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「言葉を取り込む」と言った娘

某月某日、(大好きな某作家さんの真似をしてみました)車での移動中に娘と私は語彙力についての話をしていた。*運転は夫。娘は「お母さんはどうやって言葉の力を増やしたの?」と尋ねていきたのがこの会話の始まりだった。私はこれまでのnote記事から分かると思うが、言葉に興味があり、言葉集めが大好き。言葉の力を信じ、そして愛する者の一人である。私のようなタイプはnoteを書いている方には多いのでは?と思う。さて、話を元に戻すと、私が娘の質問に対してした答えは「お母さんの場合は、本はあまり(実際はほとんど)読まない子どもだったから、漫画とかからかなぁ。」「あとは家族との会話とかね」実際、私の家庭では年の離れた姉が居たので幼い頃から大人3人+おチビの私という家族構成であった。3人の大人達の会話は私が幼稚園や学校で聞くものとは全然違う言葉を交わしながら進行されていたので、おのずと私も実年齢より大人びた言葉を使う子どもへと育ったのだ。私は大人達が使う言葉を作文でも日常会話でもどんどん使うタイプであったので、きっと周囲の人からは少し変わった子ども、マセてる子どもという印象を持たれていたと思う。娘は私の回答を聞き、即座に「本は読まなかったの?」と切り込んできた。娘は私とは違い、幼少の頃から絵本が大好きな子どもで今も尚、読書家である。「小説よりエッセイが好きだからそういうのは読むよ」と私は答えた。これは真実である。長時間の待ち時間や旅の相棒はいつでもエッセイだ。しかも、気に入った作品は何度でも読み返したい派である。そう。私が今日、この記事を書こうと思った理由は、私の言葉への想いとかエッセイ好きということではない。娘との会話でバトンが娘に渡された時の彼女の返答がとても気に入ったので、そのことを忘れないうちに記述したいとの思いから始った話しだ。娘は私にこう言った。「私が言葉を取り込むのは本とかお母さんとのお喋りとか・・・」娘の話はまだ続きがあるのだが、私をはっとさせたのは娘が口にした「言葉を取り込む」という表現だ。言葉の力とも語彙力とも違うこの表現が私はとても気に入った。こんな表現をさらりと会話に投入してくる娘、なかなかやるなーと思った。私は自分の知らない、あるいは使わない言葉や表現を目にしたり聞いたりすると、いつでも胸がはっとなる。新たな言葉、表現と出会う瞬間はいつもドキドキするので、忘れないうちにメモやこうして記述しておくことにしている。変わった趣味?と思われるかもしれないが、これは人間観察ならず、言葉観察、言葉採集のようなものでなかなか楽しい趣味の一つである。ちなみに私は好きな作家さんの日記や音楽、映画、漫画などなど色々な場面からこの言葉採集をしている。人が何気なく使う言葉、そこにはその人の世界観が溢れているものだ。だからこそ、私は私らしい言葉を使って生きていきたいし、この先も新たな言葉との出会いを楽しみにしている。そして出来るなら、娘にも自分の発する言葉には責任と愛情を持った人になってほしいと思っている。言葉はその人そのものを表す鏡のようなものでもあるからだ。

娘はある時、これまた車での移動中にこんなことを言った。「完璧な幸せはないよね。でも、完璧な不幸もないよね。」これはコロナ禍で初めて経験する長期間の休校や自粛生活の最中に出た言葉なので、娘の中にある不安と僅かな希望が生み出した表現なのかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。私は娘ではないので、そのような言葉を発した真意は分からないけれど「そうだね。完璧な親も居ないし、子どもも居ない。完璧な結果もないよね」と続けたことを覚えている。そもそも完璧である必要などないのだ。時々、私の胸を心をハッとさせるような言葉を使う娘。親ばかで申し訳ないが、私は娘のそのような感性が好きだし、素敵だなと思う。

この先、娘はどんな言葉を取り込んで生きていくのだろうか。出会う人や物、経験そのものが大きく影響を与えることだろう。僅かで構わないので私も何かしらの影響を与えることが出来るだろうか。そうでありたいと密かに思いつつ、今日も私は言葉採集を続ける。日本語は美しく、また、同じ意味を表す言葉でも複数の言い回しが存在する言葉遊びが楽しい言語である。娘に限らず関わる子ども達にはその面白さを知ってほしいとの思いから、私は子ども達と接する時には様々な言い回しを使って会話をするよう心掛けている。同じ言葉ばかりで会話を単調なものにしたくないという拘りのようなものもある。

新たな言葉との出会いを求める旅はまだ始ったばかり。私の言葉への愛情、情熱が尽きない限りこの先も旅は続いていくと確信している。

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