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コロナ収束への障害

 今回のコロナは未だ収束を見せずに膨らむ一方であるが、巷で噂されているワクチン普及や国際新秩序への序章などという陰謀のためだけにここまで波及するかということは、甚だ疑問である。それに付随した大量逮捕や地下施設における子どもの救出等、コロナを軸に展開されたさまざまな陰謀論は、おそらく小規模においては真実であろうがほとんどは過大評価されているというのが今の時点で有力であろう。
 コロナが実際に感染力の強い感染症であるとの見方も、そうでない意見も、そもそもがそれらのデータ自体信用のできるものではないとの見解も、様々存在するが、情報過多の中いずれにしても世の中の働きが正常であるとは言い難い。

  

  コロナ騒動

自粛やマスク着用などの対策の是非は置いておいたとして、ほとんど全ての人がそれらを疑わず、他人にまで強要する雰囲気さえもあるというのが一般論であろうが、メディアによる偏向報道によって生み出されたそれらの風習は、「お金の為に大衆が求める物を発信する」という拝金思想的メディアの方針と合致し、恐怖報道は留まることを知らない。
 メディアの情報の真偽や成立過程を鑑みれば、公的情報であろうとも必ずしも信用できないという点は挙げられるのだが、扱える情報の量が限られる層や、現代社会の基盤を創った高度経済成長を支えた自負を持つ世代など、メディアに対する絶対的信頼を寄せる方々が多数であることは、街に出れば明らかである。そこにおいては、テレビに代表されるメディアによる洗脳であるという言葉自体が暴言ともなりうる。世の中がテレビによって洗脳されている事もまた事実であるが、信じる物をやみくもに否定することに対する是非や、テレビが普及してきた時代によって今の世の中の基盤が出来上がってきたことを考えれば、感情的にメディアを否定する事もできない。
 とにかく、信頼を寄せる情報源がこぞって恐怖を発信する上では、その情報以上に、恐怖の感染症であると解釈せざるをえない。
  コロナの存在自体を否定するつもりはないが、社会の構造上、実体以上の恐怖や不安を世に広めていることもまた事実である。
 そして、恐怖が更なる不安を呼びそれらの解消の手段として求められるものが具体的な対処法、つまりワクチンや特効薬となる訳だが、この構造を利用すれば医療で一儲けできるということもまた事実である。
 
 コロナによる恐怖や経済的損失などあらゆる負の感情が、矛先を探して迷いながら、政治や経済、メディアや有名人の名誉毀損を招いているのが現状であるという見方もできるのではないだろうか。
 
 そもそもの発生源は、武漢由来とも、自然発生とも、さらには意識体であることや、メディアウィルスであるとの見解まである。私は個人的に全てが正解で複雑に混ざり合っている物だと解釈しているが、発生源がどちらであれ、この恐怖報道を形作る上記の構造自体が生み出しているのがコロナ騒動であると考える。


  

  平均化を求める社会

 基本的に価値というものは他者との相違の中で見出されるべきものであるから、相違性や独自性を持てるものが市場では重宝される。これに対する正しい理解が、個の人間の独自性こそ自らの価値であるとの自己肯定感となり、より多彩な多様化を促すことにつながる。
 しかしながら、人間に対する社会的な価値基準における価値というものは、必ずしも独自性を尊重されない。そして資本主義社会において、人材としての市場価値を考えるあまり、報酬や給料であるところのお金を生み出す能力が人間の価値であるとの錯誤が生じかねない。
 個人事業や起業主や特に優秀な人材を募るベンチャーなどを除き、業務内容にもよるが一般企業が求める人材とは、独自性を求めつつも基本的に常識から大きくは外れない、安定した存在であることがほとんどであるだろう。組織を形作り、円滑に進めるためにはある程度の平均化が必要である。そして被雇用者の基本的な思考は自らの業務を滞りなく進めることになる。
 つまり、世の中の多くの人間は、突出した独自性を発揮せずに常識的であることによって自らの市場価値を生み出しているということが言えるのである。そしてそれ以前の問題として、現在学校教育で行われていることは平均化に他ならず、型にはまることや常識的であることを求められているということ。
 これらのことは、「独自性こそが自らの価値である」という本来あるべき価値観との相違になるわけだが、その価値基準でいうところの無価値であることを求められることによって生きているということは無自覚にも劣等感を生みかねない。その劣等感こそがかえって経歴や権威、数値によるマウンティングを生み出し、人間同士の立場の中に優劣を求めようとする働きを生み出す。ここで誤解しないで欲しいのは、本来人間は独自性と価値そのものであるということ。自分自身の独自性を発揮できないという不満が承認欲求の原因となるという言い方もできる。
 平均的であることを強要する世の中が、人々の自己肯定感を削ぐことにより生み出す対立という構造が成り立つということであるが、何よりも自己肯定感の欠如は、自信を無くすこと、つまり自らの判断に信頼を置けなくさせることであり、思考停止によって右へ倣えの平均化を生み出すという循環を促しているということである。


  平均的であることに価値付けをしてくれたものとしてのコロナ

 平均的であることを強要される人々が、自らの真価を発揮できないという不満に対し独自性を発揮する方向にエネルギーを使うことがあれば、そこに多彩な芸術や人々を驚かせるようばアイディアとなり現れることになるのかもしれない。しかしながら、大きな不安とともに、承認欲求と劣等感により足を引っ張り合う構造が出来上がることが起こるのであれば、かえって無価値であることを強要し合う意識というものを生みかねない。現在一部で見られた自粛やマスクの自警団などと呼ばれたものたちは、もちろん根本的には本人の正義感からの行動でありむやみに否定できることでもないのだが、この構造の中で社会的に産み出された働きの一部と捉えることもできるだろう。そこまでの行きすぎた事例ではなくとも、今回の社会的な自粛やマスクの着用という流れにおいては、(それらのそもそもの効果という物を一旦度外視して)独自性を保つこと、つまり外出やマスクをしないという行為自体が社会的に悪であるという価値観を生んだ。逆に、独自性を排除し平均的であることに価値を与えてくれたという見方ができる。
 要するに、世の中の平均的であるということを強要されることに対する不満の解消であるところのエネルギーが、マスクや報道等のコロナ騒動を加速させていると言える。そして、コロナの恐怖に対しての多数派の共感による安心を求める動きでもある。


  コロナの収束に向けて

 コロナ偏向報道や本当の意味で正しい対処がきちんと行われない原因として、それぞれの不手際や陰謀などの働きがあるのかもしれないが、大衆が作り上げている集団意識が指摘できるということである。メディアや政府が作り上げる世論もあるが、メディアも政府も世論が作り出したものであるということ。大衆は社会を作り、社会構造が大衆の意識を作るものでもある。
 現在の状況を端的に表すのであれば、コロナが生み出したあらゆるセクションにおける二極化と、新たな格差社会に向けての覇権争いである。人類は覇権争いなどというくだらない尺度で社会を動かすことや、無自覚にも生み続ける対立と搾取の構造をただちに止めるべきである。コロナに限らず、あらゆる社会問題に対する正しい対処は、利害関係の上で成り立つものではないのである。

 集団免疫獲得による共生と自然消滅なのか、ワクチンの開発によってなのか、人々がテレビを見ることを止めることによってなのか、常識を捨て思考を停止させないことによってなのか、政府が基準と対応をもう一度見直すことなのか、人工ウィルスであるからこそ既に存在する特効薬が発表されることか、果たしていずれの働きがこのコロナ騒動を終息させ正しい対処を導く基盤を作るのであろうか。

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