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破壊の日

マヒトゥ・ザ・ピーポーによる凄まじい咆哮! 全身血まみれの男が阿修羅のような形相で渋谷のスクランブル交差点を彷徨する。足元は覚束ないが、手先から足先まで、全身に霊気が漲っているようだ。鬼気迫る迫力に圧倒されたのか、あるいは変質者を敬遠しているのか、おびただしい数の歩行者は彼には決して近寄らず、周囲にはぽっかりとした空間が生まれていた。その余白の舞台で、膝を崩し、全身を反らしながら、天に向って幾度も吠える。怒りなのか、祈りなのか。文字では表しえない雄叫びは、渋谷の街並みを震撼させるばかりか、彼の喉元から腹部までも切り裂き、内蔵を爆発させてしまうのではないかと不安になるほど、鋭い──。

事実、本作の醍醐味は、そうしたある種の逆転の構造にある。肉体から発せられた音声が肉体そのものを包み込んでしまうという反転。それは、本作における音楽が動画に従属する映画音楽というより動画を従属させる音楽映画というべき特質を備えている事実と明らかに通底している。また、マヒトが演じる賢一が目指した即身仏とは、生き姿のまま入定した僧侶を意味するが、これは死ぬことによって永遠に生きるという、死と生を概念的に反転させた企みとして考えられるだろう。規制の価値観や常識、社会通念を鮮やかにひっくり返してきたのが広い意味での前衛芸術だとすれば、本作はそうしたアヴァンギャルドの系譜に位置づけられるにちがいない。

本作が公開されたのは2020年7月24日。「東京オリンピック2020」の開会式が予定されていた日で、それにあわせて「スポーツの日」として制定された祝日でもある。「スポーツの日」とは、もともと「体育の日」だったが、これはそもそも「東京オリンピック1964」の開会式である10月10日にあわせて制定された祝日だった。つまり豊田利晃監督は、日本国政府が決定した「スポーツの日/体育の日」を「破壊の日」として意味的に反転させたわけだ。だが、いったい何を破壊するのか。

直示的には、「東京オリンピック2020」という強欲に呪われた祝祭なのだろう。その先に、新手の疫病の制圧に失敗しているばかりか、感染者をさらに全国的に拡大しかねないにもかかわらず、観光需要を喚起する政策を強行する無能な日本政府も標的とされているのかもしれない。だが、それだけではない。

破壊されるべきなのは、じつはわたしたち自身なのではないか。慣れ親しんだ日常が不可能にならざる得なくなったとき、安易な思考停止により日常の回復を目論むわたしたち。感覚を研ぎ澄ますべき局面で、不感症的に漫然と見て見ぬ振りをしてやり過ごし、何も行動しないわたしたち。知覚できないものを想像しなければ未来がないことは火を見るより明らかであるにもかかわらず、想像力を働かせる努力も放棄して何ら恥じないわたしたち。打ち壊されているのは、そんなわたしたちの中庸さにほかならない。マヒトの絶叫を耳にしたわたしたちは、全身の感覚を呼び起こされながら、その鋭い刃がみずからの身体を貫いていることを、十分な痛みを伴って思い知るのだ。

じつのところ、冒頭に挙げた渋谷のスクランブル交差点のシーンで、マヒトの音声と動画は正確に同期しているわけではない。GEZANのすばらしい楽曲が流れているため、そのなかのマヒトによるシャウトを、観客は脳内で映像にあてがっているのだ。物語の設定や展開を懇切丁寧に説明しないスタイルも、観客の想像力を根こそぎ引き出すための戦略的な方法なのだろう。

それゆえ、わたしたちは自問せざるを得ない。東京を覆い尽くすあの紅の霊気を前に、自分に何ができるのか、と。どうすれば紅の霊気を倍増させることができるのか、と。いや、いかにしてわたしたち自身が紅の霊気になることができるのか、と。「破壊の日」は、2020年という混乱の時代を根底から転覆するための革命映画である。あの爆音と音圧、そして紅という妖しい色彩に惹き付けられた人たちは、破壊という名のイマジネーションによる連帯を組むことになるだろう。

※映画「破壊の日」は全国の映画館で順次ロードショー


[参考]
「狼煙が呼ぶ」について言及した論考「匕首の刃を研ぎ澄ませ──2019年現代美術回顧

切腹ピストルズ総隊長・飯田団紅についての論考「駆け抜ける衝動──鶴屋団紅の原始落語と鶴見俊輔の限界芸術

切腹ピストルズ総隊長・飯田団紅によるアートワークについて言及した論考「想像力という理路──「黄金町バザール」と都市再開発

即身仏を撮影した写真家・内藤正敏についてのレビュー「内藤正敏─異界出現

ニホンオオカミの展覧会についてのレビュー「神になったニホンオオカミ─秩父山地のオオカミとお犬様信仰


#破壊の日 #映画 #美術 #レビュー #福住廉








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