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美術批評の公共性

これらの文章が読まれることはほとんどないのは事実であるが、まさにこの理由のために、原理的には書きたいことを何でも書くことができるのだ。
──ボリス・グロイス

最近、銀座の画廊巡りをやめた。

銀座といえば、隣接する京橋や新橋、あるいは日本橋や神田までも含めて、長らく現代美術の中心として機能してきた街である。今も昔も、このエリアには数多くの貸画廊が密集しており、それらの画廊を目指して多くの美術関係者が集まってきた。とりわけ、かつての美術評論家にとって銀座は特別な意味をもつ街で、彼らは巡礼地を巡るように、いくつもの画廊を渡り歩いていたようだ。たとえば、村松画廊(1942~2009)や東京画廊(1950~)、サトウ画廊(1955~1981)、南画廊(1956~1979)、秋山画廊(1963~)、ルナミ画廊(1963~1998)、ときわ画廊(1964~1998)などは、美術家と美術評論家が作品を媒介として出会い、美術批評が生産される現場だった。また、ハイレッド・センターと内科画廊(1963~1967)、もの派と田村画廊(1969~1990)がそれぞれ分かちがたく結びついていたように、銀座の画廊は戦後美術の歴史を根底から支えるトポスだったと言ってよい。

とはいえ、時代は変わった。1990年代の東京にコマーシャル・ギャラリーが台頭して以来、現代美術の中心は銀座の界隈から他の街へ拡散してしまった。今や数々のコマーシャル・ギャラリーが軒を連ねる六本木は現代美術の新たな中心地として広く知られている。また、近年では、従来の「画廊」という形態や「美術」という狭義のジャンルにとらわれないオルタナティヴ・スペースをはじめ、アーティストがみずから運営するアーティスト・ラン・スペース、さらに共同アトリエを一時的に公開するオープン・スタジオなど、美術作品の発表の仕方も多様化した。あるいは、「ギンブラート」(1993)や「新宿少年アート」(1994)といった都市型のプロジェクトによって従来の貸画廊という制度そのものが批判的に相対化されたことの意味も大きい。このように銀座が現代美術の中心でなくなったことは明白な事実である。ただその一方で、往年の賑わいを失ったとはいえ、銀座近辺には今もおびただしい数の貸画廊が林立しており、毎週のように美術家たちによる個展が開催されていることもまた否定できない。であるならば、その現場を目撃しないわけにはいかないだろう。

銀座の画廊巡りをはじめたのは2004年。かつて『美術手帖』誌の巻末に掲載されていた「ギャラリー・レビュー」の連載を請け負ったときである。この仕事は800文字程度のレビューを毎月3本書くというものだったが、駆け出しの美術評論家にとって、このノルマはかなり厳しい。金と時間に恵まれないばかりか、見る眼と書く手が成熟していないからだ。そのため日々の労働の合間に、銀座はもとより、当時からコマーシャル・ギャラリーが進出していた六本木や清澄白河、西新宿、神楽坂、恵比寿、あるいは美術館が集まる上野や中央線沿線など、文字どおり都内の隅々を、必死の思いで駆け回った。2本までは何とか見つけられるが、残りの1本をどうしても見つけられない。心臓をぎりぎりと締め上げるようなあの焦燥感は、今もなお脳裏に焼きついて離れない(今では笑い話だが、当時右も左もわからなかったわたしは、どういうわけか日動画廊に迷い込み、黒服の店員に怪訝な眼で迎えられたことを覚えている)。

歩くコースはだいたい決まっていた。ほとんどの場合、日本橋あたりから歩き始め、京橋、銀座へと南下、新橋で終わるというのが定番の順路だった。ビルとビルのあいだの路地を縫うように歩き、雑居ビルの階段を上り下りしながら、展示された作品を鑑賞する。ちょっとした体力勝負である。貸画廊の場合、おおむね一週間から二週間で展示が入れ替わるから、その運動をほぼ毎週のように繰り返してきたことになる。しかも、この習慣をかれこれ10年以上に渡って継続してきたことを思えば、それは容易には拭いがたい、ある種の身体技法と化していると言っても過言ではないのかもしれない。じっさい、わたしより年配の美術評論家は、そのような過酷で地道な運動こそが美術批評の基礎体力を養う重要な訓練だったと口をそろえる。当時はまったく理不尽に思えたものだが、今振り返れば、わたしもまた、そのトレーニングによってみずからの批評眼と文体を鍛え上げられたことは疑いなかった。美術批評という生業が、結局のところ美術作品を「見る」ことと「書く」ことによって成立しているとすれば、双方は「歩く」ことがなければ決して実現しないからだ。

銀座の画廊巡りは、その連載の仕事が終了した後も、変わらず継続した。むろん新聞やウェブ・マガジンなど他の媒体に寄稿する仕事のためでもある。けれども、それ以上に、わたしの脚を銀座の貸画廊に向かわせたのは、他の美術評論家たちの不甲斐ない働きぶりだった。ギャラリストたちと言葉を交わすうちに、銀座の貸画廊に毎週のように訪れる美術評論家は皆無に近いという事実が判明した。むろん、厳密に言えば、一貫して銀座の画廊巡りを継続している美術評論家もいないわけではない(たとえば本江邦夫。わたしは氏の審美眼や批評文には、かつても今も、一度たりとも賛同したことはないが、芳名帳でしばしばお名前を見かけるという、ただその一点において尊敬している)。けれども、わたしと同世代、あるいはわたしより若い世代の美術評論家で銀座の貸画廊を定期的に見て歩いている者は、どうやらほとんどいないようだった。美術館の学芸員や美術雑誌の編集者、新聞社の美術記者も、一昔前までは画廊巡りをしていたという証言を耳にするが、現在では誰一人としていないらしい。銀座の画廊巡りが美術批評の基礎体力を育むトレーニングだとすれば、それを経験していない昨今の美術評論家は著しく虚弱な体質だということになる。わたしが銀座の画廊巡りを継続してきたのは、美術批評の伝統的な儀礼行為を継承すべきという封建的な価値観にもとづいていたわけではまったくなく、美術評論家という大仰な看板を掲げる以上、そのような肉体的な基礎訓練を積み上げることが最低限の倫理であるように思われたからである。

それにしても、いったいなぜ美術評論家は銀座の画廊巡りから退いてしまったのだろうか。あいもかわらず欧米の美術理論をいち早く紹介することが美術評論家としての正統性を体現する身ぶりであると妄信しているから、時代錯誤の作品しか展示されていない銀座の旧態依然とした貸画廊などには見向きもしないということなのだろうか。それとも美術家から決して安くない賃料を巻き上げる貸画廊という日本ならではの悪弊を切り捨てる一方、国際的な美術市場と直結しながら作品を売買するコマーシャル・ギャラリーだけを批評の対象として限定することが、美術評論家としての倫理的な正当性を担保するとでも言うのだろうか。あるいは、銀座の街にローラーをかけるように虱潰しに歩く身ぶりが、玉石混淆の中から価値ある作品を見出すうえで、きわめて効率が悪いという、じつに今日的でスマートな損得勘定が働いているのだろうか。正確な要因はわからない。しかし、銀座の画廊街では今もなお数々の個展が開催されていることだけはたしかな事実である。たとえ、それらの大半が古色蒼然と見えたとしても、現にそこで優れた美術家たちが育まれている以上、彼らの作品を定期的に鑑賞し、批評的に言語化する作業が無意味であるとは到底考えられない。事実、たとえばコバヤシ画廊で発表している永原トミヒロや山本聖子、ギャラリイKの秋山正仁やウラサキミキオらは、そのような定点観測に値する、ひじょうに優れたアーティストである。あるいは、現在は中堅作家として知られる川崎昌平、小瀬村真美、三瀬夏之介、元田久治、山本太郎らの作品とわたしが初めて出会ったのも銀座の貸画廊だった。もし銀座の画廊巡りをしていなかったら、彼らの作品を通時的な評価軸で批評することはできなかったにちがいない。美術評論家が美術家の作品を「見ない」ということは、すなわち「書かない」ということであり、ひいては歴史に「残らない」ということになりかねない。同時代の美術を語る言葉が脆弱になるということは、いずれ編纂されるであろうこの時代の歴史が豊かな幅と厚みを失うということになってしまう。現在の美術批評の貧しさは、来たるべきディストピアの予兆なのだ。

わたしが10年以上継続してきた銀座の画廊巡りをやめた理由は、ごく単純である。.........

[以下、11713字。全文は京都服飾文化研究財団発行の『fashion talks...』vol.8を参照]

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