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「ファウスト博士(中)」 トーマス・マン

関泰祐・関楠生 訳  岩波文庫  岩波書店

岩波文庫の1996年のリクエスト復刊から

マンとスイス


「ファウスト博士」は今日から中巻。レーヴェルキューン習作をスイス・ロマンド管弦楽団をアンセルメが指揮する…という、架空と現実が混然とした展開…
そうそう、この演奏はやはりスイスで行われた設定になっている。そこで、スイスでは「世界」を感じると書いている。ドイツに比べて…ということらしいのだが…これを書いたマンの思いやいかに?
(2010 10/11)

自由と黴


「ファウスト博士」は舞台がライプツィヒからミュンヘンへ。新たな社交仲間も加わって、小説の半ばに向かってまっしぐら…?
レーヴェルキューンが独自の十二音音楽(といっても、周知のごとくシェーンベルクの発明?で、マンはそれを借用している)を説明するところで、その音楽は自由度があるのかないのか…という話題になる。そこでレーヴェルキューンは、黴の生えた自由なら、天体の命ずるままの音楽の方がよい…とかいう説を口にする。自由と黴という取り合わせも面白いけど、そんなレーヴェルキューンのように、天体に命じられるように従った知識人もいるのだろう。
カネッティ「眩暈」でみた狂気に走る大衆と、それからレーヴェルキューンと…第2次世界大戦とその後の大衆社会はこうしてできた…のかもしれない。

 因襲は破壊され、あらゆる客観的拘束のなくなった時代、要するに自由が黴のようになって才能にへばりつき、不毛の徴候を見せ始めるような時代・・・
(p36)

 それに、思想というものは苦痛と関係することで性格がはっきりすることはあるかもしれない・・・
(p44)


(2010 10/13)

悪魔が来たりて冷気を送る…


「ファウスト博士」は中盤になって始めて語り手からレーヴェルキューンの手記なるものに変わり(これもなんかのパロディー?)、ようやく本物の?悪魔が登場。悪魔は上巻で出てきた神学のクンプフ教授の口調でしゃべる…まだその始めの方らしいが。まだまだ展開は続きそう。
急に正面から冷気を感じたら、悪魔が契約書持ってやってきたと思った方がよいみたい(笑)。
(2010 10/14)

二重三重の時


なんだか面白いけどなかなか量が進まない「ファウスト博士」。今日は悪魔との契約成立(なのか?)して、ミュンヘンに戻り、郊外の(少し前にも出てきた)農家の一室を借りたレーヴェルキューン…と言ったところ。ここはレーヴェルキューンの実家に似ている…と語り手は繰り返す。それにより子供時代と壮年期が重なって…さらに語り手が語っている第二次世界大戦時と、そして今自分が読んでいる時間と…時間の魔術師マンならではの時間の流れ…
この間読んだところでは、アリストテレスの言葉と、善は悪を必要としているのか…云々
(2010 10/18)

喜劇と悲劇


3日ぶりの「ファウスト博士」、いよいよ第一次世界大戦が始まった。語り手のこの戦争に対する感情は、この当時のマンの心情そのもの…とは言えないだろうけれど、かなり近いものがあると自分は睨んでいる。政治的人間VS精神というのはこの世界大戦の時代のマンの論文に確かあったはず…

次の話題は、喜劇と悲劇について。喜劇と悲劇は同じものなのに、その照明の当て方が違うだけ、というような文章があった。納得な巧みな表現なのだが、この「照明当て係」が芸術家…そういう自負を感じる。

最後の話題。この時期、レーヴェルキューンは昔のグレゴリウス教皇伝説を題材にした曲を作曲しているのだが、この伝説…後にマンが「選ばれし人」で取り上げたものそのもの…
(2010 10/22)

離れられない人々


今日は標題通り、「ファウスト博士」中巻を読み終えた。と、言っても、久しぶりに読んだので、前の筋を思い出すのにちょっと時間がかかったけど。

この辺りで何が書かれているかといえば、昔レーヴェルキューンが住んでいた家の姉妹のうちの姉の方が、人妻であるのに関わらず友人のヴァイオリン奏者と不倫している…という筋。そのヴァイオリン奏者がレーヴェルキューンのところにやってきて、(レーヴェルキューンの療養上暗くしてある)部屋で、その告白をする。
この「子供っぽい」と再三語り手が強調しているヴァイオリン奏者は、単にその告白だけをしている(この時は始めての告白ではない)のではなく、意識的か無意識的かレーヴェルキューン自身になんらかの情愛を感じて発信している…らしい。
とか語っている語り手自身もレーヴェルキューンから離れられない…らしい。そういう、魔術的レーヴェルキューンに魅入られるという人々をもこの小説は描いている…
(2010 10/26)

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