大鹿村騒動記
長野県大鹿村で300年の伝統を誇る大鹿歌舞伎をモチーフとした映画。原田芳雄や岸部一徳、大楠道代、石橋蓮司などによる熟練の演技と堅実な脚本のおかげで心から楽しめる娯楽映画になっている。大鹿の山村を舞台に綴られる人情物語はたしかにフィクションだとはいえ、そこには近年のアートプロジェクトなり地域型の芸術祭が目指しているものが、はからずも巧みに視覚化されていように思われた。
プロの歌舞伎役者ではなく、地元住民がみずから役者となり、舞台を動かし、興行を成功させる手作りの歌舞伎公演。それが素人による大衆演芸であることにちがいはない。けれども、見方を変えれば、それは、かつて福田定良(あの鬼海弘雄の師匠!)が東北地方を巡る合唱団「わらび座」に見出した、生活感と人間性を伴った、生き生きとした芸術として考えることもできるのではないだろうか。私たちが何の疑問も持たずに当たり前だと思っている「芸術」が、じつはきわめて偏向した狭い芸術であるということは、鶴見俊輔の「限界芸術論」や福田定良の「大衆芸術論」が明らかにした大きな功績である。「こういう芸術は、芸術家にとっては芸術であっても、地方の民衆にとってはそうではないのです。民衆は芸術の芸術性を評価する前に、芸術が彼らの生活に接触するときに示す明るさ・生気・健康性を感じ取ります」(福田定良「新しい大衆芸術の性格」[『現代人の思想 7:大衆の時代』平凡社、1969])。
そして、この映画が生き生きと描き出しているのは、大鹿歌舞伎の芸術としてのすばらしさというより、むしろこの歌舞伎をめぐって繰り広げられる人間の営みの愛おしさや哀しさなのだ。作品が表象する内容の質的な優劣を専門家が判断するものを「都市型の芸術」だとすれば、作品を成立させる条件そのものを地域住民が自分たちの手で高めてゆくものを「地域型の芸術」といえるかもしれない。
地域社会で組織されるアートプロジェクトにしろ、瀬戸内や妻有の芸術祭にしろ、それらが「都市型の芸術」とは異なる芸術を志向していることはまちがいない。けれども、そこに福田定良が見出したような「地域型の芸術」が必ずしも成熟しているといえないのは、それらが依然として芸術家を外部から招聘するという旧来の作法にとらわれているからだ。そうではなく、地域住民自身の自発的かつ主体的な創造行為をこそ、引き出さなくてはならない。『大鹿村騒動記』は「地域型の芸術」のモデルとして評価できる。
初出:「artscape」2011年09月01日号
大鹿村騒動記
会期:2011年7月16日〜
会場:丸の内TOEIほか
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