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ガラパゴス諸島の謎 ⑴⑵

ガラパゴス諸島には大きな謎が3つある。それは現在でもなお解決されていない。その謎に少しでも近づきたいというのが、今回のこの旅における私の切なる願いだった。

⑴ この島に生息する奇妙な生物たちはどこから来たのか?なぜこのような特殊な進化を遂げたのか?

しばしば「ガラパゴス化」などと言われるように、ガラパゴス諸島は、隔絶された環境で、独自の進化を遂げた結果、ある種の袋小路に入り込み、世界から取り残されてしまった場所というふうな揶揄的な言い方で使われることが多い。日本のガラケーという言い方がその好例だ。ガラケー、つまりガラパゴス携帯電話は、作り込みで多様な機能を搭載し、特別な方式でインターネットにも接続できるようになったが、いずれも日本固有の仕様だったため、iPhone を始めとした世界標準のスマートフォンの上陸とともに駆逐されてしまった。一世を風靡したi-mode、今や昔である。きょうび、二つ折りのガラケーを操作しているのは、ごくわずかな人たちである。

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ガラパゴス諸島(バルトラ空港)に到着。私物のガラケーとともに。

しかし、本当のガラパゴス諸島は、決して世界から取り残されてしまった場所ではない。むしろ、世界最先端の、進化の前線にあるといっていい。

ガラパゴス諸島は決して古い場所ではない。むしろ地球史的に見ると極めて若い島々だ。アジア、アフリカ、北南米などの大陸に比べて、ずっとあとになって海底火山の隆起によって作られたごく新しい環境なのである。大陸は何億年も前から成立していたが、ガラパゴス諸島は古い島で誕生から数百万年、新しい島では数十万年しか経過していない。そこにどこからか、奇跡的に、限られた生物がたどり着き、なんとかニッチを切り開き、生息を開始した。進化は始まったばかりであり、これからこそが本番なのである。

それにしても彼ら彼女らは、どこからやってきたのだろう。一番近い南米の大陸からでも海上1000キロも離れているのだ。翼をもった鳥たちはたどり着けたかもしれないが、泳げないリクガメたちはどうやってやってきたのか。仮に、流木につかまって流されてきた稀なケースがあったとしても、この島で繁殖するには少なくとも一対のつがいが必要となる。そして何よりも、できたての火山島には植物も土壌も、そして水さえもほとんどなかったはずなのだ。

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ガラパゴスゾウガメ

しかも彼ら彼女らはいかにして独自の進化を遂げることができたのだろう。ガラパゴスゾウガメの祖先は、大陸から奇跡的に漂着したリクガメだと考えられるが、南米にも北米にも、ガラパゴスゾウガメのような甲羅の長さ1メートル、体重数百キロもの巨大なリクガメは生息していない。大陸のリクガメはもっと小ぶりである。つまり、最初にやってきた祖先たちは小型だったのに、ガラパゴスに来てから、過酷な環境だったにもかかわらず、巨大化を果たしたことになる。大陸にとどまったカメは大きくならず、ガラパゴスゾウガメだけがなぜこんなに大きくなれたのだろう。

不思議なことに、巨大なゾウガメが生息している場所が、世界にはもう一箇所ある。それはインド洋セーシェル群島で、アルダブラゾウガメが生息する。

ガラパゴスゾウガメとアルダブラゾウガメとのあいだに生物学的な類縁関係はない。そもそも2つの島嶼は地理的に離れすぎている。しかしこの2種のゾウガメは互いに形態と生態が極めて似ている。草食で、甲羅が1メートルを越すまでゆっくり成長し、極めて長寿である。200歳を超える個体があることがわかっている。アルダブラゾウガメの祖先もまた、おそらくは小型の大陸原産(おそらくはアフリカ)のリクガメが、この絶海の孤島に漂着したものだろう。つまり2種のゾウガメは、その進化論的な道筋も近似しているといえる。しかし、その道筋のうち、何が、小さなリクガメをして、これほどまでに大きなゾウガメに変化させるというのだろう。

これは、ガラパゴスをめぐる他の、独特な生物相にもいえることだ。陸と海に別れて生息するようになったイグアナたち。飛ぶための羽を諦めたコバネウ。各島に分布して独自の生活様式とそれに見合ったくちばしを持つに至ったフィンチたち……。

ガラパゴスの生物たちの謎を解くためには、数百万年にわたる時間旅行が必要となるのである。

もし、ガラパゴスの旅が実現し、ビーグル号の航路をたどることができるとしたら、私は、奇妙な生物たちを見つめながら、この時間旅行を実現してみたいと思ったのだった。


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⑵ ガラパゴスを発見したのは誰か。

もうひとつの謎は、人類学史上の謎である。ガラパゴス諸島が「発見」されたのは、1535年、スペインから南米インカに派遣された伝道師フレイ・トマス・デ・ベルランガの船が偶然、漂着したのが、後にガラパゴスと命名された諸島であったことによる。

ベルランガの船は嵐によって遭難したのではない。無風によって遭難したのだ。ベルランガが法王にあててしたためた手紙が残されている。1535年4月26日付け(この文書ゆえに、彼がガラパゴスの発見者の栄誉を得ているのである)。

2月23日、パナマを出帆、最初の7日間は風に恵まれて順調に帆走、大陸に沿って南下いたしましたが、それにつづく6日間はまったくの無風状態で、われわれの船は海流にとらえられて流され、3月10日に見知らぬ島を発見しました。

彼は星から島の位置を割り出した。

この島から2つの島が見え、ひとつは南緯0.5度から1度に、他のひとつは0.5度に位置しています。島にはアシカ、ゾウガメ、イグアナ(大トカゲ)、鳥などが棲み、それらは逃げることを知らないので、素手で捕らえることさえできるのです。島々は神が巌(いわお)を降らせ賜うたごとく、大きな石に満ち、大地には草を育てる力さえありません。

赤道直下に位置するガラパゴス諸島の正確な記述がここにある。生物たちが全く人間を恐れないということも記されている(手紙文は『ガラパゴス諸島――「進化論」のふるさと 』(伊藤秀三、中公新書)による)。

しかし、これはあらゆる歴史的記述と同様、白人による世界の「発見」ということにすぎない。それ以前にも、南米のインカ文明の人々や、あるいは太平洋をすみかとしていた海洋民族が、この島の存在を知っていた可能性は十分にある。そのことを示す何らかの文化人類学的、民俗学的な証拠はないのだろうか。つまり人間の活動の痕跡を残す遺跡や遺物の存在である。

ガラパゴス諸島は、その自然史的な価値、つまり固有の動植物などの存在が注目されるあまり、全体が国立公園化され保全されたことはすばらしいのだが、その一方で、人類学史的な研究調査は手薄になっているきらいがある。コン・ティキ号による海洋冒険家として名をはせたトール・へイエルダールによるガラパゴス調査の記録がわずかにある程度だ。

1953年、へイエルダールはガラパゴス諸島のうち、フロレアナ島のブラックビーチ、サンタ・クルス島の「鯨の湾」、サンティアゴ島のジェームズ湾などで、多数の土器類を発見し、これがコロンブス以前の時代のもの、つまりインカ帝国時代のものである可能性を考えた。しかし当時の年代測定技術は今ほど精度が高いものではなく、確定的な結論は得られなかった。

そして、ヘイエルダール自身の評価もまた歴史の試練の中で揺らいでいるのである。私が少年だった頃、『コン・ティキ号(「コンチキ号」と表記された本もあった)漂流記』は、ジュール・ベルヌの冒険小説『十五少年漂流記』や、アーネスト・シャクルトンの壮絶な南極氷海記『エンデュアランス号漂流記』と並んで、三大わくわく漂流記として、読書好きな少年少女の必読書だった。

中でも、太平洋にぽつりと浮かぶ島イースター島の謎の巨石像の起源をめぐる壮大な仮説を展開した『コン・ティキ号漂流記』は出色の物語だった。ノルウェーの冒険家、ヘイエルダールは考えた。イースター島を含むポリネシアの人々の由来は謎である。南米ペルーには石の像があり、それはイースター島に、海を見つめて並ぶ巨人像と似ているではないか。イースター島文明の起源は、インカ帝国にあるのではないか。

こう考えた彼は、これを実証しようとした。1947年、ヘイエルダールは、南米の軽量木材バルサを用いて、インカ帝国時代の図面をもとに筏を建造した。名前はコン・ティキ号。インカ帝国の太陽神の名を借りた。このコン・ティキ号に乗って、ヘイエルダールは、南米ペルーからイースター島にたどり着けることを証明しようとしたのである。ヘイエルダールを含む5人の乗組員と1羽のオウムを乗せたコン・ティキ号は、約100日間の漂流を経て、ついに南太平洋海域に到達した。最終目的地のイースター島には届かなかったが、近くのラロイア環礁で座礁した。ペルーからポリネシアに古代筏だけで航行するという目的を達したのだった。翌年出版された『コン・ティキ号漂流記』は世界中で大評判を取り、ベストセラーとなった。航海に取材したドキュメンタリー映画は、アカデミー賞を受賞した。

一躍時代の寵児となったヘイエルダールは、今度は、中米のアステカ文明の起源は、エジプト文明にあるとの説を唱え、アフリカ産のパピルス葦で編んだ船を作って、モロッコからカリブ海を目指す航海に出発した。しかしこの航海は6000キロを進んだところで、惜しくも葦船が浸水に見舞われ、頓挫することとなった。彼はその後も、同じような海洋冒険を繰り返し企画し、実行した。ガラパゴス島とインカ文明との関連に関するヘイエルダールの説もこの中のひとつとして唱えられたものである。

しかし、時間を経た今、あらためて振り返ってみるとヘイエルダールの人物像は、いつもある種の関係妄想に取り憑かれていた、学者というよりも、一種のイベンターであったとみなす方が正しいかもしれない。紀元前3000年前のエジプト文明と、紀元1500年前後に花開いたアステカ文明とは時代的に離れすぎている。ここに関係があったというのは無理がある。ヘイエルダールを一躍有名にしたコン・ティキ号の実験もあとになって様々な疑義が指摘されている。

コン・ティキ号はペルーを出港したあと、約80キロメートルを軍艦に曳航(えいこう)されながら進んだ。南米の太平洋岸には強力なフンボルト海流が南向きに流れており、逆流に抗する推進力を持たない筏では、このフンボルト海流にさからって、ポリネシア方向への貿易風に乗ることはできなかった。つまり正確に言えば、コン・ティキ号の漂流はフンボルト海流を超えた位置から始められたのだ。またコン・ティキ号は、現代の保存食料を搭載し通信技術も駆使しており、古代インカ帝国の文化水準を模した航海ではなかった。

現在の文化人類学の共通理解では、イースター島の巨石モアイ像の謎は残るものの、ポリネシアの民は、アジア大陸から台湾、フィリピン、東南アジア諸島を経て、メラネシア経由で、太平洋諸島に達したものとされていて、南米起源の説はほとんど顧みられていない。

ヘイエルダールの冒険は、第二次世界大戦が終わった直後、疲弊した世界にひとつの明るい夢を与えた時代の徒花として、人々に歓迎されつつ消費された物語と考えるべきものなのである。

さて、話がいささか横道にそれてしまったが、ヘイエルダールのガラパゴス調査がたとえ妄想を含んだものであったとしても、ガラパゴスを最初に発見した人々が、スペイン宣教師ベルランガ以前にいたかもしれない、という可能性は残る。

もうひとつのミステリーは、ガラパゴス空白の300年である。ベルランガがたまたまガラパゴスに漂着し、その記録を文書に1535年に残したあと、およそ300年に渡って、ガラパゴスは世界史の中ではずっと忘れ去られていた。大半を不毛な溶岩に覆われ、水場もほとんどなく、巨大なゾウガメと奇態なイグアナが群生するこの不思議な島々は、地政学的には長らく放置されていた。風説によれば、この間、ガラパゴス諸島は、ヨーロッパと南米をつなぐ航路を狙う海賊たちのアジトになったり、捕鯨船の停留場所となったりしたという。もしそれが本当なら、金や銀を積んだ船を襲った海賊たちが奪った財宝が、ガラパゴスのどこか地中の壺の中に隠されているかもしれないのだ。

19世紀になって、南米諸地域が、宗主国であるスペインやポルトガルの支配から脱し、独立を目指すようになって初めて、民族自決と領土的な自覚が現れてきた。インカ帝国に文化的な源流をもつエクアドルが独立を果たしたのが、1830年。そのすぐあと、エクアドルはガラパゴス諸島の領有権を宣言した。1832年のことだった。英国の軍艦ビーグル号はすでに英国を出航し南米への航路を進んでいた。もし、ダーウィンを乗せたビーグル号が、ガラパゴス諸島に到達したとき(1835年)、まだ、エクアドルが領有権を主張していなかったとしたら、英国艦隊はすかさずユニオンジャックの旗を海岸に打ち立てたであろう。しかし、すんでのところで、エクアドルが領有権を主張し、エクアドル側からの移住も少しずつ進み、村ができ、居住の既成事実が存在したおかげで、ガラパゴス諸島はからくも、欧米列強の手に落ちることを免れたのである。

その後、19世紀後半から北米と南米をつなぐパナマ地峡に人工運河を建設することになると、太平洋側からパナマ地域を望むことになるガラパゴスの地政学的重要性が急上昇することになる。ヨーロッパ諸国、米国、そして列強の仲間入りを果たした日本までが、ガラパゴスの割譲を目指すようになった。しかし、エクアドルは頑としてガラパゴスの領有権を貫き通した。このことが結果的に、ガラパゴス諸島の自然を守ったことにもなるのである。

もし、私がガラパゴスに行くことができたなら、ぜひ、空白の300年を埋める手がかりを探してみたい。そして、なぜ、エクアドルは、ビーグル号の到来の直前に、ガラパゴスを保全するという英断を下すことができたのか、その密かな歴史を紐解いてみたいと思うのだ。

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