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[インタビュー]三喜徹雄 美術の彼岸へ

流浪の芸術家にして、前衛美術運動「THE PLAY」の主要メンバー。三喜徹雄は、野外での表現活動を繰り広げながら美術と非美術の境界を自問自答してきた。肉体の行為を継続させるストイシズムと徹底して求心力に抗う反権威主義。そして何よりも軽妙洒脱で柔軟な感性。それらは現代アートの誇るべきひとつの源泉として、今のわたしたちを大いに勇気づけるのではないか。国内外で「THE PLAY」を再評価する機運が高まっているなか、三喜徹雄はこれまで一切の取材を拒否してきた。ここにお届けする、史上初のロングインタビュー!

PLAYという行為芸術

福住(以下、福)—PLAY*1のなかで三喜さんはどういう役割なんですか。

三喜(以下、喜)—現場監督やね。設計図書いて、材料調達して、組み立てて、そういう土木関係はだいたいぼくの役割。

福—アイデアは会議でディスカッションするんですか。

喜—そうですね。春の終わりくらいにいっぺん集まるでしょ。みんなで次何しよかと。トロッコ*2 なんかでも、みんなでワーワー行ってるうちに南大東島に島を一周するトロッコの線路があるのを地図の上で見つけて、「ほんならみんなで行こやないか!」って。

福—それでそのトロッコを人力で押しながら一周したんですね。

喜—たいへんやったよ。誰かが見つけてきてっていうパターンは多いね。風もそうやもん *3。風が吹いてくる方に向かってひたすら歩いて行く。原野を歩くのがいいなあと思ってたんやけど、山からばっかししか吹いてけえへん(笑)。ものすごいヤブの山を登ったよ。牧場の外に牛が逃げんように電気が走ってるでしょ。誰かがそれに触れて感電して、「これは越えられへん!」って(笑)。

福—多数決で決定するのですか。

喜—ちがうちがう。いろいろやりたいことが出るんやけど、ひとりが「これや!」って頑張ってみんなを説得してるとね、みんなが「ほんなら一回やってみよか」ってなるんですよ。

福—おもしろいのはメンバーが固定しているわけではなく、つねに参加者を募って外に開かれているんですよね。

喜—そう、参加してきた人はみんなPLAYになる。

福—みんな仲良くなるんですか。

喜—といっても、PLAYが終わればそんなにつきあいがあるわけじゃないんですよ。一緒に酒も呑まないし。

福—ええっ! 意外です。

喜—ふつうやったらね、呑み屋でワイワイやるけど。そなへんがあるから、これまで続いてきたのかもしれんね。

福—逆に、仲が悪くなったことはなかったんですか。

喜—険悪な雰囲気になったときはありましたよ。淀川に家を流したのもね *4、河口近くの堰が大きくてね、最後のとこでひっかかってしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまった。2 、3日いたんやけど、もうしゃあないから家燃やして終わろうって。

福—壮絶な終わり方ですね(笑)。

喜—失敗も作品、行為のうちや。雷も失敗ですよ*5 。最初は落とす気やったけど、ぜんぜん落ちんからね。「落ちそうやな」って思っても、向こうの山に落ちたり、「ほんならあっちの山行ってみよか」って移動しても、ぜんぜん落ちんからまた元の山に戻ったり。一度ちょっと横に落ちて惜しいときがあったんやけど、「いや、これではあかん」って(笑)。4年目くらいに「いつまで待つのや」いう話になったときに、「『十年一昔』いうから10回待ってみようや」ってなって、それで「待つのがおもしろい」ことに途中で変えたんです。羊もね *6、京都から大阪、神戸まで一緒に歩いてこうって言うてたんやけど、夏で暑くてね。高槻くらいで羊がぜんぜん動かなくなってしまった。みんなダンプカーの影に入り込んで、あれでけっこう頑固やからね(笑)。

福—地元の人とか行政との交渉はどうやっていたのですか。

喜—だいたいぼくと池水慶一が担当でね。雷のときも、紹介もなんもないけど、山の持ち主の家にいきなり行くんですよ。「この山貸して」って(笑)。まずぼくがガラガラって扉あけて一所懸命説明するでしょ。次に池水が名刺出してね。「じつは…」って。中学校の先生やから、それでだいたい信用してくれる。

福—それは美術として説明するんですか。

喜—最初から美術やって言うんですよ。一所懸命説明するんです。そしたら「一所懸命やってるんやな」って向こうにも伝わるから。矢印のときも *7、朝出発するときに川の水かさがちょっと上がってたんですよ。ほんなら池水がそんなの得意やからね。すぐ管理事務所に電話して「ダムの水量下げてくれ」って。そしたら下がった。ああいうもんてね、言うたら下げてくれるんですよ(笑)。

ハプニング高校生

福—PLAYの結成は1967年の「第1回PLAY展」*8 ですが、三喜さんはこのときはまだ参加されていなかったんですよね。

喜—会場にはいたんです。機関車の作品を出してたイワクラさん*9の手伝いをしてました。池水さんとはもう知り合いでした。最初に出会ったのは、高校生の頃。堺のアンデパンダンに出品したとき*10 、天王寺の駅で池水さんが声かけてくれたんですよ。嬉しかったねえ。

福—堺のときはどんな作品を発表したんですか。

喜—なんか四角い塔を出してたなあ。

福—あ、絵ではなくて。高校生にしては早熟ですね。

喜—その頃の大阪の高校の美術部はレベルがすごく高くてね。おもろいやつがゴロゴロいて、みんな張り合ってたんですよ。美術の先生が矢野喜久男っていう行動美術の人でね。ぼくも先生と一緒に絵出してた。詰め襟で会合に行ったの覚えてます。流政之の作品を見て彫刻やりたかってんけど、芸大受験に失敗したときはもうやる気なくなってた。それからはハプニングばっかり(笑)。

福—すでにハプニングを知っていたんですか。

喜—『美術手帖』読んでたからカプローとかね。なんかへんなことしたらハプニング(笑)。最後に行動美術に出した150号くらいの絵が新人賞もろてね、京都の美術館にドカッと展示されたんですよ。ほんでみんなで押しかけてそれを裏返しに行った。自分の絵をひっくり返すハプニング(笑)。矢野先生にはえらい迷惑かけたけど。

美術から離れる遠心力

福—高校を卒業した後しばらくいた京都では何をしていたんですか。

喜—ダウンビートっていうジャズ喫茶によくたむろしてました。今でも覚えてるわ、坂崎いう巡査が「おまえらなんやかんや」って店に入ってきよった。ほんならみんなハイミナール(睡眠薬)とか飲んでるからね。鉄砲とったろうとしたら坂崎がえらい怒りよって、始末書書かされた。おもろい時代やったね(笑)。

福—ハイミナールは喫茶店で飲めたんですか。

喜—いや、薬局でハンコ押して買うんですよ。それを持ち込んで。当時はね、大阪では瓶で売ってたから、それをダーッて買うて、そのままキセルで東京まで行って、新宿の風月堂でじっとしてたらほしい奴なんぼでも来るさかいに。相場が大阪の3倍ぐらいやったからね。なんぼ持っていってもみんな売れた。ほんでまたキセルで帰ってきた。

福—ボロ儲けですね(笑)。東京では手に入らなかったんですか。

喜—うん。でも、そのうち大阪でも入らなくなった。70年安保のときも、ぼくらみんな集められて、学生ちゃうのに。そしたらハイミナール配ってきよるからそれ飲んだらね、もう何やってるかわからへん(笑)。気ついたらデモの一番先頭で竹竿持ってるんですよ。前から機動隊が警棒でバンバン叩きよるし、後から学生が背中押しよるし。ほんでワーッて走って、慌ててどっかの知らん家に逃げ込んだ。ハイミナールってそんなやで(笑)。

美術と非美術の瀬戸際

福—その後参加した「部族」について教えて下さい。

喜—「部族」は全国にいてたんやけど、ぼくがいてたんは雷赤鴉という「部族」。詩人の山尾三省がいちばん上にいてて、国分寺の山尾さんの家に集まっていた。ナナオサカキなんかもいたなあ。三省がつくってる新聞があって、それをみんなで配りに行ってた。

福—その頃は東京にいたんですか。

喜—東京。今と一緒で家がなかった。「部族」には3年ほどいてたんかな。寝袋かついで3回冬越したから。そのうち2回は沖縄で、まだ返還前やった。東京で冬越すのはしんどかったね(笑)。車も家もなんもない。大きいズタ袋みたいな米軍のバッグひとつだけ。眠るのも駅の地下とかジャズ喫茶。夜が明けたら山手線に乗ってグルグル回るとか。

福—アングラも活発な時代でした。

喜—赤テントとかね。でも深入りせえへんかったな。「部族」のほうがおもしろかった。

福—「部族」の中でも美術をやっていたのですか。

喜—美術はなかったね。歌とか詩とか。三省とかギンズバーグとかゲーリー・シュナイダーの影響やろけど、詩の朗読会やったり、ガリ版で刷ってリトルマガジンつくったり。クリスマスの日に横浜でようけ売れたの覚えてるわ。ホッチキスで止めただけなんやけど、みんな一所懸命書いてたよ。

福—そういうある種のコミューンのような活動と、PLAYはつながっていなかったのですか。雷の場合、山にテントを張って共同生活をしながら櫓を組み立てていたんですよね。

喜—それはないね。ちょうど夏休みやったからみんな子ども連れて来てたけど。みんな美術やとおもてるもん。美術という土地がこうあって、そのまわりをブロック塀で囲っているとしたら、そのいちばん上の縁を棒もって綱渡りみたいに歩いているいうんかな。こっちに落ちたらふつうのことやけど、あっちに落ちたら美術。ほんで長いことずうっと一周して、もうちょっとでゴールいうときに美術側に落ちしてしまったというのが今の状態ですよ。ぼくなんかに言わしたら、美術になってしもたら、もう終わりや(笑)。

福—おもしろいですね。美術評論家の中村敬治さんも「美術の範疇の縁にあやうくひっかかっているのだが、そこから美術へはいのぼろうとしているのではなく、そこに留まることが美術への牽制でありうるような位置を確保しつづけている」と的確に書いています*11 。

喜—美術とちがうけど、美術っぽい。なんかその瀬戸際のとこでずうっと渡り歩いてきたっていうイメージがありますね。

波打ち際の流浪

福—PLAYとは別に、最近は三喜さん個人で活動していますね。

喜—うちの家内が癌で死んでしもて、仕事なんかしてたらあかんわと思って、借金みんな返したら、ちょうどハイエース1台残った。それから車で全国を移動しながら生活するようになって、もう10年くらいになるんかな。

福—海岸の流木の作品はどうやってつくっているのですか。

喜—ひとりで海岸行って、何がつくれるか一週間くらい考えるんですよ。前もって決めて行っても、そこで必要な材料があるわけやないからね。落ちてる流木のかたちとか大きさとかを見て、足りない材料は近くのホームセンターで調達する。だいたい大きな流木って、波に運ばれるから奥のほうにあるんですよ。それを車のジャッキで持ち上げて、少しずつ波打ち際まで持ってくるのに、3、4日かかる。

福—どうして波打ち際まで?

喜—そら見栄えがええから(笑)。ものがあって、その後ろに波が見える構図にはこだわってるんですよ。写真1枚撮ったら、それで満足。

福—それはPLAYと同じですね。結果より行為を重視する。

喜—そうかもね。言い方悪いかもしれんけど、でき上がったものはなんでもいい。よく見に行きたいという人がおるけど、行くなら勝手に行ってくれ(笑)。つくったもんが今も残ってるか、波にさらわれてるか、興味ないし。

えんえん、どんどん

福—今回ぜひ三喜さんにお話を伺いたいと思ったのは、どうも最近の現代アートにPLAY的な要素を含んだ作品がたくさん現れている気がしたからなんです。

喜—へえ。

福—たとえば、広島の空に飛行機雲で「ピカッ」と描いたChim↑Pom。ゲリラでやったこともあって大顰蹙を買いました。

喜—すごいやん。ちゃんと「ピカッ」ってなってるやん。ヨーロッパだったら買うてくれるんちゃう?

福—Chim↑Pomが渋谷のPARCOで展覧会をやったときに、電飾の「P」と「C」を会場に持ち込んだんですが、これは美術館の大きな窓を外して会場で展示したPLAYの作品と通じている*12。直接的な影響関係というより、隔世遺伝的に受け継がれている気がするんです。

喜—誰がなんと言おうとぜんぜん気にしないでえんえんと続けていくパワーというんかな。広島の飛行機雲も、どんどん続けていけばいい。広島で怒られたんやったら、次は長崎行っておんなじことやって、また新聞に叩かれたら、今度は福島行って原発の上でおんなじことやって、それも滅茶苦茶に言われて。そうやって続けていくのがおもしろいんとちがう? ぼくの流木も、いま5回目やけど、まだおもしろくないもんね。100回くらいやったらアートになるんかなあ(笑)。

福—まだアートになっていない?

喜—ないない。PLAYみたいにね、ずうっと続けていったらアートや。ぼく、そんな考え方やね。

◎2014年1月9日、大阪市天王寺区で収録

*1 1967年以来、関西を拠点に活動している美術家集団。メンバーは流動的で、これまでに100名以上が参加したが、現在活動しているのは池水慶一、小林愼一、鈴木芳伸、二井清治、三喜徹雄の5名。その活動の全貌は、2016年に国立国際美術館で開催された「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」展に詳しい。同展の図録が刊行されているほか、池水によるウェブサイト、2冊の記録集(『PLAY 1967-1980』1981年、『PLAY 1981-1990』1991年)がある。美術館の図書室などで参照されたい。

*2 《TROKKO》沖縄南大東島、1974年7月28日〜8月5日

*3 《風》北海道宗谷サロベツ原野、1976年8月8日〜16日

*4 《IE》1972年8月5日〜10日。発泡スチロール製の筏の上にベニヤ板で六畳一間の家をつくり、そこで暮らしながら京都の笠置から木津川、淀川を経由して大阪湾まで下った。

*5 《雷》1977年〜1986年まで毎夏10回、京都の鷲峰山ないしは大峰山の山頂に一辺20メートルの正三角錐を丸太で組み上げ、落雷を待った。

*6 《SHEEP》1970年8月23日〜26日。12頭の羊とともに京都から大阪まで歩いた。

*7 《現代美術の流れ》1969年7月20日。京都の宇治川から大阪の中之島まで、発泡スチロール製の矢印型の筏で下った。PLAYの代表的な作品として知られる。2011年の6月に前回の到着地から再開して7キロ海に近づいた。

*8 「第一回PLAY展」1967年8月27日〜29日、神戸・三ノ宮遊園地。安土修造(シュウゾウアヅチガリバー)や水上旬、佐々木耕成らが参加した。

*9 イワクラ・マサヒト(岩倉正仁)。廃品で制作した小型の蒸気機関車《人間回復機》を会場内で走らせた。

*10 「堺 現代美術の祭典」1966年8月22日〜28日。関西在住の美術家のほか、「クロハタ」や「ジャックの会」など全国の前衛美術グループが参加した。

*11 中村敬治「微/奇妙な隅で美術をけん制」、『読売新聞』1985年3月29日夕刊。

*12 1980年3月2日から30日に兵庫県立近代美術館で行われた「アート・ナウ'80」展に出品された《MADO》。東京国立近代美術館で2019年11月1日から2020年2月2日まで開催されている「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」に、この作品の写真や資料が出品されている。

三喜徹雄(みき てつお)
美術家。1944年大阪市生まれ。「THE PLAY」の主要メンバー。近年の個展に「ネコノジカン」(湘南くじら館、2009年)、「GAERDEN」(楓ギャラリー、2013年)があり、舞台美術の仕事も手がける。

初出:「HAMArt!」vol.8

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