなかったというし)。その51章から。

 十字軍のトゥールーズ占領がプロヴァンス王国に与えた結果は、ちょうどこのとおりだった。恋と優美と陽気のかわりに、北方の蛮人と聖ドミニックが来た。私は当時その初期の熱狂的な異端糾問の、身の毛もよだつような話でこのページを汚したくない。野蛮人は我々の祖先のほうだった。彼らは殺し奪った。持ち去ることのできないものは、ただ破壊する快楽のために破壊した。
(p194)


スタンダールはグルノーブルの生まれなはずだから、厳密にはプロヴァンスではないけど、北フランスでもないのだけれど、どうなのかな。とにかく、南仏の文化の探究の序にこのスタンダールの言葉を置いて考えて(できれば実際に行き)たい。

と、次はボッカッチョ「デカメロン」版との比較。第4日目から…え、「省略」って何…
(元々の河島訳にはあったのだけど、この文庫版では削ったのか…「世界の文学ギャラリー」でも「省略」だったから元々そうなのかも)
これでは、平川訳も購入せざるを得ない…3巻本だから結構値がはるし…定評はあるのだけど、買ったら、両者とも読むの??
(2020 08/30)
(とりあえず、河島訳の講談社文芸文庫版はこのあと読んだ)

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