FULL CONFESSION(全告白) 13 ゴッホ的映画創造ーただ、映画をつくれるか?
GEN TAKAHASHI
2024/7/29
基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。
第13回 ゴッホ的映画創造ーただ、映画をつくれるか?
「若い血が汚れる」という例をたくさん見てきた。言いかえればオトナになる若者を山ほど見てきた。
子供が成長するのは生物学的に当たり前だと思われているが、人間の場合は、ややこしくて、単に成人して老化していくのではなく、ついでに「頭の中身」が変化していく。
このことは、私のような創造活動(芸術ともいう)をやっている者にとっては、大変にマズイ問題なのである。オトナになったら商売抜きでの創造活動や芸術活動なんて、絶対的にできなくなるからだ。
私は専門家ではないから正しい知識かどうかわからないが、地球上の人間以外の生物は、基本的に子供からオトナへと成長するわけじゃない。
未成体から成体へと成長はするけど、人間以外の生命体には、いわゆる精神や思想は元からなくて、外敵から個体を守り、餌を確保して、次代の命につなげるという生存本能だけで、死ぬまで「ただ生きる」のだ。
ご存じのとおり、生物は動物だけではない。植物に至っては光合成だけで生きている種がほとんどだ。「ただ生きる」という面では、人間は地球で最弱の生物だといって間違いないだろう。
よくよく考えてみたら「なにも考えずに、ただ生きる」というのは、想像を絶する神業だ。これができる人間、できている人間は、もはや人間じゃないといって差し支えない。
私も日頃から、この域に到達したいと思っているのだが、そもそも「到達したい」などと考えること自体、考えていることにほかならないのだから、人間たる者、地球上の生物ではないのだろう。だって、人間以外の生物は、みんな思考することなく「ただ生きる」ことができているのだからな。
そこで、開き直って考えてみると、われわれ創造活動をしている人間というのは、創造を通じて「ただ生きる」ことを標榜している種類の人間なのである。
でも実際のところは、なかなかそうはいかない。通常の映画作りでは、カネを用意する人間と、脚本を書いたり監督する人間や俳優やスタッフたちは違う。出資だとか協賛だとか、単にカネを出す人間の趣味だったり、映画を作るための資金を出す人間がいる限り、上下関係を抜きにしても「カネを出した人がおもしろいと思える映画を作ろう」と、われわれ映画屋は、それなりに考えるのだ。これが良くない。
まずは映画作りは光学技術を利用する創造活動なので、カメラの種類からフレームサイズ、光量、ピントからして、まったく考えないまま手を動かしても映像が撮影できるというふうにはならない。
ところが、たとえば絵画とか、自分の肉体だけで表演する舞踏は、考えるより先に手を動かすだけでも、創造活動ができるのだ。これは良い。
私がよく、画家フィンセント・フィレム・ファン・ゴッホを引き合いにするのは、創造活動や芸術活動と呼ばれるものの正体が「ただ生きる」こととつながっていて、カネや名誉(知名度)と、まったく関係がないことを証明しているからだ。
ゴッホの絵がカネと名誉になるのは、本人が死んだあとに、商売人たちが群がって取引のネタにしただけで、ゴッホ自身は巨額のカネと名誉にありつけなかった。
「ゴッホの絵が1年でも早く売れてカネがあったら、ゴッホが精神を病んで自死することもなかっただろう」説を唱える美術史家もいるようだ。ゴッホの生前に、彼を称賛していた美術評論家はいるものの、カネがないから精神的に閉塞してしまったのだ。
このゴッホの気持ちが、私はもの凄く理解できる。
辛うじて私がまだ自死しないのは、画家と違って、映画の創造活動というものは、商売になる前から多くの人々がかかわるから、本当の孤独の中で精神を閉ざすということが起こりにくいからだ(起きないとは言わせない)。
私のフィルム時代の映画のほとんど全作は「国立映画アーカイブ」に収蔵済みである。「くにたち」じゃなく「こくりつ」です。念のため。
これは私がいつ死んでも、私が創造した映画が保存されるように、私自身が寄贈の手続きしたのである。つまり、私以外に、私の映画の価値を気にかける人間などはいないからである。
文化予算がフランスの10分の1だという日本だが、ちゃんと国立の映画保存機関がある点では、私の映画も救われたわけだ。
私はまだ行ったことはないが、その一般非公開の映画保管庫は「国立映画アーカイブ・相模原分館」といって、8万本以上の映画フィルムが、映画保存に最適の室温・湿度で24時間監視体制で管理されているという。フィルムの寄贈者は訪問できるようだから、私も今年は行っておこうと思う。
後世の誰かが「国立映画アーカイブ」で、私の映画を「発見」したら、映画の価値などわかりもしない商売人が「カネにできないか」と、それまで見向きもしなかった私の映画に、あさましく集るかもしれない。
昔から、ゴッホとの量子力学的な縁がありそうな私だが、きわめつけは、私の監督代表作の1本『陽光桜-YOKO THE CHERRY BLOSSOM-』(2015年)の撮影監督フィリップ・ハーダー(Philip Harder/通称 フィル)だ。
フィルは米国を代表するCF・映画監督にして撮影監督でもある業界の大御所だが、日本ロケの私の映画に参加してくれた正真正銘の映画人だ。
彼は、自他ともに認める「ゴッホ似」で、2019年のハロウィン(10月31日)には、こんな写真を私に送ってきた。
フィルの奥さんも、ゴッホと同じくオランダ人で、一家でアムステルダムにあるゴッホ美術館をはじめて訪れた際、ハロウィンのように仮装をしていたわけでもないのに、フィルを見たゴッホ美術館の館長が仰天し「あまりにもゴッホの生き写し」だからと、フィル一家の入場料を免除したほどだ。
そんなフィル・ハーダーが、子供の頃からゴッホの人生を気にしていた私の映画を撮影することになるとは、ちょっと不思議に思うかもしれないが、時間が存在しないことを知っている人間にとっては、まるきり不思議ではないのである。
要するにゴッホは生きているし死んでもいるし、私もフィルも生きているし死んでもいるのである。
このような感覚は、映画を「製造」するだけの企業人では、ほとんど理解できない。だから、カネと名誉(知名度)がなければ映画を生産できないと信じているし、そもそも企業映画の会社員は、業務担当として映画にかかわっているだけで、映画を創造してはいない。日本の映画業界には、これを勘違いしている者が多過ぎる。
さて、こう書いていて本当に今、気がついたことだが、今日7月29日はゴッホの祥月命日なのだった(1890年7月29日没)。
そして私は「ゴッホ的映画創造」を続けながら「ただ生きる」のである。