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パパ壊れちゃった・・・ごめんね

アイキャッチの写真は、パニック発作を起こす1週間前。
2007年4月29日、昭和の日に近所のダムに隣接した公園に、妻が作ったお弁当を持って、出かけた。

この時に、既に僕は壊れていたのかも知れない。
妻はそれを感じていたのだろうか、良く考えたら家族3人で、こんなピクニックに行ったのは初めてだった。

初めての発作の夜からの事

昨日のnoteには、発症した日の事を紹介した。

病気の告白は本来、勇気のいるものだけど、SNSの普及によってそういうボーダーも低くなったように感じる。時代だね。

発症した夜の事。辛いけど思い出す。何度も探るように、、、思い出す。

2007年5月7日の深夜2時過ぎ、胸部の痛みで目が覚める。
生まれてから胸がチクチク痛む事等、今までもあったが今回は違う。
鈍痛、激痛、昼間も痛んでいたが、またこの痛みだ。

昼間は酒でごまかした。
痛み止めも飲んだかも知れない、いや本当は覚えていない。

「え?俺心臓病?」

病気には無知だった私は、自分の身体の異変に恐怖する。
その瞬間から、加速度的に恐怖が頭を支配する。

「死ぬかも知れない、、、いやこれはヤバいやつだ」

逃げられない恐怖。
そう今まで全ての事から、逃げていた僕に襲いかかる、「逃げられない」という絶対の恐怖。

「こんなので死にたくない!!」

まだ身体は動いていた、手足は大量の発汗脈拍は跳ね上がり、機関車のように心臓は力強く脈を打つ。

全身に痺れのような感覚が走り出す。

気がつけば、ベッドを飛び降り妻に

「ヤバい助けてくれ」

とだけ言い残し、リビングへ駆け込んでソファに倒れ込んだ。

全身を支配された瞬間

生まれてから、それなりに上手に生きてきた。
両親からも祖父母からも、与えられ溺愛された。
人並みにグレて、道を外し人を傷つけて反省してきた。
ボクシングもした、周囲の連中なんかより体力には自信があった。

そんな僕が誰からも理解されない、自分自身が生み出す「恐怖」に支配されているのである。

「死ぬ、、このままでは死ぬ、、、」

恥も外聞もあったもんではない、普段大して口もきかない母を叩き起こし、「母ちゃん、助けて救急車呼んで!」と泣きつく。

少しでも落ち着きたくて、見栄で契約したウォーターサーバーから水を注いで一口飲み干す。

「ダメやん、、、落ち着かない」

やがて症状が少しづつ変化していく、恐怖は形を変えて意識を遠のかせていく。「死ぬってこういう事なのか・・・」頭で何を考えようとしても、何も思い出せない。

妻の名前、娘の名前、娘の名前の漢字。

「気が狂いそうだ、、、どうにかしないと」

理解されないトラウマ

頭の中で自分の脳がおかしく無いのを確認するように、「俺の名前はふみ…よし。明日は5月8日…よし」

言葉を発する事が出来ないくらい頭が混乱し、黙り込んで頭の中だけでの対話が続く。

そして、、、

妻「どうしたと?大丈夫?」
母「何があったとね?どうしたとね?」

答える余裕もなく

「頭がおかしくなりそう、、、救急車を呼んでくれ」

精一杯の返事だった。

妻「お母さん呼ばなくて良いよ、私が連れて行く」

元看護師だった妻からすると、僕の容態は大した事なかったのかも知れない。この時は「おい!こんなにヤバいのに何呑気なこと言ってんだ!」と頭の中でキレたり、これからしばらく「なんで救急車呼んでくれなかったんだろ…」と悩んだ事もあったけど、今考えれば、妻なりの精一杯の看護だったのかも知れない。   …そう思いたい。記憶と下着は綺麗な方が良い。

少し症状が落ち着いてから病院へ

近所のH病院へ行く、妻の運転は私が言うのも何だけど、女性としては上手な方だ。安心出来る。

車に乗り込む頃には、症状が少し落ち着き混乱は無いものの、アゴを含めて全身が痙攣するように震える。やや微熱もあったように思う。
毛布と一緒に車へ乗車。当然幼子の娘も後部座席のチャイルドシートへ着座。「マジで急いでくれよ、、、」正直妻の事が理解出来なかった。

病院へ到着するも、深夜はやってないと断られる。
救急やってたはずなのに、、、さらに15分くらいかかるK病院へ移動。

K病院の駐車場で待機、長く感じる。
看護婦さんが妻と車までやってきた。辛い症状もだいぶ収まりつつあった。
全身の震えと、頭のボーっと感。軽い意識障害や感覚障害のような状態。

ストレッチャーが来ることは無く、救急処置室へ徒歩で、、、

「アレ、、、歩けるしだいぶ良いな」

病状を妻が伝えてくれるも、、、「(そうじゃないだろ…)」と感じ、きつかったが自分で症状を言う。
今の自分が聞いたら、「パニック障害ですね」と太鼓判を押せる症状だったが、まだ一般の医師からすると、心臓発作や不整脈なんかとの切り分けが難しかったろう。

医「心電図を取りますね、あと採血も」

こうなったらまな板の鯉だ、元々病院慣れしてる私は、何が来ようと何の不安も無かった。

ただ、、、また頭の中にあいつがやってきた。

「心臓病かも?いや脳梗塞とか?」

さぁ好きな方を選べ!と言わんばかりに、あいつが迫ってくる。

また脈拍が上がる。心電図をつける看護師さんが言う。
「お父さん頑張って!まだお子さんも小さいのに…これからですよ!」

えっ?俺そんなにヤバいの?
死ぬの?このまま親戚呼ばれるパターン?

孤独な夜を病院で過ごす

パニック障害やうつ病の方ならおわかりの通り、検査結果は異常なし。
むしろ健康そのもの。採血に関しては100点といわれた。

医「少しお疲れなんじゃないかな?」

今更何かも覚えて無いが、点滴をされた”生理食塩水”なのか”ブドウ糖液”なのか、それに何か追加投与されたのか、聞く気力も無かった。

この頃深夜3:30過ぎ。

点滴を付けられ、妻と娘とは処置室前廊下でバイバイ。ベッドに寝せられた僕はどこかも分からない病棟へ移動させられ、看護師にナースコールのボタンだけ渡されて。

「何かあったら呼んでください」

ととても事務的な一言だけ残し去っていった。
10年前の私なら「退院したらパスタ食べに行かない?」とナンパでもするのが、常識だった。

そんな気力も体力も余裕は1mmも残ってなかった。

一睡も出来ないまま夜が明けた。

悲しみの家路へ

点滴を外し、帰ると看護師へ伝える。

ジャージ1つで出てきた私。
帰る術は無い。ベッドの横のかごに電源の落ちたAUの携帯があった。
当時はまだ院内は携帯の使用禁止みたいな風潮だった。

あぁ携帯は持ってきてくれてたんだ。と家へ電話。

「タクシーで帰ってくるね」

私のせいで寝不足であろう気遣いが、自分の中から湧き出た。
そもそも、こんな事を言わずに「迎えにきて〜」と言うような性分だ。
この時だけは違った。

名も知らぬタクシーの運転手に自宅の住所を告げ、自宅までの20分。
ひとりで反省会だ。

結局なんだったんだろ、、、また病院いかないとかな?
このまま治ると良いけどな、母ちゃん心配しただろうな。
とりあえずまた逃げ切れたから良いか。

そんな事を考えてると家につく。
なんだか家が怖かった。

あなたはパニック障害です

それから数日が過ぎようとしていたが、夜になるとドキドキしていた。
「いかん、、またあれが来る」

ゆっくりと呼吸をして、コントロールしようとしていた。
自然と呼吸コントロールをもう既に身につけていた。

ダメだ、、、これは絶対なんかの病気だ。

調べる。仕事と遊びでしか使わないパソコンで、病気の事を初めて調べる。

”パニック障害”

もしかして、これかな。
聞いたことある。でもこれって、、、パニックになるやつじゃないの?
胸の痛み… 冷や汗… 動悸… 死ぬのでは無いか…

え?混乱するとかそういうのでなく、これ俺の事やん。

この時なぜか「良かったぁ!治るやん」と喜んでた自分が居た。
病名がつく事を期待して病院を探した。

たまたま近所に普通の内科でありながら、”パニック障害”を取り扱うクリニックがあった。しかも名医という肩書付き。

予約して行った。
診察開始から数分後・・・

「パニック障害ですね」

あっさりと診断された。

シナリオどおりだった。「やっぱりね」そんな気持ちだった。

長い物語の始まり

病気の説明や、向き合い方・呼吸によるコントロール法・トレーニング法をレクチャーされるが、とにかくあの発作を消す薬があれば良いと思っていた。歯痛を止めるように痛み止めが欲しいのと同じ感情だ。

薬局で薬を受け取り、、、

「アレ…これって精神病なんかな?」
と、右手が薬を出すのをやめた。飲むはずだった左手のペットボトルをベンチに置いて、ふと考える。

家に一旦帰りパソコンで「パニック障害 精神病 違い」[検索]と調べる。

え…精神科の病気じゃん

鼓動が胸を突き破って、頭に突き刺さった。

薬を飲むのを辞めて、車で会社へ向かう。
現実からまた逃げ出した僕。

「俺は精神病なのか・・・」

車内で何度も泣いた。晴れ渡る2007年5月24日のお昼間。子供のように泣いた。

会社につき、仲間が心配する。

デスクにつき、薬袋を眺めてまた号泣した。

身体の不調は限界だった。
もうどうにもならなかった。

「○○(妻の名前)、○○(娘の名前)、母ちゃん、、、ごめん」とつぶやき、薬を1錠飲んだ。

僕が病気を認め、逃げる事を諦めた瞬間かも知れない。

「パパ壊れちゃったよ」

ただただその事で頭がいっぱいになり、たくさんの事が不安に反転し、今まで作り上げた事が全て音を立てて崩れ始めた。

大げさに聞こえるだろう。
僕もそう思ってました。

つづく

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