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(死について)明日、逝くと分かっていれば 2

何だかんだと11月の末日。
前回のnoteをアップしてから一カ月が経つ。
その間、別に誇らしい事をしていたわけではないが、死んでいなかったのは確かだ。
しかし、また多くの著名人の訃報を聞いた。
KANさん、伊集院静さんの死は個人的に堪えた。
改めてご冥福をお祈りします。

著名人の死に関しては前回述べた通りだ。
明日、逝くと分かっていても何も出来ない。
今回は友人の死について。
今まで五人の友人を見送った。
とても悲しい現実だった。
当然だが、若く、将来を約束された優秀なやつもいた。
優秀でなくても、その若さに誰もが惜しんだ。
私は一様に悲しかった。
今でも彼たちの顔が浮かぶと悲しい。
五人とも病気で逝ってしまった。
重い病気だと知らされ、お見舞いにも行った。
入院はしていたけど、五人とも突然逝ってしまった。
家族では無いから危篤の知らせは無かった。
だから、私にとっては突然だった。
その中の一人だけ、お見舞いに行った翌日に逝ったやつがいた。
やせ細っていったけど、私はバカみたいに奇跡を信じていた。
だから前日は些細な無駄話だけをして病室を後にした。
もし、明日、逝くと分かっていれば私は何が出来ただろうか。
先月の自身の記事から、そんな事を思っていた。
結論から言うと、
何も出来ない。
何も出来ないどころか本人を目の前にしたら泣きじゃくり、迷惑しかない。
でも、これはどうなのか、迷っている事が一つだけある。
それは、感謝の言葉を述べることだ。
感謝の気持ちを伝えることは、どうなのか。
迷うのは、その行為は彼たちの生をその時点で諦めた事になるのではないのか。
まだ分からない。まだ迷う。
ただ、生きている間に感謝は伝えたかった。
一緒に遊んでくれて、ありがとう。
悩みを聞いてくれて、ありがとう。
楽しい思い出ばかりを、ありがとう。

たぶん、伝える行為は私のエゴなのだと思う。
明日から12月。
もう師走。一年が本当に早い。
今年は、もう少し死について考える。
最後に
辛気臭い記事にも関わらず、
最後まで読んでくれて、ありがとうございます。

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