ハーバード見聞録(64)

「ハーバード見聞録」のいわれ
 「ハーバード見聞録」は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
「マハンの海軍戦略」についての論考を9回に分けて紹介する。


第3回:アメリカの「西への衝動」――太平洋に向けた3段跳び(ホップ・ステップ・ジャンプ)

東京外国語大学の荒このみ教授(当時)の「西への衝動」(NTT出版)という著書がある。荒教授は「ラシュモア山」に登り、岩山に彫られた巨大な歴代大統領顔を眺めながら、移民国家アメリカのアイデンティティを形成しようとする意思を確認する作業を決意する。 

荒教授はまず、アメリカへの入り口にあたる「エリス島(ニューヨーク州)」で、様々な出身国固有のアイデンティティを持った民族がカルチュアーショックで「電気摩擦」のような混乱を起こす様子を描いている。

一方、黒人については「ブラック・アメリカのエリス島」と言われる「サリヴァン島(サウスカロライナ州)」――北アメリカ最大の奴隷貿易港――を起点とするアメリカ黒人の奴隷から始まる苦難の歴史を「『黒い積荷』のシーアイランド」というタイトルで纏めている。 

同書は、更に「西部の魂、ミシシッピ川」の項で、アメリカ新大陸という「真空」(事実は先住民であるインデアンの歴史が既に存在)の中に、新たに入植してきた諸民族が単一のアメリカ精神・文化を織り成していく様子を活写している。200ページ余の本だが、私にアメリカの歴史への興味を喚起してくれた貴重な著作だ。

この本のタイトル「西への衝動」という言葉は、まさにアメリカの本性(DNA)を見事に表現した言葉だと思う。荒教授はアメリカの「西への衝動」について、次のように書いている。

コロンブスは、アメリカ「発見」につながる4回の航海をした。コロンブスの西へ西へという衝動は激しく、神秘的ですらある。西へ行けばインドに到達するという思いは、コロンブスには信仰に近かった。第一回の航海で、インドに到着したのではないと分かりながら、なおヨーロッパから西へ向かう航海を三回に亘って続けるのである。
その頃ヨーロッパでは、乾式羅針盤の発明により、これまでの天体観測に頼っていた航海術が飛躍的に進歩し、大航海時代を迎えていた。北を向く磁石の指針性を利用した羅針盤が、コロンブスを西へと突き動かした。西への航海に執着するコロンブスのやみがたい衝動が、「新天地」アメリカの地に、あたかも植えつけられたようだ。ほとんど「遺伝子」ともいえそうな西への衝動は、「アメリカ」の本質になっていった。

コロンブスの信仰を受け継いだ、「アメリカの『西への衝動』」は新大陸発見以降、その地で根付き育まれていった。コロンブス個人の「西への衝動」がアメリカという国家の「DNA」の中にまるで「アメリカという国家の本能」のように刻み込まれ、育まれていった様子を、私は「三段跳び(ホップ・ステップ・ジャンプ)」の喩えで説明を試みたい。

第一の「ホップ」の段階においては、ヨーロッパから多数に移民が、大西洋を越えてアメリカに「西進」してきた。大西洋を越えた動機・経緯は様々だった。宗教的な迫害、貧困、飢餓などから逃れるためであった。

ヨーロッパからアメリカ大陸への「流罪」もあった。1718年のイギリスの法律によって重罪受刑者のアメリカ移送が定められた結果、植民地独立までに5万人以上の囚人が移送されたが、それはイギリスからの全移民の4分の1を占めたという。

余談だが、古代以来,死罪に次ぐ重刑として「流罪」が行われた。我が国においても、「流罪」は行われ、江戸時代には遠島・島流しと称し、過失殺・博打・殺人従犯などの刑罰として広範に執行された。配流先は江戸からは伊豆大島・八丈島など七島、京・大坂などからは薩摩・五島列島・隠岐国などと定められた。明治新政府も1870年五刑の一として北海道への流刑を規定したが、1873年廃止された。

アフリカ大陸からは、多数の黒人が奴隷貿易により強制的に新大陸に移送され、プランテーション(商業的大規模農園)用の労働力として売買された。

16世紀~19世紀初頭までの大西洋奴隷貿易の期間中にどれくらいの数のアフリカ人が奴隷として船で連行されたのかについては、奴隷貿易船の航海日誌や貿易会社の書類といった残された資料などから推計するしかない。いろいろな試算があるが、多くの推計が少なくとも1000万人から2000万人程度と見積もっており、多い推計では、18世紀末までに約5000万人、少なく見積もられた推計でも、1000万人近くの10歳代から30歳代前半までのアフリカ人がアメリカに拉致・連行されたということになる。

因みに、デュ・ボイスの「アフリカ百科事典」によれば、新大陸に売られていったアフリカ人奴隷の数は、16世紀90万人、17世紀275万人、18世紀700万人、19世紀400万人と概算されている。しかし、これは新大陸にたどり着いた奴隷の数であり、アフリカで拉致された後、海上輸送の途中で死亡した数はその数倍にのぼるといわれる。航海は3ヶ月近くかかり、フランスの奴隷貿易港ナントにある奴隷貿易会社の18世紀の記録では航海中の奴隷の死亡率は8~32%と推定されている。船中で疫病が発生した例では、アフリカで「積み込んだ」189人の奴隷のうち、アメリカで「荷揚げされた」奴隷がわずか29人という記録もある。

いずれにせよ、このように、移民や奴隷など様々な理由・動機・経緯はあるものの、アメリカ人の祖先達は、ヨーロッパ・アフリカから「西へ向かって」大西洋を越えて新大陸に渡ってきたわけだ。

第二の三段跳びの「ステップ」の段階においては、1776年に北アメリカ東部の13州がアメリカ合衆国として独立した後、「西へ向かって」開拓を続け、次々と版図を広げつつ、今日のアメリカのように大西洋から太平洋に至る大国に発展する過程である。

この間には、1848年カリフォルニアで金鉱が発見された。砂糖を目指して進む蟻のように、金鉱での一攫千金を夢見た人々により、西部開拓が加速した。後で説明するが、「マニフェスト・デスチニー(明白な天命)」というアメリカ西進の大義の「コピー(謳い文句)」を作ったジョン・オサリバン(ジャーナリストで多能多才な文筆家)は、United States Magazine and Democratic Review(「合衆国雑誌及び民主評論」)誌に掲載した論文で、アメリカが大西洋から太平洋に向けて西に拓けていく様子を次の様に活写している。

メキシコのように間抜けで、取り乱した国が本物の統治を行えるわけがない。既に誰も立ち向かえないアングロ・サクソン移民の一団の先遣隊が、鍬とライフルを持ってカリフォルニアに殺到し始めた。彼らの後には学校、カレッジ、法廷、代議制政治、工場、そして集会場が築かれる。これら全ては自然な流れとして起こるのだ。諸原則自発的活動として起こるのだ。カリフォルニアは独立と自治の権利を手にするだろう。大西洋の帝国と太平洋の帝国が一つになって動き出す日は近い

オサリヴァンが予言したように、1890年の国勢調査結果により「フロンティア・ライン」の消滅が宣言され、アメリカは太平洋までの開拓を終え、大陸内膨張が物理的に終焉した。

上記のオサリヴァンの論文(抜粋)は、松尾文夫氏(ジャーナリスト、元共同通信社ワシントン支局長)が書いた「銃を持つ民主主義」(小学館)から引用したものだ。

イギリス人による植民地建設以来、19世紀のアメリカの歴史は、土地を収奪するために先住民のインディアンを駆逐するための戦争の歴史であった。松尾氏は、アメリカは西部開拓・発展を通じ「国家発展の為には『武力行使』をも厭わないという自らのDNAを扶植した」と指摘している。松尾氏は更に、「銃社会アメリカの起源もここにある」書いている。

第三の「ジャンプ」の段階は、「ステップ」終了後の19世紀末以降、今日に至るまでのアメリカの足跡である。これを大観すれば、アメリカは「西への衝動」のDNAに突き動かされるように、太平洋を越えて西進し、アジアや中東にまで覇権を唱えようとする動きである。アメリカのフロンティアライン(最前線)は、行きつ戻りつしているが、現在の焦点は、中国~アフガン~イラクといったところだろうか。

「ジャンプ」に移行する明瞭な契機としては、1899年のヘイ国務長官による「門戸開放宣言」であろう。勿論それ以前にも米海軍のペリー提督が1853年と翌54年に太平洋を横断し、日本に開国を迫るなど、アジアに進出する前兆は見出せる。

まさにこの「ステップ」から「ジャンプ」に移行する19世紀末の節目に、マハンの海軍戦略が世に出た。

第二次世界大戦及び冷戦構造下では、アメリカは、「西への衝動」だけではなく、逆の「東の方向」に大西洋を越えてナチスドイツやソビエトに対処することを余儀なくされた。しかし、これは例外的な話で、「三段跳び」の歴史で育まれた「西への衝動」という「本能」は、アメリカ国家の性格を特徴付けるものであると理解していいのではないだろうか。この特性こそが、中国が経済的・軍事的に急速に台頭しつつある今日、大きな意味を持つばかりで
はなく、我が国の安全保障の基本的前提条件・環境ともなるものだと思う。


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