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「カメラ・オブスクーラ」 ウラジミール・ナボコフ

貝澤哉 訳  光文社古典新訳文庫  光文社


前情報

前に読んだ「マルゴ」の元々のロシア語版からの翻訳。2つの言語版があることが多いナボコフの中でも、この作品はかなり差異があるらしいとのこと。
(2011 09/27)

光文社古典新訳文庫5周年企画?として、YouTubeで訳者貝澤氏とお馴染み?沼野氏のナボコフトークが聞ける。その中で、ナボコフはベルクソンをよく読んでいて、その時間認識(持続)がこの小説にも現れている、という話も出た。あとは、この作品、篠田氏の英語版からの訳(「マルゴ」)だけでなく、その前にフランス語版からの和訳もある(このフランス語版はロシア語からの訳らしいが・・・「マグダ」)。
(2012 01/09)

貝澤氏の光文社古典新訳文庫ナボコフは、この後、「絶望」、「偉業」と出ているらしい。
(2023 02/26)

邦訳整理(2023年現在)
「マグダ」 川崎竹一 訳 河出書房新社 (1960年 フランス語版からの重訳)
「マルゴ」 篠田一士 訳 河出書房新社 (1967年 ナボコフの英訳版)
「カメラ・オブスクーラ」 貝澤哉 訳 光文社古典新訳文庫(2011年 ロシア語版)←本記録の訳
「マグダ」 川崎加代子 訳 未知谷 (2014年 ロシア語版)


映画館の中の光

 広い観客席のビロードのような暗がりに足を踏み入れたとたん(初回の上映が終わるところだった)、懐中電灯の円い光がすぐさま彼のほうに滑りよってきて、なめらかに、軽く傾斜した暗闇にそってすばやく彼を導いた。
(p19)


映画館。暗闇の中を動く光。滑らかに傾斜しているのは映画館だけではなく、彼クレッチマーの運命もなのか…
とか始まり…

 女性は後ずさりすると暗闇にまぎれて消え、クレッチマーは不意にむなしさと寂しさに襲われた。今スクリーンを眺めても、なんの意味もない-どちらにしろ、それは彼がまだ知らない事件が、わけもわからず解決されてゆくだけだからだ(…肩幅の広いどこかの男が、後ずさりする女のほうに手探りで歩いてゆく…)、もし映画を最初から見れば、わけのわからないこの登場人物たちや、わけのわからない彼らの行動が理解できるようになって、まったく違ったふうに感じられるだなんて、考えるのも妙なことだった。
(p19-20)


映画や小説を、最後の方から見たり読んだりすることの勧め?
自分が「マルゴ」の方を14年前に読んでいたこともあって、何かデジャヴ感というか、今読んでいて感じている何かを再現されている気にもなるのだが…

顕微鏡的な声

と、第3章まで、マグダの生い立ちとクレッチマーと映画館で会うまで…読んで、解説ぱら見。するとこんなこと書いてある。

 ところが小説の読者は、何ひとつ直接見ることはできない。小説に書かれた「描写」の言葉をとおして、場面や人物を間接的に「想像」することしかできないのである。だとしたら皮肉なことに、つねに盲目状態に置かれていながら普段はそのことに気づいてすらいない私たち読者は、マグダに嘘を教えられて信じ込むクレッチマーと五十歩百歩なのではないだろうか。
(p347)


それは前読んだ時には全く気づかなかったなあ…
クレッチマーがいる映画館では、終わりかけの映画が終われば、また次の映画が始まる。今まで読んできた小説を何かしら思い起こしながら、次の小説を読み始める。それは一旦前読んだ小説の最後を保留しておいて、読み進める新たな小説に繋げてしまうことなのでは、とp19の文読んで不明瞭ながら感じる…
(全くうまく言えてないけど)
とにかく、先進めることにする。前読んだ時にもこれは感じたのだが、先の懐中電灯始めとして、見ること、光の描写が、この小説には頻出する。その例として挙げられていた文章が早速第4章に。

 クレッチマーは、黒い受話器をぎゅっと握りしめた妻のむっちりした白い指をぼうっと見つめながら、向こう側でしゃべっている顕微鏡的な声を他人事のように聞いていた。
(p53)


「顕微鏡的な声」というのは、普通には小さな声ということだけど、ここで視覚に置き換えていることで、何かを読者に警告している。この場面の前に、クレッチマーとマグダはカフェに行き、マグダがクレッチマーの名前を盗み見(ここも視線)している場面があるから、読者はクレッチマーの妻が取った電話はマグダからか、と期待する。そこに「顕微鏡的な」が来る…しかし、この電話は夫妻の知り合いからだった(とりあえず、ここで電話の声が他人にも聞こえるという読者に対しての準備をしておく。また、冒頭第1章の最後に、クレッチマーが考えているマグダとのことは、この時点ではまだ心の「顕微鏡的な声」に過ぎなかった)。
そして次の電話(クレッチマーが取る)は、まさしくマグダからの電話…

 不意にものすごい速さのエレベーターですうっと落ちていくような気分におそわれた。
(p55)


「ディフェンス」でもエレベーターの思い出が印象的だった…ナボコフはエレベーター作家?

またもチェス小説?

ということで、今日は第4章まで…
本閉じて思ったことだが、この小説も「チェス小説」の側面ある。ゲームの盤面みたいに、駒は全て揃っている。第1章冒頭の、チーピーというキャラクター(このチーピー、英語版「マルゴ」では削除されているとある・具体的にはどこまで?)を描いた風刺画家のホーンは、物語の終盤にはマグダとつるんでクレッチマーを騙す。第3章でマグダの前に現れて一時期同棲する「ミュラー」と名乗る男は実はホーン。マグダも成長するにつれ、嘘をつくことによって生きることを学んでいく(映画会社に応募するところなど)。「風刺」「偽名」「経歴詐欺」などのホーン、マグダの陣営に対し、「真偽」を判定する絵画鑑定家のクレッチマー陣営は、奇しくも同じ「ミュラー」を含む偽名を使ってマグダに会う、など、ホーン陣営の手を使って自駒を失っていくイメージ(この辺は英語版ではどうなっているのだろうか)。
マグダ=ロリータとすれば確かに「ロリータ」の原型だけれど、ホーン=ヴァレンチノフとすれば「ディフェンス」との関係が(「ディフェンス」が先行作品)…
(2023 08/20)

エレベーターとクッション

案外に展開早く、今日読んだところ、第8章(p97)で、浮気はバレて妻と娘、妻の弟と女中は出ていく。この先まだ展開できる余地あるの?とも思ったりするけど、「マルゴ」読んでいるので、大まかなことは察しがつく。
その前、マグダがクレッチマーの家に来た場面から。悪戯の挙句、マグダはクレッチマーを外から鍵かけて閉じ込めてしまう。

 マグダはぱたんと扉を閉じ、息を弾ませて大声で笑いながら、外から鍵をかけた(ああ、あわれなレヴァンドフスカはなんと激しくドアを叩いていることか…)
(p67)


レヴァンドフスカ云々は、この前のp36-37でのマグダとホーン(この時はミュラーと名乗っている)がレヴァンドフスカ夫人を閉じ込めた一件…マグダの記憶にもあったのかもしれないが、それより「もはやお忘れではないでしょうな…」というようなナボコフからの目配せと考えた方が楽しそう。
鍵を開けてくれた妻の弟マックスにクレッチマーは「階段でだれにも出くわさなかったかね」と尋ねるが、それに対するマックスの答えは…

 「いいや、ぼくはエレベーターの信奉者なんでね」
(p68)


…やはり、ナボコフはエレベーター作家に違いない。
この一件はまだ尾鰭がある。泥棒が入ったことにしたクレッチマーは、マックスと一緒に部屋を見てまわる。その時クレッチマーは真っ赤なドレスの裾が見えた。マグダが隠れている、と思い込んだクレッチマーは夜寝静まった頃、その部屋に向かう…とそれは彼自身が買ったクッションだった…ここも余計なものを「見て」しまうという主題に通じるのだが、一方でそれがやはりマグダで、マグダが隠れたまま生活が続きクレッチマーが疲れ果てる…みたいな展開も見てみたかった気も…

一家離散の朝

 彼は一日中電話の番をした。けれど、電話はつやつやと光るだけで黙りこくっていた。
(p79)


まあ、この手の姦通小説に電話は必需品だろうから…でも、何かユーモアを感じさせる表現だな。

 瓦屋根の斜面に造りつけた天窓に、陽の光が反射している。空気はまだベルや警笛に馴染んでおらず、そうした音をなんだかういういしい、壊れやすくかけがえのないものであるかのように受けとり、そして運んでいく。
(p90)


そして、一家離散の朝の章の始まりの段落がこんな感じ。この段落全体がこういう美しく優しい雰囲気にある。ベルや警笛に空気が馴染まないとか、ナボコフの詩的センスを感じさせる…で、一家離散なのだ…
というように、ここまで結構茶目っけもある語り口なのだが、英語版ではこの辺どうなったのかな。
(2023 08/21)

「カメラ・オブスクーラ」と猿

今日読んだところは、マグダの前に現れた兄オットー、アドリア海のリゾート地での休日、旧クレッチマー家にマグダと住み映画関係他の人々とディナーパーティー。最後のパーティーでホーンが二人の前に現れる。マグダは気づいた、という記述は直接にはなかったが、気づいてはいるだろう。
そのはざまで小さく扱われている章で、アンネリーザ(クレッチマーの妻)とマックスが公園を散歩している。この箇所で飼い主と散歩中に逃げ出した猿が描かれている。猿がインスピレーションを与えたのは「ロリータ」の逸話(実証はされていない)だけど、ここの猿もホーンか何かに投影されているのだろうか。

 海はほんとうに色あざやかな青だった。波がおこると、そのきらきらした波頭に遊泳者たちのシルエットがコバルト色の影になって映るのだ。
(p125)


アドリア海のリゾートの描写から。見える-見えないのテーマにも繋がりそうな文。
(2023 08/22)

19世紀対20世紀

 彼のような洗練された夢の使い手(というのも、夢を見ることもまた-ひとつのアートだからだ)は、こんな夢をよく見るのだった。
(p158)


夢はポーカーで勝ちそうになる夢-ここでは括弧内の言葉に注目。この辺見てると、ナボコフはクレッチマーよりホーンに味方している…クレッチマーは真偽を見定める鑑定家、ホーンは風刺画家、19世紀と20世紀が出会って、20世紀都市文明(アート)の軽薄さが優勢になる、そしてある程度はナボコフもそれをよしとしていると思う。もちろん、19世紀的なものへのノスタルジーも混じっているが、時代は逆行しないことを作家は身をもってわかっている。

 マックスときたらいつだって切り傷なしに髭を剃れたためしがない-安全剃刀を使っているのにである-今も彼のあごには泡を透かして真っ赤な斑点が浮かびあがっていた。「生クリームのなかに苺がある」彼がイルマのうえにかがみこむと、彼女は小さな声でけだるそうに言った。
(p175)


前日、マックスとイルマはホッケー観戦に出かけ(ちなみにそこでマグダとホーンをお互い見かけている)、この時にはイルマはインフルエンザに罹っている。最初はなんて些細なことを話題にするのか、と思っていたマックスの話題が、徐々に視覚というテーマ関連文として印象的な比喩…といってもイルマには真にそう見えている…に変化していく技を楽しめる。
(あと、ここの章は第17章なのだが、この翻訳が依拠しているロシア語版では、2回目の第17章。貝澤氏は「オリジナルを尊重しこのままにする…」と言っているけれど、これはさすがに誤植ではあるまいか。ということで、実質上この章は第18章…)
(2023 08/25)

「罪と罰」と「アンナ・カレーニナ」(ロシア文学ネタ)

 おそらく、彼のなかでたったひとつまがい物でなかったのは、芸術や学問の領域で人が生みだすものはなにもかも、大なり小なり洒落の利いた手品か、うっとりするようなペテンなのだ、という無意識の信念だけだった。
(p203)


おそらく、ナボコフ自身もそう思っていた(面もある)と思われるのだが。マンの「芸術家は詐欺師」説とも比較したくなってくる…というこの文章の「彼」はホーンのこと。

 かの遊興施設の支配人だったのは、神でも悪魔でもない。前者はあまりにもご老体すぎて、新しい芸術のことなどなにひとつわからなかったし、後者の、人々の罪をむさぼり食ってぶよぶよに肥え太った悪魔ときたら、耐えがたいほど退屈なやつで、まるで高利貸しを切り刻んだおつむの弱い罪人が処刑のまえにするあくびみたいに退屈なのだ。
(p204)


「遊興施設」云々は他人の人生を見せ物として見ることとしておけばいい…注目は後者「悪魔」で、これはもう「罪と罰」ではないか。ナボコフはドストエフスキー嫌いらしかったけれど…
もひとつ、ロシア文学ネタ。冒頭にちょっと出てきて、ここ(マグダの初(そしてたぶんラスト)出演映画の試写会)でも出てくるドリアンナ・カレーニナ(芸名)という女優に、ホーンは「トルストイを読んだことがありますか」と聞く、それに対して女優は「でもどうしてそんなことがお知りになりたいの」とわかっていない様子(p213)。まさかトルストイ知ってて「アンナ・カレーニナ」知らないとは考えにくいが…ここなんか、まさに楽屋落ちみたいな感覚。筋とは関係ないけど、さっきドストエフスキー出したからついでに…みたいな。

第23章、ホーンが借りた部屋からの帰り道、マグダは実家が割と近いから寄ってみることにする…という展開は兄オットー登場か、と読者は期待するが…そこは巧者ナボコフはうまく外し(実家は引っ越したらしい)、いたのはオットーの仲間のカスパール。結局オットーと出会ったのと似た展開?と思う読者(単純過ぎ?)をここも外して、意外と堅気なカスパールはマグダに実家のことをいろいろ教えながら、別れ際には内心マグダの行く末を直観する(p223)。このカスパール語り手にして書き換えなんかできたら素敵…

削るのは惜しい「前衛小説」

 ただひとり、ホーンがいたからだが、ホーンはクレッチマーの影なのだった。
(p232)


なんてクレッチマーというヤツは能天気なんだ…と読者は思うけれど、前に出した図式の…
クレッチマー…19世紀
ホーン…20世紀
というのに当てはめると、「影」だった後行世紀が、生真面目な前世紀を出し抜く、というようには読み取れないか。

3人で出かけたハイキングの帰りの登山電車?で、クレッチマーは元友人で小説家のゼーゲルクランツに会う。この一件で、クレッチマーのみがかなり離れた車両に乗ってしまい、混雑で列車降りるまで他の二人と会えなくなってしまう。
翌日、またこのゼーゲルクランツに会って、散歩しながら書いたばかりという「前衛小説」を朗読してもらう…この「前衛小説」が、言及あるプルースト始めとする長文重厚小説の二番煎じみたいでこれはこれで楽しいが、後の英語版「マルゴ」では「前衛小説」はごっそり削除(ちなみに鉄道旅行もバス旅行になっている)。それはおいといて、ここで重要なのは、この小説内で、ゼーゲルクランツが、前日の列車の中を描写していること。小説は歯医者の待合室に置き換えられているが、それは男の子の『オレンジをちょうだい、ちょっとでいいからさ』という聴覚情報から入り込む。その後は当然マグダとホーンも…
ちょっと思ったのだが、ホーンは聴覚情報を代表してないか。名前からしてそうだし、口笛を達者に吹く(これが遠因となってクレッチマーの娘イルマが亡くなる)。もちろん、クレッチマーは視覚代表…
(2023 08/27)

暗闇の中の笑い


ゼーゲルクランツの朗読聞いて、マグダとホーンの裏切りに気づいたクレッチマーは、マグダを連れて自動車でホテルを後にする。そして無謀な運転で事故を起こして彼は失明してしまう。

 こういった音、こうした足音、声たちは、まるで別の次元を動いているようだった。彼は彼、ほかの者たちはほかの者たちだった。そして彼らと、自分が置かれている暗闇とのあいだには、びくともしない壁のようなものが立ちはだかっていた。
(p275)


こう見ていくと、彼は失明だけでなくて、環境への対応能力全般に支障が出ているように思える。すぐそばにいるのに全く触ることができない、といったような。
続いては、ゼーゲルクランツの再登場。

 人生を公平無私な正確さで再現するべきだという彼の前提、移ろいゆく時の一瞬の相貌を永遠にページの上に定着させるたった一つのやり方だと、つい昨日まで彼が思っていた方法が、今ではもう、やりきれないほどに野暮ったく、いかにも悪趣味なものにしか見えなかった。
(p290)

 あきらかになったのは、ほんの一瞬であれ人生を晒しものにしようとした者は、人生から復讐されるということだ。
(p290)


前半はナボコフの文学観が色濃く見える。後半は…どうだろう、人生を晒しものにせずに小説書くことなどできるのか。逆にナボコフの作家としての覚悟を表しているように思えてくる。

クレッチマーとマグダ(とホーン…クレッチマーは彼がアメリカにいると思っている)は、チューリッヒ近くの山荘へ移る。クレッチマーの眼の治療というのが表向き、クレッチマーの財産を巻き上げるための期間というのが本当のところ。そして、ホーンはクレッチマーのすぐそばまで入り込んで悪戯して楽しんでいる…というこの小説核心部分。

 ホーンには、盲目の男が自分の住む小さな世界を、彼つまりホーンが言ったとおりに想像するのが愉快なことのように思えたのだ。
(p300)


ホーンはクレッチマーに贋の色の世界を作り上げる(クレッチマーは何せ絵画鑑定家なのだ)。それと同時に、盲目な小説世界を辿る読者にも、ホーンは(作者は)贋の世界を提示していて楽しんでいる。クレッチマーも何かがいることを薄々気づき始めている。しかし、いつもはぐれ返されてしまう。

 クレッチマーには、マグダでないだれかが、あたかもマグダのそばでいやらしいうす笑いを浮かべたように思えた。
(p311)


ホーンの笑いとともに作者もうす笑いを浮かべているのではないか…
(2023 08/28)

底なしの穴

ゼーゲルクランツとマックスが会って、マックスがチューリッヒ近くの山荘へ出向く。

 本物の人生、ずるがしこくて抜け目なく、筋肉質の蛇のような人生、ただちに息を止める必要のあるあの人生はどこか別の場所にあるのだが-それはどこか。わからない。
(p327)


本物の人生ってなんだ? と思うけど、今マックスに連れられてベルリンの元の家に戻ってきているが、クレッチマーにとってもはやアンネリーザは幻であり、マグダとホーンこそが「本物」になっている。もし、マグダとホーンの息を止めても、クレッチマーの戻る場所はない(ということは、マグダを殺してから(例えば家にも戻らずベルリン中を放浪するしかなかったとか)どこにも戻れないクレッチマーという話にした方が悲哀の結末になったか)。

というわけで、戻ってきたマグダの部屋へ押し込み、銃殺するつもりだったのが、逆に殺される。「目に見えない獲物を部屋の隅に追い詰めて」「聴覚と触覚は極度にとぎすまされ」(p334 この場面、香水など嗅覚にも頼っているが、ここでは言及なし)ていたはずなのに、実際は閉じ込めていた部屋のドアも開いたままという…

 腰をおろすんだ、それから砂浜をそろそろと歩いて、青々とした波の打ち寄せるほうに歩いていく、青々とした、いや、黄金色をした血管を流れる青くて赤い波だ、色彩を眺めるのはなんてすばらしいことだろう、色彩はどんどんと流れ出して、口のなかがいっぱいになる。
(p335)


死ぬ間際、クレッチマーには色は見えたのか? 見えたというより流れを感じた、ということか。思い起こされているのは、アドリア海のリゾートの風景か。あそこでは青が印象強かった…ただその青は血の赤に変わっていく。「色彩はどんどん流れ出して」という箇所は、「色彩はどくどくと流れ出して」の方が(原文抜きにして)臨場感あるような気もするが、死ぬ描写を増すよりも宙ぶらりんの感覚を持たせた方がいいのか。

解説最後には「赤」「白」などの色彩や「光」と「闇」、「ドア」や「窓」、「鏡」などにかかわる細部に注意してこの小説を読み直そう、とあるけれど…細部といえば、そうそう、終盤にもエレベーターは登場してた。

 エレベーターはかすかなうなりをあげ、ふっと軽いめまいがしたが、かかとに衝撃が来た。着いたのだ。
 彼はエレベーターを降りて歩き出したが、方向がすこしちがっていたようで、片足が底なしの穴のうえに出てしまった。いやこれは底なしの穴じゃない。下に降りる階段の一段目だ。
(p331)


盲目だと三半規管は鋭敏になるのかな…底なしの穴というのがもうこの小説を端的に表しているのだけれど、エレベーターの穴に落ちたような感覚をも得るけれど、実際には降りる階段一段目。この一段目というのが、小説冒頭の映画館での場面を思い出させて、その一段で止まっていればこの後の底なしの穴(つまり死)には至らなかったのだなあ、とちょっと冒頭への懐かしさをも感じさせる。
(2023 08/29)

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