ハーバード見聞録(40) 前段

「ハーバード見聞録」のいわれ
 本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。



三十二の瞳【前段】(10月17日の稿)

昨年(2005年)12月10日、ボストン日本語学校の担任教師の要請で、6年2組の16名の子供達とその保護者に2時間(10分休み)に亘ってお話をする機会を頂いた。吉田喜美先生が受け持つクラスである。先生は、佐世保市のご出身で、短大を出られて、佐世保市内の中学校の保健体育の先生(バレーボールの指導は抜群だったそう)を10年間勤められた後、一念発起してハーバード大学に留学され、教育学を修められ、今年は愈々博士課程を目指している女性である。

私のように私企業から面倒見てもらったり、政府や財団などから派遣されている留学生とは違い、自力で生活の糧を得ながら学ぶ謂わば「苦学生」である。吉田先生は根性が据っていて、私も教えられるところが沢山あった。

吉田先生は私の話を子供達に分かりやすくする為、わざわざ私の故郷、五島列島・宇久島の役場のホームページやグーグルなどから島の景色や話に出てくる鳥や虫などの写真を選んでスライドを作るなど、私の講話のために誠心誠意お手伝いをして下さった。

メルマガの読者の方々は「日本人学校」と「日本語学校」の違いがお分かりになるだろうか。吉田先生によれば、「日本人学校」は全日制で、日本と同様のカリキュラムを実施し、一方「日本語学校」は「補習授業校」とも呼ばれ、土曜日の午前中にだけ、国語・算数の1週間のカリキュラムを一日3時間、内容を精選・集約して授業を行っているという。

6年2組の子供達も、平日アメリカの現地校で英語で学び、週末(土曜日)は日本語学校に通っているという。このような環境の中では、子供達本人の努力と保護者の皆様の日々の熱心な指導なしには二ヶ国語の教育を継続・両立する事は容易ではない。特に6年生になると、9月から中学校に進学する生徒もあり、現地校での宿題の量もかなりなものとなり、相当ハードな状況に置かれているが、毎週、日本語で話せる友人達と会えることを楽しみに元気に登校し、短い授業時間も集中して頑張っているそうだ。

当日は、同校にお子様3人を登校させている私の知り合いの淵野様に、車で学校まで送っていただいた。学校は、市立の高校を土曜日だけ借りている由。授業までに、少し間があり、淵野様に校内を案内して頂いた後、2階にある6年2組のクラスに赴いた。一人の欠席児童もなく、明るく生き生きした「三十二の瞳」が拍手で私を迎えてくれた。多数の保護者の方々もおいでいただいていた。

1990年6月、私が韓国の駐在武官で赴任するに当り、高校2年の長男と中学3年の長女を日本に残すことになった。成田空港を発つ直前、長女が「こんなになるのは(親子離れ離れになること)お父さんのせいよ!」と言って、妻にすがって泣きじゃくったものだった。親が海外勤務をすることになれば、子供は必然的に様々な問題に遭遇することになる。

仕事などの都合で、6年2組の16名の子供達も、保護者とアメリカに同行はしているものの、母国を離れている分だけ、様々な苦労や葛藤があるに違いない。社会経験を積んだこの私でさえも、アメリカに来て、日本で予想していたよりも遥かに大きなストレスがあることを自覚している。私の人生経験に比べれば、年端も行かないと子供達は、ウィークデーにはアメリカの学校に通い、アメリカの少年少女達に伍して健気にも懸命に生きているのだ。そう考えると、今日はこの子供達に将来の人生の糧と言おうか、応援歌のような話をしてあげて、少しでも勇気付けられないだろうかと思った次第であった。

第1時限目は簡単な自己紹介の後「大いなる未来に向かって」というテーマで私が書いた「椰子の実随想」というエッセイ集の中から「生命の松明を輝かせよう!」と「ミミズの大冒険」の二つを選んで話した。

「生命の松明を輝かせよう!」という話では、黒板に「自分自身」から「両親」そして「祖父母」と順次二倍に増えて(枝分かれして)いく様子を「ポンチ絵」風に書いて見せながら、先祖の数が数学の「2のn乗(2n)」を用いて表現できることを次のように説明した。
 
〈はじめに、皆さんのお父様お母様、お爺さん御婆さん、曽爺さん曽婆さんのなどに遡って先祖の数を考えてみましょう。その数は次のようになります。まだ、アメリカの学校のmathematicsではまだ習っていないかもしれませんが、私が分かり易く説明します。
 
20=1(自分自身)
21=2(両親)
22=4(祖父母の数)
23=8(曾祖父母の数)
………
2n=2×2×2×……×2(n世代前の先祖の数)

このmathematicsのやりかたを用いれば、世代間隔(両親が平均何歳の時に子供が生まれるか)を30年と仮定すれば、1000年前は約33代前(1000÷3=33)も昔の先祖に遡ることになり、先祖の数は233となります。これを電卓で計算すると約86億人という膨大な数に上ります。もうすぐクリスマスであるが、キリストが誕生された2000年前(30×66)の、我々一人一人の先祖の数は、266=233×233=86億×86億人≒7379京(京は1億の1億倍)という天文学的な数になります。ちなみに、2005年の世界の人口は65億人強です。

本来、人間がこのように世代ごとに倍増しておれば、今日地球上は、人間だらけで、地上あまねく人間だらけで立錐の余地もないはずです。しかし現実には、世界では、65億人程度の人間しかいない。 何故だろう。その理由は、これまでの歴史では、人間は戦争、疫病、飢饉、地震洪水などの天災などで夥しい数の人が亡くなり、子孫を作ること、即ち「生命の松明のリレー」が出来なかったからです。子孫を作る前に圧倒的に多くの命が絶たれ(殺されて)しまったということです。子供を作るまでに生き永らえたのは奇跡に近いほどのごくわずかの割合の人間だったのです。

このように考えれば、太古から続く夥しい先祖の生命は、奇跡に近いくらいの確率で生き残り、今日この世に生きている皆さんにリレーされているのです。ですから、皆さんの命は、単に「自分だけの命」ではなく「天文学的な数の先祖達の『命の松明のリレー』の結果」であり、我々がこの世に生を受け、存在することは極めて稀な大変「有難いこと」であるということに気が付くべきです。

この世に生まれ生きていること自体大きな意味のあることを自覚し、自分を大切に、生ある限り自己実現を図り、世のため人のためになれるように努力を惜しまないようにすべきです。そうすることこそ先祖達が営々と生命を紡いで来たことに対する感謝と報恩の表現法・義務であると思います。また自分と同様に周りの人も、天文学的な数の先祖から、大切な命をリレーした人達であり、自分自身と同様に尊い存在であることを認め、他者を大事にし、心から尊敬しなければならないと思います〉

「ミミズの大冒険」においては、私が陸上自衛隊富士教導団長の時、毎朝走るグランドのアンツーカーの上をミミズが一生懸命横断している様子を見て「ミミズの勇気と行動力」に感動したという話をした。
 
〈人間から見たら、幅10メートルにも満たないアンツーカーだが、ミミズの進む速さから考えれば、とてつもない長い距離です。ミミズは、肥えた土あるいは近親結婚を避けるため遺伝子の異なった異性を求めて夜間土から這い出て、移動するのでしょう。アンツーカーやコンクリートの道路の上を無数のミミズが横断する。夜が明ける前に柔らかい土のある所に到達し、再び土の中に潜ることができなければ、鳥に食われたり、日が昇れば干からびて死んでしまいます。ミミズにとっては文字通りの命懸けの大冒険なのです。

冒険するのは、ミミズだけではない、タンポポの種も大冒険をします。風に乗ってフワリ、フワリと飛んで行く先が、沼地であったり、コンクリートの屋根の上だったりで、必ずしも柔らかい土の上に落ちて、芽を出せるとは限らりません。

渡り鳥もシベリアと温帯地方の間を1000キロメートル以上も往復する。人間だってアポロ11号で月に行った。日本人もかっては大冒険をしました。7世紀から9世紀にかけて中国大陸に派遣された遣唐使達は、当時の航海術のレベルを考えれば、アポロによる月旅行に比べ得るほど程危険で困難な冒険であったと思います。

このようにミミズでさえも、勇気を持って挑戦するのです。だから、君達も将来それぞれ価値があると思う様々な課題にミミズに負けない勇気を持って挑戦していただきたい〉

第2時限目は「団塊の世代の子供時代の思い出」と題し、私が五島・宇久島で過ごした少年時代の思い出を綴った「椰子の実随想」のエッセイの中から「鎮台ゴッ」、「目白」、「雉」の三つを選んで、吉田先生が準備して下さったスライドの写真を見せながら、各エッセイの全体を説明した後にそれぞれのエッセイの中の最も面白い部分を抜粋して私自身が朗読して聞かせた。

「鎮台ゴッ」とはコガネグモのこと。このクモを、野原や畑の畔から取ってきて、庭先の植え込みの中で飼う様子を説明した後、私が、一本の小枝の上で二匹のクモを喧嘩させる様子を朗読してあげた。

「目白」については、目白の姿や泣き声などその習性を教えた後、小学時代のクラスメートの山口寅吉君の御爺さんが、手作りの鳥餅を巻き付けた長い竹竿を使って、椿の花の中に嘴を突っ込んで夢中で蜜を喫っている目白を竹竿の先の鳥餅にくっつけて捕まえる様子を朗読した。

「雉」については、その羽色の美しさや、鳴き声などを説明した後、早春の麦畑の中でうずくまって死んでいる雉を、中学生の私が、まだ生きているものと思い込んで、抜き足差し足で近寄って、押さえつけて捕まえる様子を朗読した。

このように、第1時限目は、間もなく思春期に差し掛かる子供達に「人間一人一人が尊い存在であることと、懸命に生きることの大切さ」を、第2時限目は、故国日本を離れて暮らす少年少女達に半世紀前のことではあるが「日本・五島列島の豊かな自然」について子供の目線を意識して語りかけたつもりだ。

自衛官現役の頃、周辺の町の人達に「部外講話」と称するスピーチは沢山させて頂く機会があったが、お聞きくださるのは「大人」が対象だった。今回の対象は小学校の6年生だった。子供達に分かるように話すのは大変難しいと思ったが、「三十二のキラキラ光る瞳」と向き合い話をさせて頂いたことは、私自身にとって大いに充実した時間であり、けだしアメリカ滞在間の最も良き思い出の一つになることだろうと思う。

その後、吉田先生から子供達と一部の保護者の感想文をお送り戴いたので、お許しを得て、私の尊い宝物として、アメリカ見聞録に収録させて頂く事とした。

【後段へ続く】



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