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「ファウスト博士(上)」 トーマス・マン

関泰祐・関楠生 訳  岩波文庫  岩波書店

岩波文庫の1996年のリクエスト復刊から

マンとドーマル


もう一昨日のことになるが、マンの「ファウスト博士」を読み始めて最初の方、主人公である作曲家レーヴェルキューンの少年時代の屋敷が語られる。この田舎の屋敷全体の雰囲気は同じマンの「フェリークス・クルル」に似ている気もする。
また父親ヨナタンの「自然観察」が語り手(作曲家の古くからの友人)の意見をはさみながら進んでいくところでは、以前読んだドーマルの「類推の山」のこれまた最初の方を思い出した。自然を見ているはずが抽象的な哲学的話題になっていく…こういう展開は自分はゾクゾクして好きなのだが…「類推の山」はなんだか展開についていけずに面白さが分からなくなった…そんな記憶がある。この「ファウスト博士」はどうだろうか…

 彼が考えていたのは、生命ある自然と、いわゆる生命なき自然との合一であった。彼の考えによれば、われわれがこの二つの領域のあいだにあまりに鋭く一線を画すと、生命なき自然に対して罪を犯すことになる、この一線は現実には通り抜けることができるだし・・・
(p36)


(2010 09/29)

さて、今日の「ファウスト博士」はぐっと音楽に近くなり、楽器修理工房の話題とベートーヴェンピアノソナタについての講演の話題。各楽器の描写場面では、何か後のレーヴェルキューンの運命を象徴しているところなのかなあ、と考えてみたり…
(2010 09/30)

「魔の山」の裏返し


今日のところは音楽講義の残り3楽章?・・・音楽は実は視覚(楽譜)に訴える芸術であるとか、全く独自の音楽理論を作り合唱曲を作ったアメリカの宗教集落(これでいいの?)とか・・・嘘か作り事なのかそれとも本当の話なのかはわからない。
ただ読み進めるうちに一つ気になることが。各章の始めに「前の章は、その前の章より長くなって・・・」云々などとたびたび書かれている。ここまで重ねられると、マンのことだから絶対に故意だよねこれは、と思ってしまう。始めの描写の文量が厚くて、時間経つに従って薄くなっていく「魔の山」のこれは裏返しなのでは、といぶかしんでみたり。 
(2010 10/01)

生まれ故郷の町から旅立つ時


第10章。そこには、生まれ故郷の町を出て新たな出発をする瞬間こそが、人生の中で一番幸福な瞬間であろう、と書かれています。自分のこれまでを振り返って、まさにそうだったなあ、と思って・・・いたら・・・その次のページでは

 何か自分で決めたつもりでも、実はかえっていつも自分が町に決められたのではなかったか? 自由とはなんであろう! どうでもよいもののみが自由である。特徴的なものは決して自由ではない。
(p148)

またもや自分を振り返ってみると、自分がどうも定まらなくふらふらしているのは(すみません)、「自由」を拘束されたくないが為に「どうでもよいもの」にしがみついている、からかなあ? そこでもう一回「自由とはなんであろう!」 

しかし、この小説、ほんとは1ページごとにいろいろな考察をしてみたくなる、ということは読む速度が遅くなる、ということでそこまで深読みできないけどそうなるとなんかもったいない気がする、要するに「困った」小説なのである。はい。
(2010 10/02)

ハレ大学にて

「ファウスト博士」はハレの大学の神学講義。自由に想像力を発揮する、というのは、悪魔の力にほかならない、と。悪は善の世界が成立する為に必要なものなのだ、とそういう話もあった。
(2010 10/04)

続けて大学仲間のサークル?でのハイキング旅行。その夜の若者らしい熱い議論。第一次世界大戦前のドイツ中部の若者に、第二次世界大戦のナチス成立へのきざしを読もうとするのは、先入観あり過ぎでマンの文章もそんなに明白には書いてない。そのきざしのほかに、そのほかのきざしもあったに違いない。
(2010 10/05)

パロディーのパロディー


今日の「ファウスト博士」はレーヴェルキューンが神学から音楽にクラガエして、ライプツィヒへ行くところ。その先生であるクレッチュマル氏との手紙やりとりで、何をしてもパロディーに思えてしまうというレーヴェルキューンと、その懐疑は作品を生み出すのに必要不可欠というクレッチュマル氏…マンお得意の「芸術家は詐欺師だ」にも呼応して、小説もだんだん白熱してきた。パロディーをパロディーしたら…そもそも、人間が何かを書く(描く)ことの始まりから、なにものかのパロディーなのかもしれない。

その後来るのが、ライプツィヒへ到着した初日、ヒゲを生やしたガイドに連れられてきた売春宿(レーヴェルキューン自身は食事できるところを…と言ったのだけれど)。この売春宿が小説全体の重要な場面になるのだけれど…そこに故意に連れてきたガイドは悪魔?ファウストに悪魔はつきものでして…

 なぜ、ほとんどすべてのことが、ぼくにはそれ自身のパロディーと見えずにはいないのでしょう? なぜぼくには芸術のほとんどすべての、いや、すべての手段と因襲とが、今日ではもはやパロディーにしか役立たないように思われずにいないのでしょう?
(p237-238)


これが、弟子レーヴェルキューンの手紙。それに応答する師クレッチュマル氏の答えは

 個性の中には、客観的なモティーフと主観的なモティーフが区別しがたいまでに結び合っていて、お互いに相手の形をとり合うのです。革命的な進歩と新たなものの実現とに対する芸術の力あふれる要求は、今なお行われている手段が気のぬけたものに、もう何も言うべきことのないものになり、とうていあり得ないものになってしまったことに対する、きわめて強い主観的感情の媒介を頼っています。
(p239-240)


(2010 10/07)

昨日で上巻を読み終え


大きく2つのイベントが。まず、レーヴェルキューン呼ぶところのエスメラルダ蝶という娼婦と(梅毒を持っているのを知りながら)関係を結ぶ。ここは「悪魔との契約」というよりも、なんだか美しく崇高な感じすら受ける。が、これは語り手ツァイトブロームの詭弁なのかな?(書いてないことを読み取れ)

次はシルトクナップという人物の登場。この小説の重要人物の一人らしいのだが、モデルはホフマンスタールかしらん? とにかく

  現実的なものと結びつくことは、潜在的なものを奪い取ることになると思ったために、そういうことは避けるかのようだった。潜在的なものが彼の領域であり、可能なものの無限の野が彼の王国だった…
(p300)


っていうのは、なんだか自分に似てない?  上巻最後はシルトクナップに対するツァイトブロームの何か奇妙な感情を示して終わる。
ツァイトブロームを疑え?
(2010 10/09)

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