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メタポストとしての宗教、統合失調症との交差点

宗教というものの定義を簡潔に行う。まず宗教というものを形式的に捉えた場合、教えるものと教わるものの対がいた時点で宗教性があるとする。つまり、はじめから会話の〈場〉において人間は対等ではなく、偏りが存在する。このようなモーダルに着目する。

教えるものは教えられるものよりメタ的であることが求められる。既存の宗教のいろいろな例を参照したらわかると思うが、とにかく情報場におけるメタな認識を持っている人間のほうが優位に立つ。その下は天下り式である。宗教はねずみ講と構造が同じである。

宗教は、人間の弱さや無知につけ込み、巧妙に支配と搾取のシステムを構築してきた。教える側は、自らが特別な存在であるかのように振る舞い、神や超越的な存在の代弁者を装うことで、絶対的な権威を手に入れる。一方、教わる側は、自らの無力さや罪深さを呪縛され、盲目的に教義を受け入れざるを得なくなる。

この構造は、まさに情報を独占し、思考を支配することで成り立つ洗脳のメカニズムに他ならない。宗教は、人々から主体性を奪い、自由な思考を抑圧する。そして、その支配を永続化するために、罰則や恐怖心を利用し、信者を従順な羊の群れへと変えていく。

宗教は、社会の進歩や変革を妨げ、古い価値観や差別を温存する役割も果たしてきた。権力者と結びつき、既得権益を守るための道具として利用されることも少なくない。宗教は、人類の解放と自由を阻む最大の障壁の一つといえるのではないだろうか。

宗教とは、そもそも人間が「自分よりメタな存在」を仮定することにつけこんだ病気のようなものだ。そこに当てはまるのが統合失調症である。

宗教と統合失調症は、ともに現実との関わり方に歪みを生じさせる点で共通している。統合失調症患者が体験する幻覚や妄想は、現実検討力の低下により生じる。一方、宗教もまた、現実には存在しない超越的な存在を信じ込むことで、現実との乖離を生み出す。両者は、「現実」からの逸脱という点で、構造的な類似性を持っているのだ。

さらに言えば、宗教と統合失調症は、ともに「自己」の境界の曖昧さと関係している。統合失調症患者は、自己と外界の区別が不明確になり、自我の崩壊を経験する。宗教もまた、自己を超越的な存在に委ねることで、自我の拡散をもたらす。両者は、「自己」の確立という課題において、困難を抱えているのである。

加えて、宗教と統合失調症は、ともに社会からの疎外感を伴いやすい。統合失調症患者は、現実との乖離ゆえに社会から孤立し、疎外感を深めていく。宗教もまた、一般社会とは異なる価値観や行動規範を持つがゆえに、社会との軋轢を生じさせる。両者は、「社会」との関係性の問題を共有しているといえる。

このように見てくると、宗教と統合失調症は、「現実」「自己」「社会」をめぐる人間の根源的な問題系の中で、交差する地点に位置づけられるのではないか。

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