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北アルプス国際芸術祭2017 ~信濃大町 食とアートの回廊~

長野県大町市を舞台とした芸術祭の初回。総合ディレクターに北川フラムを迎え、国内外のアーティスト36組による作品を、市街地をはじめ大町ダム、青木湖、温泉街などに展示した。同じディレクターであるため必然的に「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」と比較しながら鑑賞することを余儀なくされるが、何よりも特徴的なのは、その開催規模である。先行する2つの国際展とは対照的に、本展の会場は比較的小規模なエリアに限定されており、ちょうど1泊2日で十分に回遊できるほどだ。アーティストも少数精鋭に絞られており、その点ではいくぶん物足りない印象を覚えなくもないが、開催エリアが狭い割には、山間部から市街地まで、あるいはダムから湖まで、それぞれ抑揚があるため、決して飽きることはない。

とはいえ、個別の作品についてはある種の限界を痛感させられたのも事実である。美術館のホワイトキューブではない野外や山村集落、あるいは古民家などで発表される作品は、いまやはっきりと類型化されつつあるように感じられたからだ。たとえば、無数の木の枝を組み合わせることで台風のような渦巻状の構築物を森の中に出現させたリー・クーチェの作品や、竹林から切り出した竹を地元住民と共に垂直状に組み上げたニコライ・ボリスキーの作品は、いずれも自然の素材を改変することによって自然の風景を美しく異化するもので、これは越後妻有でたびたび眼にしてきた作品と同じ傾向にある。

あるいは、神社の境内に向かう橋の上に霧のリングをつくったジェームズ・タップスコットの作品と、森林劇場の舞台に自然と人工が融合したような不思議な音楽装置をつくったマーリア・ヴィルッカラの作品は、いずれもミストを発生させている点で共通している。「水」という風土を過剰に意識したのかもしれないが、これは、規模こそ異なるとはいえ、否が応でも中谷芙二子の《霧の彫刻》を彷彿させてやまない。少なくとも素材技法の面で言えば、芸術祭で歓迎される作品はいまや芸術祭という形式に最適化されつつあるのではないか。

芸術祭にふさわしい作品。そのもっとも典型的な事例が、目だ。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015」をはじめ、「さいたまトリエンナーレ2016」など、近年国際展や芸術祭に精力的に参加しているクリエイティブ・チームである。今回発表した《信濃大町実景舎》は、市街地を見下ろす山腹に建つ古民家の内部を漆喰で塗り固めることでコクーンのような空間に仕立て上げたもの。来場者は狭く、細く、そして緩やかに曲げられた導線を進みながら、非日常的な空間を体験するというわけだ。事実、多くの来場者がまるで遊園地を訪れたかのように歓声を上げながら楽しんでいた。市街地の景観自体は変わらないにせよ、この白い空間から見晴らすと、視線が鮮やかに更新されたように錯覚するという点では、たとえばジェームズ・タレルの作品と近しいのかもしれない。だが、それ以上に重要なのは、彼らの作品が来場者の体感を刺激するアトラクションの要素を強く醸し出しており、それが芸術祭にふさわしい作品として類型化しつつあるという点である。

あえて類型化と言い切ることができるのは、たとえば栗林隆の作品にも目と同じく体感を刺激するアトラクションの要素を色濃く見出すことができるからだ。商店街の空き店舗の1階に40分の1のスケールで黒部ダムを再現し、2階のダム湖を足湯に浸かりながら鑑賞するという作品だ。ここでも来場者は全身の感覚を刺激されながら狭い通路と階段をくぐりぬけ、その先に現われたドラマチックな光景に目を奪われる。そのようにして来場者の視線と身体を誘導する展開の仕組みが優れている点は否定しない。しかし、その一方で、そのような「文法」が目と著しく通底していることは決して無視しえない。そこには明らかに類型化の問題がひそんでいるからだ。

問題なのは、そのような芸術祭にふさわしい類型的な作品が、芸術祭という形式にとっての最終形態であるように感じられる点にある。仮に現行の日本型芸術祭の端緒を「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000」に求めるならば、アーティストたちはその形式のなかで自らの美術作品を問いかけ、17年もの時間をかけて切磋琢磨することによって、芸術祭にふさわしい作品が徐々に選別されてきたことになる。その取捨選択の政治学は決して悪いことではないし、芸術祭で歓迎される作品が洗練されることもことさら否定されるべきではない。美術館で歓迎される作品が恣意的に選別されてきたことは誰もが知る事実であるし、それが眼に見えて先細りになっている以上、芸術祭という新たな形式の開発は、結果としてアーティストに新たな発表の機会をもたらし、事実として美術作品の幅に広がりを与えたからだ。

アトラクションと体感を重視する類の作品の台頭は、大衆に受容され支持されることを必要条件とする芸術祭という形式が日本社会に定着する道のりの必然的な帰結とも言えよう。だが、それが発展途上の形態ではなく、完成形だとしたら、どうだろう。完成形とは、言い換えれば、その先に発展する見込みが望めないということだから、仮に場所を移動しながらバージョンアップすることはあっても、基本的な「文法」は変わらない。今後日本の各地で開催される芸術祭や国際展で、目のようなアトラクションと体感を重視した作品が来場者の広範な支持を得ながら増加することは容易に想像できる。しかし、そもそもアーティストの仕事は、「文法」の応用ではなく、「文法」そのものの開発ではなかったか。

たとえば里山と棚田が広がる小さな集落で制作・展示されたフェリーチェ・ヴァリーニの作品は、家屋の外壁や屋根のいたるところに黄色い曲線を描いたものだが、ある一点から鑑賞すると線と線が結びつくことで楕円形の模様が浮かび上がるように見える。しかし、これは原理的には、室内空間を塗り上げることで任意の地点から幾何学的な形態を浮上させるジョルジュ・ルースの作品の「応用」である。屋外で、より大規模に展開したところに独自性を見出すこともできなくはないが、それは必ずしも文法の開発とは言えない。

それに比べれば、多くの参加アーティストが風土を過剰に意識した作品を発表するなか、そうした類型的な作品とは明確に一線を画しながら、自らの作風をあくまでも貫いた岡村桂三郎のほうが、たとえ文法の開発とまでは言えないにせよ、芸術祭という形式を一切省みない頑なな態度が、かえって芸術祭にふさわしい類型的な作品の歪さを逆照するという点で、批評的に見えたのも偽らざる事実である。岡村は、例によって焼いた平面をスクレーパーで削り出した巨大な屏風状の作品を、会場とした休憩施設の中に、これでもかというくらいに大量に展示して見せた。主題としているのは、いつものように龍や鳥などの神獣や人間だから、作品が一変したわけではない。だが、決して広くはない空間に押し込められた作品の物量が、いつも以上にすさまじい迫力を倍増させていた(2015年、岡村は浜松市秋野不矩美術館で大規模な個展を催したが、延床面積で言えば、その個展のほうが圧倒的に大きいはずだが、作品が醸し出す迫力という点で言えば、本展のほうが明らかに勝っていた)。作品を芸術祭に従属させるのではなく、芸術祭を作品に従属させること。岡村が示しているのは、類型化を進行させつつある現在の芸術祭に対するアーティストなりの気骨ではなかったか。

いずれにせよ問題の所在は芸術祭に最適化した作品である。それが最終形態を迎えているとすれば、それを無限に反復ないしは増殖させることで芸術祭という形式の寿命を延ばすことはできるかもしれない。だが、それは美術の本質とはまったく無関係である。地域再生や観光振興といった目的が直接的に紐づけられているにせよ、原則的に言えば、芸術祭とは美術作品を媒介としながらアーティストと来場者、そして地元住民が出会うための形式にすぎないからだ。美術が時代とともに形態や思想を変容させてきたことは事実だとしても、その作品が芸術祭によって類型化を免れないとすれば、私たちはいずれ芸術祭という形式を思い切って打ち砕く必要に迫られるかもしれない。いや、あるいはすでに次の形式を探し出す旅に出発する時機が到来しているのではないか。

初出:「artscape」2017年8月1日号

北アルプス国際芸術祭2017〜信濃大町 食とアートの回廊〜

会期:2017年6月4日~2017年7月30日

会場:大町市内各所

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