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自己肯定感と他者評価と私の反省

バイト先のレストランのお客さんに
[フキョウワ]の第二回公演の映像を観てもらって、その感想をもらった。
「すごい自公肯定感低めな感じやったけど
誰か知り合いにそういう人がいるの?」
と聞かれ、
“いやぁ、知り合いの話も入ってるんすけど、
実は半分以上自分の話なんっすよねぇ”
と返したら、
「え?そうなんやー!なんか、全然そんな感じせんからー」
と言われて、
“あ、そうなんだ。
私ってバイト先ではそんなに自己肯定感低めな人間には映ってないんだな”
という発見があり、なるほどなぁ、とか思ったところからこの話は始まる。

第二回公演の「足掻き(あしかき)」は割と赤裸々に私自身の話だったりする。実際、私の“ヒトトナリ”を知ってる人からすると、
「まんまやん」とツッコミを入れたくなる話だったことだろう。
一方で、2021年3月現在の私が自己肯定感低めかと言うと、
そんなことはないと思う。
それは外的評価としても、個人的な感覚としても、だ。
実際、それくらいの距離感が無ければ
脚本に落とし込む作業は難しかったように思う。
だから、レストランのお客さんの反応は的確だ。

めちゃくちゃ自信がある、自公肯定できてる、というわけではないけれど
圧倒的な自己否定感に悩まされている、ということもない。
昔の私は、まぁ・・・低かったかな。自己否定が高じて、
精神的に強くならなきゃと剣道を始めるくらいには低かった気がする。

この自己肯定感というやつは、なかなかに現代の主題になるもので
いかに自己肯定感を高めるか、の書籍なんかは
本屋を歩いているとよく目にする。
そういう本を見てると、他者の評価を気にしないようにと書いてたりするわけだけど、いやいや、他者評価気にするっしょ。他者評価高い方が、そら自己肯定感も高くなる傾向にあるっしょ、と思ったりする。

自己肯定感と他者評価は、どうしても関係がある、と私は思う。
組み訳をしてみよう。
①自己肯定感高×他者評価高
②自己肯定感高×他者評価低
③自己肯定感低×他者評価高
④自己肯定感低×他者評価低
そもそも他者から評価されない(他者と関わっていない)タイプもあるだろうけど、一旦はこの4類型だろう。
①と④は想像に易い。
他者から褒められたら自公肯定感は上がるだろうし、逆もまた然りだ。
ただ、②・③のようなタイプもある。
②のように他者の評価は低いのに自分は素晴らしいと思うタイプ。
③のように他者からの評価が高いのに、それが自己肯定感に繋がらないタイプ。
他者の評価がその人に届いているのか届いていないのかもキーになるだろうし、他者の評価を受け入れている受け入れていない、というのも大きなファクターになる。一概に類型化できるわけではない。各類型もさらに細分化されていく。

で、これはある種の認知的不協和ともとれる。望むものと現実が一致しない、という状況が生じやすい。私はそこに物語性を期待してしまう。
語弊無く言えば、認知的不協和に陥っている人が私は好きだ。
魅力的に感じる。もっと知りたいな、あわよくば脚本にしたいな
とか思ってしまう。

最近にしても過去においても
私はこの手の話を聞いて、迂闊にもワクワクしてしまっていたように感じる。そこにはどんな物語があるんだろう。
その人のことをもっと知ってみたいぞ、というように。
ワクワクに乗じて、不躾な質問や
ある種の決めつけも行ってしまっていたように思う。
しかし、言わずもがな、この手の話はめちゃくちゃデリケートな話だ。
ずかずか土足で踏み込んでいいものじゃない。
それはあまりにも残酷で暴力的な行為だ。
時に、相手を深く傷つけ、人生を左右することすらありうる。

芥川龍之介の地獄変・絵仏師良秀よろしく
自分の娘を犠牲にしてなお、娘の焼かれる火を嬉々として眺めるような
相克と矛盾の果てに芸術があるのだ
という意見もあるかもしれないけれど、それはある種の逃げなんじゃね、とも思う。他に方法探す努力放棄してんじゃね、と。

ってか、絵仏師良秀は別に相手の犠牲を厭わなかったわけじゃなくて、
相手と向き合った結果だったんじゃね、とも思う。
(ただし、地獄変では焼かれる娘との直接的対話はない)
何にせよ、踏み込むには相手としっかり向き合う礼儀と覚悟と責任が伴う。
そこには1人1人の何かしらがある。
そこと向き合えば自然、相克と矛盾が生まれる。

おそらく、この手の題材は今後も少なからず脚本に出てくるだろう。
真摯に向き合い、対話を続けるしかないと思う。

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