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「ファウスト博士(下)」 トーマス・マン

関泰祐・関楠生 訳  岩波文庫  岩波書店

岩波文庫の1996年のリクエスト復刊から

暴力論と天才


今日から「ファウスト博士」の下巻にいよいよ入る。第一次世界大戦後のいわゆるワイマール体制に落ち着く前のドイツ。知識人も「自由よりも束縛を」と、ソレルの「暴力論」など出しつつサロンなんかで話している。こういうの見てると、なんだかよく10年以上もドイツはもった(ナチスとかに牛耳られなかった)なあと思う。まだソレルは読んでいないのだけれど…
あと、天才(芸術)は病気の産物である…という、マンにお馴染みの思想も語り手は述べている…が、これはマン自身のこの時代の思想のパロディーなのかも?
(2010 10/31)

人間的なものと、非人間的なもの


今日は「ファウスト博士」の第34章(の途中から)と、第35章。この辺になってくるとレーヴェルキューンの音楽(の説明)が、読んでいる自分の頭ではわからなくなってくる。オーケストラが声楽に声楽がオーケストラのように響くとか、哄笑で閉じる第1部の次に、天使的な不協和音で始まる第2部…くらいならなんとかイメージできるが…これも、実際の音楽にはできない、文学の音楽…なのだろうか?
また、そういう話の中に人間的なクラリッサの破滅の話が挿入される。ナチス時代に突入するドイツの精神風景の描写…という点においては唐突な感もあるが、きっと、非人間的なものと、人間的なものの対比をさせたいのかな、と感じた。
(2010 11/02)

ユダヤの興業主がドアの把手を握って立去る…


「ファウスト博士」の下巻の100ページ過ぎたところ。昨日読んだ辺りからのところで、ポーランド出身のユダヤ人興業主がレーヴェルキューンと語り手の「隠れ家」にやってくる…そして一人でしゃべくりながらレーヴェルキューンをパリの芸術家サロンに入れようとしている。
今までのレーヴェルキューンからしてこういう誘いには乗らないと思いながら読んでいると、まだ一人ずーっとしゃべりながらドアの把手を握って立ち去ろうとしている。と、わかるのはしゃべっている当人がそう言っているから。ドイツ人とユダヤ人は嫌われ者で似ているとか、ドイツ人のプロモート役はユダヤ人に任せるべきだとか、いろいろ言いながら。でもレーヴェルキューンはもちろん自分の孤独を守る為に、それに応じない。
この小説が書かれていた第二次世界大戦のことに思いを馳せると、いろんなことを考えさせる一節。ほんとに立ち去らせていいのか、レーヴェルキューン?
追加して語り手もこの興業主に対し、快さを感じていながらなんか警戒心あるような気がする。この辺、も少し読みの深さが必要かも。自分。
(2010 11/04)

レーヴェルキューンとルーディーと発砲事件


1か月くらいかかっている「ファウスト博士」も下巻の真ん中辺り…いよいよ筋も慌ただしくなってきました。やはり「ファウスト」には欠かせないヒロインとの恋愛と絶望、それに巻き込まれていくルーディー…ついには発砲事件まで起こってしまう。
と、そんなこんなの事の発端は、レーヴェルキューンがルーディーにヴァイオリン協奏曲を献呈し初演者となってもらい、「君」で呼ばれる仲になってから。そのヴァイオリン協奏曲のスイス初演で2人は舞台芸術家の女性と会う…と、そんなこんなから。
こんな結末はちょっと前の、バイエルン国王ルードヴィッヒ2世に関する話題が暗示していたのかも。

この事件の直前の市電の描写には、なんだかびくっとさせられるものがあり、こうなってみればこれも何かの暗示だったのか。それと今思い返せば、ルーディーが撃たれたあと、医者を探しながら「医者にはユダヤ人が多く彼らは音楽好きだ・・・それなのに、ここには彼らはいない」と語り手が思っているのも、前のユダヤ人興行主の場面と照応してマンの計算のうち。だと思う。
(2010 11/08)

言語は祝福の為に…

 言葉は賛美、称賛のために創られている。言葉は驚嘆し、賛嘆し、祝福し、現象をそれの惹き起す感情によって特徴づけるのが仕事であるが、現象を呼び出し、再現するのはその任ではないのだ。
(p195)


言語は何かを後で回想する為にあるのではなく、何かを祝福する感情を表す為にある、のだと。
語り手は古典言語学者…だったか?
さて、筋としては、副エピソードのラストの方として、甥っ子ネポムク(通称エヒュー)の登場と、それから死。その死をレーヴェルキューンは自分と悪魔との契約の為、と嘆く。こうして彼は、善の第九交響曲の否定としての「ファウスト博士の嘆き」を作曲し始めるのであった…って感じかな。
(2010 11/09)

全ての表現は嘆き…


先程「ファウスト博士」の結びの直前まで、要するに語り手が語るレーヴェルキューンの筋が終わるところまで読み終わった。あとは、結びと、「ファウスト博士の成立」(マン自身による解説?)と、それから訳者解説のみ。

最後はいろんな人集めて悪魔との契約を告白して、そしてピアノの上に倒れてしまうわけなのだが、まあ、その言い間違いだらけの告白についていけない招かれた人々が退出していく…その反応が面白いんだわ。ちなみに、言い間違いには古いドイツ語・音楽の先生であったクレマッツェル氏の講演・甥のネポムクの妙に古風な言葉使い…など、混じっているのだろう。
標題に挙げたのは、最後の作品「ファウスト博士の嘆き」を語るところで出てくる。昨日挙げた「言語は祝福の為に…」というのと対になると思われる。
(2010 11/10)

「ファウスト博士」読了


というわけで?標題通り、「ファウスト博士」結びと解説読み終わった(「ファウスト博士の成立」はこの文庫にはなかった…)。

 精神の消え失せた場所に最高の精神化の像を生み出すとは、自然のなんという嘲弄的なたわむれであろうと言いたくもなろうではないか!
(p281)


前に書いた、レーヴェルキューンがピアノの上に倒れた時から、彼は病気となって約10年間故郷の屋敷で過ごす。もう年少の頃からの友人である語り手も誰だかわからないくらい悪化している。そんな姿を語り手はグレコの絵に喩えている。そして先の文章になるわけだが、これはやっぱり戦争に突入したドイツそのものを言わんとしているのか?
別なところでマンは「良いドイツと悪いドイツがあるわけではない。最良の部分が悪魔の誘惑にのって最悪なものになってしまった」と言っている。このレーヴェルキューンの最後の姿は、マンにおける、「戦争が終わったらドイツもこうなるであろう」もしくは「こうなって欲しい」姿なのかもしれない。
そして、レーヴェルキューンはくしくもニーチェと同じ八月二十五日に亡くなる。「ニーチェ小説」とも言われる所以がここにもある。
(2010 11/12)

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