アイスコーヒー

 幸福なんだと思う。初恋が実って結婚に至り、毎日楽しく暮らしているんだから。僕は妻を愛しているし、愛されている実感もある。満たされている。
 でもそれが何を意味するかって言うと、厳密に言うと僕は、片想いも失恋も経験したことがない、ということ。想いが届かない苦しさも、好きな人が去っていく喪失感も、僕の人生にはなかった(後者は、寿命との兼ね合いからもうしばらくしたら経験するかもしれないけど)。だから、僕の幸福には比較がなくて、絶対的なひとつとして僕の中に在る。

 風の向きが変わった。前髪さえ揺らせないほどかすかな海風だ。バルコニーにふたり並んで、読書をするのが日曜午後のルーティン。残暑の9月中旬だが、4時過ぎにもなると秋の冷たさが風に入り込んでいる。用意のいい妻は薄手のブランケットを肩にかけ、とっくに読書を放棄してまどろんでいた。ふたりの真ん中に置いたアイスコーヒーは、氷がとけてほとんど麦茶みたいに薄くなっている。
 もし、僕の人生に2人目の恋人が現れるとしたら、それはどんな人なんだろう。昼寝する妻の横で、早朝ひとりでの散歩中に、花屋の前を通り過ぎる時に、それはちょくちょく僕の頭の中に思い浮かぶ秘密のトピックだ。一度たりとも口にしたことはない。妻に対する礼儀もあるけれど、どれだけ考えても具体的な像を結ばなくて、口にできないといった方が正しいかもしれない。
「…」
 その恋人は、きっと女性なんだけど、顔立ちも髪形も背丈も、年齢も、まるで想像ができない。「妻ではない女性」というくくりはあまりにも自由度が高すぎて、想像力が働かないのだ。僕にとって世の中にいる女性は「妻」と「妻ではない女性」の2種類しかいない。その中から2人目とすべき属性って、一体何なんだろうか。
 思考はいつも堂々巡りだ。妻に似ていても、妻に似ていなくても、妻に失礼な気がする。そう思うと、選択肢は全滅して行き止まり。もし仮に、妻が先立ったとしてもこの思考からは逃れられないのだろうな。生きる時間を止めてしまった後の妻に対して、まだその時間を持っている別の女性を比較することが、僕にはできない気がする。
「難儀な人生だなぁ…」
 だけど、幸福なんだと思う。小さなくしゃみをして妻が目を覚ましたので、風邪ひくから中に入ろう、と声をかけて僕は立ち上がった。

―――――

 夢を見ていた。夢の中でわたしは南国にいて、奇妙にカラフルな民族衣装を身に着けていた。周りにいる人たちが話す言葉は理解できない。ただ、不安はなかった。私には夫がいて、彼といると幸せだという気持ちは、夢の中でもしっかりと感じられた。夫だというその男は、毛むくじゃらで頑強そうな若者だった。
 うとうとしてしまった。ブランケットをかけていても風が肌寒くて、目は覚めていたが、目を開けるのが億劫だった。バルコニーでコーヒーを飲みながら、夫婦で本を読む。それはとても穏やかな、幸せそうな光景に見えるらしい。あまりにも長く続けてきたがゆえに、やめるタイミングを見失ってしまっただけの習慣だと言うと、大概の人は変な顔をする。
 私は夫をとても愛しているけれど、それと同じくらい、夫に飽きている。夫もきっと、わたしに飽きているはずだ。12歳の頃に初めて出会ってから、もう50年以上一緒にいるのだ。その間に、わたしは何度もいろんな人を好きになっては、自分のなかで完結させてきた。想像は自由だし、夢の中はもっと自由だ。恋人なんてものは、自分の頭の中に飼うに限る。現実世界には必要ない。だって、愛する夫がいるのだから。

「風邪ひくから中に入ろう」
 夫の声に目を開けると、青い夕方が近づいていた。氷がとけてほとんど麦茶みたいに薄くなったコーヒーを一口飲む。もはやなんの香りもしない、かつてコーヒーだった液体。わたしたちみたいだと思ったなんて、言えるはずもない。

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