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天皇×コラージュ×ごっこ大浦信行《天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命》

「てっめぇ、この野郎じゃっかましい!」。2011年9月11日の新宿は、異様な興奮と喧騒に包まれていた。その源は、脱原発を訴えるサウンド・デモ。1万人以上の参加者が大音響とともに繁華街やビジネス街を練り歩き、脱原発の意思をアピールした。だが、参加者の周囲には大量の制服警官がものものしく立ち並び、ついには私服警官が参加者の一部を次々と力ずくで検挙していった。双方から飛び交う怒号。携帯をもった右手がいっせいに混乱の中心に向けられるが、駆けつけたパトカーのサイレンが抗議の声を一気にかき消していく。デモの終了後にアルタ前の広場でおこなわれた集会も、警官の隊列によって厳重に包囲され、発言や音楽を塗りつぶすような注意勧告がけたたましく鳴り響いた。脱原発をめぐって集まったさまざまな人たちの熱気と音が混然一体となり、ビルに囲まれた広場はたちまち「坩堝」と化した。

3.11以後にはじまった第二の戦後は、8.15以後の第一の戦後がそうだったように、政治的イデオロギーの再編を強いるにちがいない。既成政党がこの危機に十分対応できていないからではない。脱原発運動を主導する「素人の乱」が、既成政党や政治団体からではなく、文字どおり政治の素人から生まれたものだからだ。いま現在大きなうねりを形成しつつある大衆運動の出自が、従来の「政治」の外部にあることの意味は決して小さくない。右翼のなかには脱原発デモに反対する者もあるが、愛国や憂国を唱えるのであれば、率先して放射能汚染から国土を守らなければならない。左翼のなかにも脱原発デモにおいて右翼と共闘することを拒否する者がいるが、大気に万遍なく飛散してしまった放射性物質を前に、左右のちがいに拘泥するありさまは滑稽というほかない。「革命」でも「維新」でもどちらでもいい。従来の政治的スキームに収めることができない新たな非常事態が到来しているのだ。好むと好まざるとにかかわらず、これは揺るぎない事実である。

「ブタ野郎どもめ……」。歩道橋の上からライフル銃を構える見沢知廉が小さくつぶやく。テロルも辞さない新右翼活動家としての見沢の真髄をみごとにとらえた、石川真生の写真である。このとき、見沢が照準をあわせていたのは、親米的な政治家という売国奴だったのだろうか、それともいつまでも覚醒しない平和ボケした大衆だったのだろうか。

小説『天皇ごっこ』は、見沢知廉のデビュー作にして、最高傑作だと思う。天皇制批判の論客を殺害するテロルが克明に描かれているからではない。皇国の根幹として崇拝する右翼と同時に、諸悪の根源として罵倒する左翼がともに描かれているからだ。しかも重要なのは、ここで見沢は天皇を直接描写することなく、天皇の輪郭を表現することに成功していることだ。入獄者には恩赦をもたらす仁慈として、一般市民には容易に触れることを許さない禁忌として、天皇はそれぞれ立ち現れるが、決してその姿を見せるわけではない。天皇が不可視の超越的存在であることを、見沢は丹念に描いてみせた。

とはいえ、この小説を読み終わって思い至るのは、じつは天皇こそが、もっとも虐げられた存在ではなかったかということだ。右からは祭り上げられ、左からは罵られ、慈悲を求められるかと思えば、タブーとして忌避される。ありとあらゆる人びとの要求を受け入れることを余儀なくされる究極的な被差別者としての天皇。見沢が採用したオムニバス形式は、多方向からのアプローチによって、この天皇像に読者を導く、すぐれて戦略的な方法論として考えることができるだろう。

78年春──。見沢知廉が共産主義者同盟戦旗派の一員として三里塚闘争に熱を入れていた頃、永山則夫はすでに獄中にいた。数年前に『無知の涙』を上梓していたから、プロレタリア階級意識を完全に獲得していたのかもしれないし、87年に発表する『捨て子ごっこ』の執筆に取り掛かっていたのかもしれない。いずれにせよ、連続射殺魔であり小説家でもあった永山に、見沢は並々ならぬ共感を覚えていたにちがいない。殺人を犯したうえ獄中から小説を書くという境遇に親近感を抱いていただろうし、『天皇ごっこ』が『捨て子ごっこ』へのオマージュであることは疑いない。永山は見沢を知らなかったかもしれないが、見沢は永山を完全に意識していた。

だが、永山にたいする見沢の想いには、ある種の羨望や嫉妬も含まれていたように思われる。なぜなら『捨て子ごっこ』を永山に書かせたものが、見沢には一切なく、その欠乏感をして見沢に『天皇ごっこ』を書かせたと考えられるからだ。永山にあって見沢にないもの。それは、小説として昇華せざるをえないほどわが身を苦しめる現実的な動機だ。網走での想像を絶する貧困と家族からの疎外があったからこそ、永山は連続殺人を犯し、やがてそれらを書かざるを得なかった。つまり「物語」にしうる現実があった。しかし、不自由のない中流家庭に育った見沢には、そうした「物語」がなかった。殺人事件にしても、辛うじて「スパイ粛清事件」という「物語」に仕立て上げたが、じっさいは一線を越えてしまった「内ゲバ」であり、それゆえついに文学として練り上げるにはいたらなかった。『天皇ごっこ』は、「物語」に恵まれない時代に、なお「物語」を求めてやまない者たちが、天皇という究極の「物語」にそれぞれの道のりから群がる群像劇ではなかったか。

「何がまずいんですか?」。《遠近を抱えて》が富山県立近代美術館によって一方的に売却され、それらが掲載された図録が焼却されたとき、美術家・大浦信行は純粋にそう尋ねたにちがいない。憲法が保障する「表現の自由」が公立美術館によって蔑ろにされる不条理と、正当な手続きに則っておこなわれている脱原発運動の参加者を弾圧する警察権力への憤りは明らかに通底している。ようするに、この国では表現や芸術がまったくもって舐められているのであり、それはかつてもいまも、ほとんど変わっていない。芸術表現を志す者であれば、誰もがこの絶望感を前提としなければならないところがまた、やるせなさによりいっそう拍車をかける。

大浦映画は、一貫してこの光明が断ち切られた暗闇から立ち上がっている。どちらかといえば左寄りの前作『8.15‐9.11日本心中』にせよ、どちらかといえば右寄りの今作『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』にせよ、出発点は変わらない。いや、おそらくは到達点も変わらないだろう。大浦がつねにまさぐっているのは、この暗闇を突き抜ける「革命」という突破口だからだ。では、いったい見沢知廉のなかにどんな糸口があるというのか。

それは、平たく言えば、「愛」ということなのだと思う。暴走族から新左翼、新右翼、そして小説家へと転身するなかで、ボロボロになって傷つき、また傷つけながら、「革命」を求めて走り抜けた見沢の軌跡には、いつも「愛」があふれていたからだ。むろん永山則夫を追い詰めたのと同じ疎外感や閉塞感もあるにはあっただろう。けれども、母親からの絶対的な愛情はもちろん、高校時代からの同士である設楽秀行の無条件の友愛に、わたしたちは少なからず瞠目させられるはずだ。見沢が自ら両手の小指を切断しようと、殺人という大きな過ちを犯そうと、彼らの見沢にたいする「愛」はまったくぶれなかった。もはや「物語」など関係ないし、あるいは「革命」すら凌駕しているのかもしれない。すべてを転覆しかねない圧倒的な「愛」に、大浦は光をあててみせた。

初出:「天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命」パンフレット

[追記]
本稿は2011年に公開された大浦信行監督作品『天皇ごっこ』のパンフレットに寄稿した一文である。この映画はAmazonプライムで視聴できるほか、見沢知廉による原作は第三書館版と新潮文庫版で読むことができる。

なぜ本稿を公開したかというと、現在の「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の中止事件に伴い、大浦信行の映像作品《遠近を抱えてpartⅡ》が不当に批判を集めているからである。不当というのは、それらの批判の大半が当該作品をじっさいに鑑賞することなく、断片的な情報を鵜呑みにしたまま一方的に断罪しているからだ。

言うまでもなく、批評とは「見る」ことと「書く」ことの両輪によって成立する知的な営みである。よって「見る」ことを欠落させた言説は、どれほど書き手の知名度があったとしても、到底批評の名には値しない。「書く」ことを「話す」ことに置き換えてもよいが、「見る」ことが不可欠である点は何ら変わりがない。

大浦信行の作品を「見る」機会を確保すること、そして思う存分、鑑賞者がそれぞれの意見や解釈を交差させること。現在の「あいちトリエンナーレ2019」では、このような美術の大前提が機能不全に陥っている。もとより封鎖されているのは大浦作品だけではないが、同展を中止に追い込んだ暴力的な脅迫に明確に反対する意味を込めて、ここに大浦映画の論評を公開する。

映画の主題は、小説家にして新右翼の論客でもあった見沢知廉。一読すれば、大浦信行に向けられた「天皇批判」という批判がいかに一面的で浅薄なものであるか、理解できるだろう。そして映画も見れば、よりいっそう大浦信行の思想を体感できるにちがいない。「見る」ことの豊かな経験を味わうことができれば、『天皇ごっこ』の次に公開された『靖国・地霊・天皇』という映画が待ち構えている。批評が生まれるのは、そこからだ。

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