魁!!テレビ塾 第15訓『デート〜恋とはどんなものかしら〜』
これまでの月9を全否定!?
月9ドラマ『デート』の異色さ
押忍!! ワシが当テレビ塾塾長の福田フクスケである!
突然だが、05年2月現在放送中の『デート〜恋とはどんなものかしら〜』は、月9にあるまじき“恋愛を根底から否定するドラマ”である。
なんせ、第一話から主人公の超合理主義者・依子(杏)は、「愛情なんて数値化できない不確定要素を基盤に人生を設計するなんて非合理的」と断言し、「結婚とはお互いが有益な共同生活を送るための契約」だと割り切っている。
その結婚の相手として品定めされる自称高等遊民(つまりニート)の巧(長谷川博己)も、「恋愛は性欲を美化した表現にすぎない」とし、生身の人間との恋愛を「人生の浪費」と喝破。2人はお互いに結婚を目指すが、恋愛感情のないままデートを重ねるのである。
脚本を務める古沢良太は、『リーガルハイ』で善や正義といった価値観が、いくらでも相対化できることを描いたが、本作ではその矛先を世にはびこる恋愛至上主義に向ける。恋愛って本当に必要? そんなに素敵なもの? そんな意地悪な問いかけを、わざわざ月9の枠を使って仕掛けるのだ。
だが、恋愛の否定は、おそらく本作の真のねらいではない。第4話で、巧は「君はいつだって正しいよ、だけど心がないんだ!」と依子を責める。人が良識や公正さだけでは割り切れない、不合理で非道徳な存在であることと、どう向き合うか。息苦しいほど“正しさ”が求められる現代で、恋愛は我々が大手を振って間違ったことをできる免罪符なのではないか。
『リーガルハイ』は最終回で「醜さを愛せ」という名台詞を残したが、私にはこのドラマが「恋愛は間違っている。だが、その“正しくなさ”を愛せ」と言っているように思えてならないのだ。
◆今月の名言
自称高等遊民の巧が結婚したい目的は、母親に代わる寄生先を見つけるため。第2話で彼は、上記のような発言で依子にプロポーズし、「男が永久就職したっていいじゃないか!」と逆ギレした。
(初出:学研「GetNavi」2015年4月号)
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【2023年の追記】
脚本家・古沢良太の最高傑作はいまだに『リーガルハイ』だと思っていますが、次点はこの『デート〜恋とはどんなものかしら〜』だと思います。
最初に結婚という目的ありきで恋愛感情ゼロからスタートした2人の関係は、いわば通常のカップルの歩みを逆再生するかのように「恋愛感情が芽生えるまで」がゴールになるわけですが、それまでは「自分が思う自分らしい自分」でいられた2人が、お互いを意識するようになって「自分らしい自分」ではいられなくなる、という展開が秀逸でした。
すなわち、「無理して相手に合わせることで自分が侵襲される」という恋愛の害悪と、「固執していた自分の殻を相手が破って変化させてくれる」という恋愛の恩恵とは、本質的には同じものであって区別できない、ということを描いてみせたのです。
依子や巧の「自分は恋愛には向かない人間だ」という信念や自己認識は、もちろん他者が勝手に否定したり、侵害したりしていいものではありませんが、結局のところそれだって本人の思い込みや決めつけにすぎないかもしれず、その認識の壁を破れるのもまた他者と関わることでしかなし得ないのだ、いうわけです。
私は、恋愛とは「自分の主権や境界を他者に侵害されたいという正しくない欲望」を必ず含むものだと考えているのですが、まさにそのことをラブコメを通してあぶりだしてしまった作品として、本作は恋愛ドラマの金字塔のひとつだと個人的には思います。
ちなみに古沢良太は、『リーガルハイ』でせっかく「正義や真実とは立場や視点によって変わる相対的なものである」というシニカルな世界観を築き上げたのに、次の『コンフィデンスマンJP』ではその世界観を現実離れした何でもありのコンゲームに落とし込んで単なる娯楽作に徹してしまい、個人的には物足りなく思っていました。
現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』は、おそらく権謀術数が渦巻く戦乱の天下取りゲームを、現代の新自由主義的な競争社会のコンゲームになぞらえて描く『コンフィデンスマンJP〜戦国編〜』がやりたかったのだと思うのですが、その意図がいまいち伝わらなかったせいで視聴者の満足度につながらなかった気がします。
ヘタレで弱虫だった若き松平元康は、いわば『コンフィデンスマンJP』のボクちゃんであり、彼がいかに闇堕ちして老獪なタヌキ親父の天下人・家康になるか、という『コンフィデンスマンJP』のダークサイドだと思って見るのが正解だったのではないでしょうか。