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男のコンプレックス Vol.9「父性レス男子のセックスアピール」

【注記】
これは、マガジンハウス「POPEYE」2010年2月号〜2012年5月号に連載していたコラムの再録です。文中に出てくる情報や固有名詞はすべて連載当時のものです。現在では男尊女卑や女性蔑視、ジェンダーバイアスに当たる表現もあり、私自身の考えも当時から変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

動物に好かれないと
「オトコ力」が低く見えませんか?

 猫カフェでもドッグランでも、はたまた牧場のふれあいゾーンでもいいのだが、「小動物を触れる場所に出没するカップル」に、そこはかとない下心を感じるのは私だけだろうか。

 まあ、百歩譲って女性は許そう。犬や赤ちゃんを見かけたらすかさずかわいがるというのは、「アタシってこういう母性といやらしさも持ってるのよ」という女子のアピール戦略だと解釈している。そこに目くじらを立てるほど私も野暮じゃない。

 問題は男ですよ。たまに、猫をじゃらすのがやけに上手かったり、犬がよくなついてくる男がいるが、そういう奴がたいていちょっとドヤ顔をしているのが気に入らないのだ。言外に「夜のベッドテクもあるんだぜ」とほのめかされている気がするのである。加藤鷹気取りなのである。

 ほとんどチンピラが因縁をつけるような苦言を呈しているのは、もちろん私自身が小さい子供や動物にめっぽう好かれないからだ。犬や猫は、いくらなで回しても不感症のごとく「ていうか生理的にムリ」みたいな顔でこちらを見てくるし、小さい子供に至っては、どうやら私のことを見下している。数年前、街で7~8歳くらいの見知らぬ子供に、「こんな大人になっちゃダメだぞ!」とふざけて声をかけたところ、「そりゃそうだ」と冷たく返されたのは、今も苦い夏の思い出だ。

 ほら、あいつらって本能で人を見抜くでしょ。生命力や父性、繁殖能力といった、動物としてきちんと「オスのフェロモン」が出ている男を生理的に嗅ぎ分けているふしがあるじゃない。そんな彼らにスルーされるのは、男としてのセックスアピールにダメ出しされている気がして、ひどくヘコむのだ。

 動物に逃げられ、子供にナメられる私の姿を見たら、彼女はどう思うだろうか。これまで理屈や言葉や雰囲気といったハッタリのライフハックでなんとか男としてのメンツを保ってきた私である。メスとしての感性を取り戻した彼女の気持ちが、一気に冷めてしまう危険も否定できない。

 ムツゴロウさんへの弟子入りを真剣に検討したいが、彼にセックスアピールがあるかというと、それはまた別の話だ。

(初出:『POPEYE』2010年10月号)

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【2023年の追記】

「女が男の前で動物や子供をかわいがってみせるのは、セックスアピールと母性アピールだ」みたいなネタは、当時ですらすっかり手垢がついて古くなっていた言説ですし、今思うとかなりミソジニーも入っていると思います。

しかし一方で、男が「動物や子供になつかれるのが得意」なことと、「女性と親密な関係になるのが上手い」こととの間には、なんらかの相関関係があるはずだ、という思い込みからはいまだに抜け出せない私です。

当時はそれを「オスのフェロモン」みたいなセクシャルな何かだと考えていたのですが、最近、その正体をひと言で表すと「他人のプライベートゾーンに土足で踏み込んでも許されてしまう性質」のことなのではないかと思うようになりました。

私の念頭にあるのは、例えば千原せいじです。彼の驚異の社交性は、弟の千原ジュニアによってしばしば伝説として語られるように、言葉の通じないマサイ族とすぐに肩を組む仲になったとか、現地の人にも警戒して近寄らないカニクイザルがせいじから手渡しで牡蠣を受け取ったとか、子供を産むと攻撃的になって人を襲うゴリラがなぜかせいじに子供を見せにきたとか、枚挙にいとまがありません。

言語にもテクニックにもよらず、生き物の種を超えて心を開かせるというのは、いわゆる「コミュ力」ではなく、ましてや「性的魅力」でもない、「自他の境界に侵襲してもなぜか受け入れられてしまう天性」としか表現しようのないものです。そして、俗に「人たらし」と呼ばれる人にはおしなべてこの性質があるように思います。

いきなりタメ口を利いても嫌われない人、ぞんざいな物言いがかえって親しみの証と受け取られる人、言うことが全部本音に聞こえるから相手の懐を開かせてしまう人、いるじゃないですか。私はそういう人に絶対かなわないし、ずっと割りを食わされてきた、というコンプレックスがすごくあることに今気づきました。私に何があったんでしょうか。


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