パリでもないのに~ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ篇~|①帰ってきました
みなさん、お久しぶりです。
去る2022年8月1日、日本に帰国した。何度か持ち上がった一時帰国の話も立ち消えになり、実に十一ヶ月ぶりに祖国の土を踏むことと相成った。一年間の交換留学はつつがなく――いや今後書いていくように実際には非常につつがあったのだが――終了し、危惧していたロストバゲージや空港での足止めもなく、フランスから送った荷物も無事に到着し、万事首尾よく帰国が済んだのは幸甚というほかない。
まずはフランス在留中に始めた当連載の二回目を昨年末に書いたきり、実に半年以上放置していた件について深くお詫び申し上げたい。楽しみにしていた方には大変申し訳ない。楽しみにしていた方がいればの話だが。
三月半ばに何度目かの原稿催促をいただき、いやあもうすぐに書いてお送りしますよという生返事を返した後、担当の松山さんからは何の連絡も来なかった。これは遂にこいつは書きやしねえと見放されたのか、日本に帰ったら本格的に詫びを入れなければならないなと思っているうち、七月中旬に福村出版から一つ連絡があった。松山さんがご逝去されたという。催促がなかった理由に合点がいった。
松山さんは本連載のご担当者であるのみならず、私の前著『疾風怒濤精神分析入門』(誠信書房、2017年)の担当でもあり、何の業績もなかった有象無象の学部学生である私を発見し、いきなり単著を書かせる英断に打って出られた、まさに恩人と呼ぶに相応しい方である。あの際の松山さんの暴挙がなければ数々の栄誉も、またこの連載も存在しなかっただろう。
リニューアル後第一回目の本稿は、松山さんに対する哀悼の意を表するところから始めさせていただく。まだ私も帰国したてで、お線香の一つすら上げられていないのが申し訳ない限りだが、松山さんが安らかに眠られることを心よりお祈りしたい。本来であればこの連載の続きのみならず、準備中だった二冊目の本もとっくに完成し、原稿をお見せできているはずであった。私の怠惰と無能力ゆえに原稿が遅れ、いただいた恩を全くお返しできないままに旅立たれてしまったことが無念でならず、悔恨の念に堪えない。帰国して、これから本格的に本に取り掛かり、これまでの不義理のお詫びに代えるつもりだったところ、本当に残念だ。
せめて松山さんから生前に頂いたお仕事を全力でこなすことがせめてもの恩返しになると信じ、幸いにも続きを要望された当連載に取り組んでいこうと思う。
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まずは気分と共にタイトルを一新する。私はもうパリにはいないから「パリだというのに」というタイトルはおかしいので、新たに「パリでもないのに~ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ篇~」としてリニューアルさせていただきたい。
パリにいる時にはパリ生活について書くアイディアがあまり浮かばなかったが、留学を終了した今になると、改めて遠い国からかの地での生活を振り返る余裕が出てきた。ヘーゲルではないが、何かの物事に対して分析や理論化などの知的作業を施せるのは、当の物事がすでに起こってしまった後、一日で言うなら大方の出来事がすでに済んでしまった黄昏においてでしかないのだ。
だから知恵の象徴である女神ミネルヴァの梟は暗くならなければ飛び立たない。絶対王政を経て革命に至り、史上初の帝政を敷いてしまったフランスに比べて、ドイツではいまだ統一国家すら成立していない。しかし歴史的、政治的な遅れがあるからこそ、ドイツは隣国で花開いた歴史的転換を知の俎上に載せることが相成る。現にフランス革命の哲学的可能性を真に汲み取りうるのはフランスにおけるクーザンのような連中ではなく私でありまたドイツ観念論の哲学者たちだったのだ、そんなヘーゲルの言い訳が伺える名言である(余談だが哲学の本質はこの「遅延」にこそある。哲学は出来事が生起するその瞬間に居合わせることができず、黄昏になった後で遅れてやってくることしかできない。こうした哲学における「遅延」の本質性を存在論的な原理にまで拡大したのがジャック・デリダであり、その「差延différance」概念であろう。たぶん)。
しかし何もそのような崇高な理念に基づいてこの雑文のタイトルを変えたわけではない。単にフランス留学中は日々の暮らしと遊びと少しの研究に負われ、日々を振り返る暇がなかったというだけのことである。もはや留学は終わっているので黄昏どころか翌朝の夜明けを迎えており、今宵の徹夜に賭けると決めた晩に夜の長さを過信して、気づけば何もできないまま朝日が昇りはじめたときの焦燥感が腹の底から湧き上がってくる。ちなみに今の状況がまさにそれだ(現在朝5時)。
いずれにせよ新しいタイトルはヘーゲルの名言とほとんど関係がないので、細かいことは考えずに楽しんでいただきたい。言い訳であるという点においては同じだが。
* * *
いつもながら前置きが長くなったが、今回は帰国して三週間ばかりに抱いた所感を書いてみたいと思う。いきなり最後かつ最近の出来事から始めるというのは、あたかも小説をエピローグから始めるような無茶苦茶な構成に見えるかもしれない。だが次回から改めて留学中のことを時系列順に書いていき、最終回でまた帰国のエピソードに戻るつもりだ。これはまさにヘーゲル体系の「円環」のようでなかなか洒落ているではないか。洒落ているだろうか。たぶん洒落ているのではないか。
帰国後の数日間は新鮮な感覚があった。駅のベンチで電車を待っていると、背後から日本語の会話が聞こえる。あ、こんなところで日本人が喋ってる、なぜだろうと思うとてめえの国なんだな。それから街の看板がみな日本語なのも不思議な感覚だった。まだ気持ちは半分くらいパリにあったので、いつもの海外旅行の一環で――私はこの留学中旅行ばかりしていたので――今度は遠いアジアの国くんだりまでやってきたという旅気分と、だがそれがまさに故郷であるという未だ実感の湧かない認識とが矛盾したまま私の中にあった。
だが日本に帰ってきたという実感を初めに得たのは、成田空港から東京に帰るスカイライナー(体力が果ててこいつに乗るせいで結局運賃が羽田のそれとあまり変わらなくなる)の窓から見た、夜空に煌々と輝くカラオケと飲み屋の看板であった。
『広告都市・東京』という本があった[1]。読んだことがないので詳しいことはわからないが――次回までに読んでおきます――東京という街の、少なくともその景観の大部分が広告によって構成されているというのは事実だろう。もしかしたら大阪の道頓堀や新世界の方がより広告に依存しているかもしれないが、東京も負けず劣らずそうである。特に新宿や池袋、それから秋葉原などの都心に行くとわかるが、何より先に目に入るのは光り輝く巨大な広告であり、それに比べれば建物それ自体は極めて存在感が薄く、あたかも広告を支えるべくしてそこにある台座でしかないようにひっそりと身を隠している。
一年ぶりの我がホームグラウンド高田馬場は、懐かしさよりも違和感が勝っていた。確か昔さくら水産が入っていた駅前の古ビルが跡形なく取り壊され、全く別の現代的なビルが屹立している。こんなものは僕たち私たちの高田馬場ではない。そう思うのはこの新しいビルだけが原因なのか。もう一度街並みを見回してみると、高田馬場が高田馬場たりうるあれがなくなっていることに気づいた。そう、馬場を写した写真に必ず登場する、あの巨大な「学生ローンカレッヂ」の黄色い看板である(下図参照)。
あの看板一つなくなっただけで街の景色全体が様変わりしたように感じられ、寂寞感まで抱いてしまうとは。いかに東京という街の景観が看板に依っているかの証左であろう。上図の巨大看板の下に位置する、壁に貼られた数枚の黄色看板はかろうじて在りし日の姿を留めており、それだけが街の記憶を保存してみせる一方で、むしろ主の不在を際立たせているようでもあった。
大阪道頓堀の街からあのグリコの看板が姿を消した様を思い浮かべていただきたい。もはやそこは道頓堀であって道頓堀ではないだろう。こういう感覚はパリを含めヨーロッパの国々では抱いたことがない。いや、パリやローマの街には広告がないというわけではない。資本主義の発展とそれに伴う宣伝合戦の激化はかの国々をも例外なく襲っている。むしろ、これはパリではないが、スペインはバルセロナに行った際、修復作業の只中にあったバルセロナ大聖堂の足場幕の上にサムソン・ギャラクシーの巨大広告が貼ってあるのを見て非常に興が削がれる思いがしたことを覚えている(下図参照)。
だがどれほど広告が増えようと、あくまで建物それ自体が「主」で広告が「従」であるというハイアラーキーは保たれている。それゆえにこそ不快害虫に浸食されているような不快感を覚えることもあるが、東京のようにむしろ広告が「主」であり建物が「従」であるという転倒は生じていない。それからヨーロッパの広告は基本的に光らない。夜でも見えるようにバックライトに照らされていることはあるにせよ、日本のように広告自体に埋め込まれた電飾がビカビカと夜空を彩ることはないのである。
加えて言えば日本の建築はスクラップ&ビルドを旨としており、建物はしかるべき耐久年数を超えれば壊して建て替えるものであるという理念が根底にある。広告の寿命はもっと短い。広告元の会社が潰れるか、それ以前に広告の費用対効果が見限られればあっという間に別の広告に取り換えられる。それゆえに結局として都市のランドスケープはほんの数年で見違えるように変化する。高田馬場の学生ローンにしたところで、それが街を彩っていたのはたかだか3、40年前からのことに過ぎない。昔の映画に映った自分の馴染みの地区が、本当に同じ街かと訝るほどにその景観を一変させているというのは、都市に住む誰しもが一度は経る経験であろう。
他方でヨーロッパの、特にパリやローマといった伝統的な都市の建物は、基本的に建ったら半永久的に維持されることを前提に作られている(イタリア人に聞いたところ、ローマではむやみに建物を取り壊して地面を掘ると、すぐにローマ帝国時代の遺跡が出てきて建築計画それ自体がおじゃんになることが想定されるので、下手に壊せないそうだ)。内装は頻繁にリフォームされるが、外装は在りし日のまま、何百年も前の荘厳な伝統様式を留めた風格ある建築の数々が街の雰囲気を醸成している。広告はもちろん頻繁に入れ替えられるが、それが景観に及ぼす影響は、先述の通り少ない。そのため一昔前のフランス映画、例えば私が最近見たものを挙げるとゴダールの『女は女である』(1961年)などで映し出されるパリの街並みは、今のそれとそこまでは変わらないのである。変わったのはむしろ人々だろう。移民の数が当時と比較にならないほど増えた――このことについては後の回でまた詳述しよう。
東京の街は広告が作り、広告はそれが据え付けられた建物に覆いかぶさり、そのマテリアルな存在感を掩蔽する。東京に帰って来てまず先に抱いたのは、ここはなんとバーチャルでイマジナリーな街だろうか、という思いだ。欲しいものはすべてブラウン管の中(浜田省吾/MONEY)ではないが、広告に映し出された煌びやかなイメージ、漫画やゲームの架空世界、「とんかつ」「脱毛」「投資信託」といった輝くネオンのシニフィアン……「物(ブツ)」という形でそこに存在するわけではない、必ずしも手に届くわけではない世界を指し示す記号と画像は、そこにはない何かを通りの只中に呼び寄せ、街をその物質的構成要素以上の何かに格上げする魔術的価値を供給する。
だが、ならばヨーロッパの街は「自然」であり、東京の街はいかがわしく「人工的」だということか。
日本でも例えば京都のような伝統的な街には景観保護条例があって東京や大阪のような派手な広告を打てないようになっており、パリやバルセロナといった街もそうであろう。だからこれは単に東洋と西洋の違いではない。パリでは景観保護のため法律によって高いビルを作ることが禁じられているので、ビル街はラ・デファンスなどパリの外の郊外か、国立図書館があるベルシー地区周辺(余談だがこのあたりの景観は川崎に酷似していると思う)の街はずれに追いやられている。
高層ビル群が象徴的に表現するのは日本では都心の風景であろうが、パリではむしろ郊外のそれであり、豊かさというよりも貧しさである。パリが美しく文化的であり続けるために、資本活動を成立させるためのいわばインフラと言えるオフィスビル群を押し付けられた、マージナルで文化的に貧困な地区の姿である。ごみ処理場や発電所がどこの国でも決まって田舎や都会のはずれに建てられることを思い出せばよい。
だからパリも東京に劣らずバーチャルな街なのだ。古い絵葉書に映し出されるような伝統的な美しい花の都パリは、もはや自然な形では成立しえない。だがそのイメージを保つため、そこで生じる矛盾を押し付けているのが郊外であり、そこに暮らす人々である(移民やブルーワーカー層の労働者は、法外な家賃を要求するパリの住居には住めず、毎日郊外からパリに通っている)。パリと郊外を結ぶRERやCDG空港とオペラの間を運行するロワシー・バスに揺られてパリの外を一歩出た時に一変する景色、パリを出てほんの五分も走っていないのに一度に荒廃しだす街並みが与えるショッキングな感情こそが、この街のリアルだ。
パリはなんだか無理をして出来上がっている街だという気がする。そこに暮らす人々がみな背伸びをして、頭の中に存在する括弧つきの「パリ」のイメージを保持するため、身の丈以上の生活を送る街。不当なほど高額な食事を、雰囲気代だと誤魔化して食べる街。パリに住めない移民や貧困層によって支えられるパリジェンヌやパリジャンの暮らし。
ともあれ、おいしい鴨料理と、シャンパンを頂きながらテラスで吸う煙草、気のいい友人たちの笑顔、それに掘り出し物が見つかる古本屋のことを考えると、私の胸ははずみ、またあの街に戻りたくなるのでした。これからパリに行かれる方、僕を預け荷物の中に入れてCDGまで運んでくれませんか。コントラバスのケースはこちらで用意します。
[1] 北田暁大『広告都市・東京――その誕生と死』東京:廣済堂出版、2002年(→増補改訂文庫版、ちくま学芸文庫、2011年)。
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