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働くということを考える

穏やかな躁状態がやってきました。もう、話していても躁状態とは気づかれません。この穏やかな視点で、わたしの仕事の気付きという視点で共有したいと思います。

働いてきたなかで、強い影響を受けた仕事が2つあります。ひきこもり支援の事業所で、作業所のリーダーとして働いたことと、ベンチャー企業の人事室で派遣として働いた経験です。

共通項としてあったのは、抱えているものを共有したくないという強い抵抗力でした。

個人が社会に働きに行くための訓練と、企業が利益を温存しながら福利の充足を図る営みは視点も状況も全く別ですが、人間の本質をついているような気もしたのです。

先に人事の経験を話すと、利益を温存したい創業者と、創業者の視点を加味してバランスを取りたい上司と、現場の見地を持ち込む部下の間で対立が起こります。創業者の意見などクソ喰らえ、という気持ちにもなります。みんな、腹の中に抱えているものがあるわけです。わたしは派遣の立場で、会社の渦に飲み込まれずに俯瞰して見る立場にいましたので、共有できる創業者のプラス還元できる面は現場リーダーに伝えて風通しを測る必要があると思い、行動しました。現場からは感謝されましたが、人事からは嫌われました。見て覚えろ、わからないことは聞けと、それが人事の教え方でした。文章チェックも入りました。創業者はその調子でやってくれと、わたしに声をかけてくれました。コミュニケーションが足りない。とくに人事の中には利権が渦巻いているようでした。語らない人が多すぎて、創業者の声すら素直に届いていない。精神疾患になる人事経験者が多いのは、こうした立場によるものだと思います。

ひきこもりの方は働いた経験のある方にとっては、こうした会社の利害関係が駄目の後押しで精神疾患になっているわけです。他者を信頼できないから自己防衛になるのは自然な反応だと思います。無理して自己開示するべきだとか、そんなふうには思いません。少しずつ、信頼して貰うように社会が歩み寄るべきだと思います。社会に障害があるほうが問題だという考え方は、ノーマライゼーションといわれ、福祉の大勢になってきています。

結局は、会社が精神疾患の鬼門になっているようですね。働いた人たちが精神疾患を急増しているのは、企業が傷病手当金を払いたがらなかったり、休職を繰り返したら退職勧奨をしたり、自己都合退職を勧めたり、企業が損をしないように必死だからです。余裕のない会社で仕事に追い立てられていると、社員も精神を崩します。個々人のペースはそれぞれなのに、のんびりな人もハイペースを求められ、休憩も一人になることが許されないような環境で死にたくなるようなら、離れたほうがマシでしょう。

 統計で見かけた最新の記事では、企業の待遇が追いつかずに精神疾患を社内で抱えている人の数は、先進国で日本がダントツだそうです。だから、素人に経営権を任せてはいかない気がするんですよ。ワンマンでイエスマンしかそばに置かず、水に合わない人を社風に合わないと切り捨てるのは、社長の手腕がないからですからね。そんな企業は見捨てて構わないんですけど、こんどは人材のほうが拾ってもらえる企業がなくなっていく。
結局は企業にすがるしかない日本の社会構造に問題がある気がするのです。

氷河期世代が引きこもり化しています。その中にはかなりの精神疾患者が療養中です。その親世代は団塊世代です。
せめて、企業の体力があれば賃金も上げられたのでしょうが、バブル世代は圧迫面接をして、上に媚びることで賃金を確保してきて仕事にならない、氷河期は雇用機会こそ有ったものの、賃金は目減りするばかりで重労働を課せられてきて、いまならブラックと呼ばれる環境は当たり前でした。それを政府が政策として是正を突きつけないと自力では改善の必要性すら見えなかった、日本の狭窄した企業体質に問題があるような気がします。


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