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パリでもないのに~ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ篇~|⑥フランス語ロック論争

コロナ禍のパリ留学について独自の視点で綴った片岡一竹さんの好評連載。これから留学を考えている方々におすすめなのはもちろん、パンデミックが留学生にもたらした影響について記した貴重な記録です。
第6回の今回は、フランス留学生活の最大のテーマの一つであるフランス語についてです。どの地域に留学しても言語の習得にはたいへんな労力がかかりますが、フランス語と日本語には意外なところに類似性がみられるようです。

 留学の半分は事務手続きだ、という旨の話を以前記したが、残りの半分は現地の慣習に適応するための努力であると言ってよい。ここで挙げた慣習という言葉は非常に多義的であって、食習慣から紳士的な中指の立て方に至るまで広範の事項を指すが、とりわけ大きな比重を占めるのが言語の習慣、つまりは語学である。

 日本で暮らしていれば、日常的にフランス語と出会う機会はケーキを買いに行くときくらいであり、総じてこの言語には瀟洒で優美なイメージ、さもなくばおばさん臭いイメージが付きまとっている。
 しかして当然ながらフランスでは何をするにしてもフランス語が用いられる。ゆえに日本で態々フランス語の単語を用いる際に醸し出される独特の意味合いなどはフランスにおいて存在せず、仏単語は空気のごとく透明である。

 例えば令和も5年を過ぎた現在の日本国においてパンタロンを履いているようなアナクロニストは殆ど現存しないであろうが、フランスでは多くの人がパンタロンを履き、街を闊歩している。と言ってもフランス人が未だに先の膨らんだラッパみたいなズボンを履いて過ごし、無精髭と髪を伸ばして学生集会にも時々出かけたり、就職が決まって髪を切ってきた時もう若くないさと君に言い訳したりしているわけでは当然なく、単に日本における「ズボン」を指す一般名詞が「パンタロン」(pantalon)であるということである。
 ゆえに「私はパンタロンを履いています」と日本語で発するのと、「Je m’habille en pantalon」と仏語で表現することの間には、直訳を超えたコノテーションの大きな差異がある。

 同様に、日本語において「アナルコ・サンディカリスム」という語を聞く機会はほとんど皆無であるが、フランスにおいてもそんな言葉を口に出す奴はまずいない。

 文化や慣習の多くは言語によってその基盤が作られている。したがってここに謂う新たな慣習は畢竟するに新たな言語文化に帰趨する。現地語を聞き、喋り、また現地語を話す人々の輪に入っていく術を学ぶこと。これは基本中の基本であるが、そうであるだけに一番難しい。私の留学生活における最初にして最大のテーマが、果たしてフランス語であった。

 今回はそういう話である。

* * *

 私を含めた多くの日本人がフランス語を学びだすのは大学もしくは高校の第二外国語としてであろう。つまり最初の外国語として英語を学んだあとで、フランス語に手を付けだすのだ。いきおいそこでは英語と比較しながらこの言語を学ぶこととなる。

 英語と比べるとわかるが、フランス語の文法規則は複雑だ。
 英語はゲルマン語に由来し、他方フランス語はラテン語に由来するロマンス語であるが、英語はロマンス化されたゲルマン語、フランス語はゲルマン化されたロマンス語と言えるので、二つの言語は結果的に非常に似ている。しかし文法規則の複雑性という観点における差異は明白だ。

英語に面倒な規則を付け加えやがったやつ――というのが、フランス語の初学者がもつ第一印象ではなかろうか。

 実際、英語を話している時には考量せずとも済む、性数一致、複合過去と半過去の差、冠詞の使い分け、一人称と二人称の間ですら異なる動詞の活用(まあ口語にその差は表れないが)などがフランス語においては重要になり、それを間違うと、時として伝えんとする意味が全く誤解されて届いてしまう。
 それでも英語と同じく一部の代名詞にしか格変化がないので(I, my, me, mineというあれと同じ)、そのぶん例えばドイツ語などに比べればかなり単純な方だが、しかし英語と比べると文法的な凡ミスが多くなってしまうのは事実だ。

 しかし救いは、フランス語の発音が英語よりも簡単だという点にある。

 たしかに慣れるまでは謎の規則に惑わされる。 « Qu’est-ce que c’est ? »(これは何か)という至極エレメンタリーなフレーズでさえ、この文字列を見て「ケスクセ」のように発音するなどと誰が想像できようか。「クエストセクエセスト」みたいな発音を思い浮べるのが普通だ。
 実際にラテン語時代はそのような感じで発音していたのだろうが、時間が経つにつれ、「単語末尾の子音は発音しない」という変化が生じ、その結果「est」(英語のis相当)は「エスト」ではなく「エ」の一音となった。
 しかしながら同じ文字列で「東」を意味する「est」は「エスト」と発音する。大変に規則的ですこと。

 しかしいずれにせよ、ほとんど無法状態と言える英語のそれよりフランス語の発音は相当に規則的であり、ルールといくつかの例外をマスターすれば、未知の単語であっても容易に発音を予測できる。

 発音規則を厳密に適用すれば「ghoti」という英単語は「フィッシュ」と発音することが可能だ、なぜならlaughやwomenやnationは「ラ」、「ウメン」、「ネイシュオン」と読むではないか――というイングリッシュ・ジョークがあるが、それほどの乱痴気騒ぎがフランス語の発音規則において起こることはない。

* * *

 しかしそれ以上にフランス語の発音が日本人に簡単である理由は、これら二言語の発音の間にある発想の類似性に存する。

 つまり、どちらの言語も母音を重視する言葉であり、子音に母音を付き添わせることを是とするということだ。
 日本語の五十音表を見れば一目瞭然だが、「ん」を例外として、すべての仮名文字は子音と母音か、もしくは母音のみによって構成されている。これはフランス語においても類似的であり、日本語よりも子音を単独で発音する機会は多いものの、基本的には子音と母音をセットで用いることを原則とする。

 原則、と記すと厳めしく聞こえるが、つまりは「そうするのが気持ちいい」ということだ。
 例えば学習者を悩ませる、私も完璧にマスターしているとは言えない、リエゾンというルール、つまり「通常、単語の末尾の子音は発音しないが、次の単語が母音で始まり、さらに二単語の間に意味上の休止が挟まらない場合は、次単語の最初の母音に付された子音であるかのごとく発音する」という、言葉で説明すると全国旅行支援の補助額くらい[1]複雑な規則も、この「発音の快楽性」を考量すれば直観的に理解できる。

 « Il est étudiant »(彼は学生である)は「イル・エ・エテュディアン」ではなく「イレテテュディアン」と一続きに発音する。Ilとestを繋げることがアンシェヌマン(単語末尾の発音される子音と、次単語の最初の母音を繋げる)、estとétudiantを繋げることがリエゾンと呼ばれ相互に区別されるが、どちらも感覚としては同じである。
 つまり「子音と母音が隣接していれば合体させたい」、「母音が続くのは気持ち悪いから、普段読まない子音を読むことで母音を子音と合体させたい」という、畢竟するに子音と母音のカップルをもって発音の最小単位たらしめたいという欲求が、これらの規則を支えているのだ。

 「イル・エ」は « l »(子音字) と « é »(母音字)が連続しているので « lé » というように合体させたい。「エ・エテュディアン」は「エ」という母音が続くので締まりが悪いから、 « est » 末尾の « t » を復活させて半ば無理やり両単語の間に子音を作り出し、母音の連続を避けたい。かくのごとき、ほとんど生理的な欲求を論理的に捉えようとするから、リエゾンやアンシェヌマンなどの複雑な規則が要請されるのである。

 言語は慣習だ――というのは、言語学的には粗暴かもしれないが、私がフランス語と向き合うことで得た教訓である。慣習的・感覚的・無意識的に話され書かれる言語がまずあり、それを論理的な形式で正当化するため、事後的に文法がやってくる。言語ありきで文法があるのであって、文法ありきで言語があるのではない。エスペラント語などの人工言語を除いて、このことはあらゆる自然言語に当てはまる。

 言語は本来いい加減なのだ。いい加減なものをいい加減ではない仕方で把握しようとするから、文法は複雑になり、完璧な法則を作れない以上、例外は必ず生まれる。
しかし問題は、だからと言ってノールールで喋っても言いたいことは伝わらず、いい加減であるにも拘らず規則に従わなければコミュニケーションが不可能だという、言語というものの理不尽にある。

 「悪法も法なり」という諺を私は好まないが、こと言語に関してはその通りだと思う。

[1]宿泊・日帰り旅行の代金を20%割引するが宿泊の場合一人一泊5000円、日帰りの場合は3000円を上限とし、さらに地域内で使用可能なクーポンを一人一泊あたり平日は2000円、休日は1000円分付与する。誰が理解できようか。本当に頭の悪い奴が考えたに違いない。

* * *

 話が少し逸れてきたので戻すと、この「子音と母音のカップルをもって発音の最小単位(シラブル)とする」というフランス語の発想が、日本語と共通しているのだ。

 確かに日本語では「オオオカエチゼン」(※大岡越前)のような、フランス人にとって見事に気持ちの悪かろう母音連続――「オオオカ」が「オカ」にしか聞こえないらしい――が平然と罷り通っており、かかる点を顧みるに全く同一とは言い得ぬものの、少なくとも英語よりはかなり発想や生理感覚が似通っている。
 
 これがどういうことかと言うと、つまりカタカナ発音が耳障りではなく通じるのだ。
 不慣れな英語を話していて、せっかく適切な単語が思い浮かんだのにまったく伝わらなかったり、自分の発音を自分で聞いていてかっこ悪いと気持ちが挫けてしまったりするのは、往々にしてカタカナで音写された通りに、つまりは日本語の発想で発音してしまっているからである。
 だから「これは私の愛する人だ」と紹介したつもりが、相手には自分の恋人をゴム扱いしているように聞こえてしまう(loverとrubber)。

 言語体系が異なれば発音体系も異なり、日本語の「鼠」が「rat」の正確な翻訳たりえないのと同様――「鼠」はmouseとratの両方を含むので――音写はどれほど正確であっても近似にしかなりえず、特に英語と日本語の間ではこの音写の精度が低く止まる。そのためカタカナ発音は往々にして通じないし、通じても相手へ与えるストレスが大きくなる。
 
 これは当然フランス語と日本語との間でも同様だが、しかしこの二言語の間では音写の精度が英語と比べてかなり高い。だからカタカナ発音でも基本的に通じる。
 本場パリの街角においてフランス語ネイティブに対し「スール・レ・サロ・ヴィーヴ・ア・パリ」(Seuls les salauds vivent à Paris)と、完全にカタカナ読みで話しかけてもきちんと通じるし、きちんと殴られるだろう。
 
 私は栃木の田舎出身なので、最近まで「フェラガモ」のことをバター犬的な意味だと思い込んでいたのだが、流石にマクドナルドは車で50分行ったところにあるので知っている。
 このファストフードチェーンを、関東では「マック」、関西では「マクド」と略す。ここで関西風の「マクド」標記はなんとなく野暮ったい感じに、それに対して関東風の「マック」は垢ぬけた、より英語ネイティブに近いような、そんな風に聞こえるのではないだろうか。特に関東人にとっては。

 これは関東人が関西人に対して抱く偏見を含んでいるような気がするので、そのバイアスも加味して考えねばならぬが、いずれにせよ英語の「McDonald’s」は「マクドナルド」というより「マックダーナルズ」みたいに発音されるので、英語をベースとして略称を考案すれば「マック」の方がより自然だ。それに対して「マクド」という略称は日本語の「マクドナルド」をベースとしなければ生まれえない。

 ではフランス語ではなんと略すのかというと、「マクド」と略すのだ。なぜなら「McDonald’s」が「マックダーナルズ」ではなく「マクドナルド」と、ほぼ日本語通りに発音されるからである。

 ただし「ビックマック」のことを「ビックマクド」とは言わない。たぶん日本の関西でも言わない。
 言語はやはり理不尽だ。

* * *

 「McDonald’s」の発音問題はフランス語・英語・日本語の各言語の発音の近似性と距離が分かる好例ではないかと思う。

 先ほどこのチェーンの英語発音を「マックダーナルズ」というように音写したが、よりオリジナル発音の雰囲気を超カッコいいワードアートで可視化すると、

――みたいな按配になるのではなかろうか。明らかに「ダー」の部分に強勢が置かれ、末尾の「ナルズ」の部分はほとんど言われているような、いないような、存在感が希薄なままに止まる。「ズ」に至ってはほぼ聞こえない。

 しかしフランス的発音の音写は

でほぼ誤差がない。

 ここにあるのがアクセントの問題である。英語のアクセントは複雑で、単語中のどのシラブルに強勢が置かれているかは単語の種類に依存し、前だったり中間だったり後ろだったりする。だからこそ儂らが幼少のみぎりに行われていた大学センター試験では毎回アクセント問題が出題されていたのだ。問題たりうるほど難しいのである。
 
 しかしフランス語の場合、こういう問題は不可能だ。なぜなら日本語と同じく、強勢アクセントは極めて平板であり、発音される最後のシラブルに置けばよいだけだからである。
 この点でフランス語のアクセントは日本語、それも日本語のなかでも際立ってアクセントが平板な津軽あたりの方言と近しい。

 つまり津軽弁のアクセントで大阪弁の「マクド」を発すれば、ほぼ完璧なフランス語になるのである。

* * *

 このアクセント問題を教える他の例として、「フランス語はロックンロールのリズムに乗らない」という事実が挙げられる。

 ロックが他の音楽ジャンルに比べて持つ固有性は、やはりリズムのそれであると思う。これをうまく理論的に説明する術を持っていないのがもどかしいが、音楽史上でのロックンロールの発明とは、つまるところ一つの新たなリズム体系の発明であったのではないか。

 ロックの有名なミュージシャンと言えば、イギリスのレディオヘッド、アメリカのジャーニー、ドイツのラムシュタインなどが挙げられるが(偏見)、フランスのロックミュージシャンを挙げられるだろうか。全く知らない人が大半なのではないか。
 
 フランスにももちろんロックをやっているミュージシャンはいるし、HR/HMバンドだってある。有名なところでは……まあ、それはさて置いて、そうした少数のバンドやミュージシャンも大抵は英語で歌っている。
 これはフランスに限らず、ロックの世界的な名曲のほとんどが英語で歌われており、英語でなくともゲルマン語由来の言語(ドイツ語やスウェーデン語など)で歌われている。これはロックのリズムが英語ないしはゲルマン語の元来持つリズムに立脚して作られていることの証左ではなかろうか。

 それを踏まえてフランスの伝説的ミュージシャンであるジョニー・アリディの代表曲 « La musique que j’aime » を聞いていただきたい。

 長渕剛みたいなルックスは措くとして、注目していただきたいのがサビの « Toute la musique que j’aime » の部分だ(6:12あたりから連呼されるのでわかりやすい)。

 「「ク」が多くないか」とは思わなかっただろうか。日本語で音写すると「トゥットゥ・ラ・ミュージ・クク・ジェーム」と聞こえるが、「ク」が余計に一つ入っているような気がする。

 しかし、実は余計ではないのだ。 « musique » の « -que » と « que j’aime » の « que » が並んでいるので、「ク」(que)を二回言うのが正しい。
 それにもかかわらず、余計な「ク」が挟まれているように錯覚してしまうのは、これが英語の曲であった場合、「music」の「ク」(c)はほぼ省略され、「ミュージックジェーム」と休符に近い扱いをされ、シンコペーションの中で消えてしまうのが普通だからだ。

 英語は強勢アクセントを重視し、単語の末尾などの弱いシラブルはほとんど省略される。特に音楽、それもロックの場合はそれが顕著だ。
 しかしフランス語はすべてのシラブルを等しく丁寧に発音し、特に音楽においては一シラブルに一音符を乗せるクラシックな「非・字余りソングスタイル」が遵守されているので、それをロックのアメリカンなリズムに乗せようとすると――この曲はむしろブルースだが同じことだ――妙な響きになってしまうことがあるのである。

 当然ながらフランス語と発音やアクセントの感覚が似ている日本語でも同様の現象は見られ、日本語歌詞でロックやブルースのリズムを実現するために、吉田拓郎の字余りソングや桑田佳祐の英語風日本語など、様々な実験がなされ、母音と切り離された子音を見事に英語的な強勢でリズムに乗せる術を生み出した。それが今日のJ-POPの礎を形成している。

 この実験がひとまずの成功を収めたあたり、日本語はフランス語よりも柔軟性に富んでいるのかもしれない。そしてそれは外国語を始めとする外来文化への適応とローカライズに長けた、日本文化独特の在り方と関係しているのかもしれない。

 日本語ロックの集大成にして極北とも言える桑田佳祐の「路傍の家にて」と「ハートに無礼美人」を聞きながら今回はお別れしよう。それでは次回もセイムタイム・セイムチャンネルで。

片岡一竹
早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース後期博士課程。著書に『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』(誠信書房、2017)など。


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