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(死について)明日、逝くと分かっていれば 3

前々回は著名人のこと、前回は友人のことについて書いた。
今回は身内、家族のことで思いを巡らせてみたいと思う。

父は13年前、母は昨年に逝ってしまった。
二人とも病院で息を引き取る数日前から昏睡状態だった。
だから安いドラマのような別れの会話なんて出来なかった。
だからだろうか、今でも何だか漠然とした納得のいかない気持ちでいる。
前回の友人に関して述べたように感謝の気持ちを伝えたかった。
つくづく安いドラマが羨ましかった。

父の時にこんなことがあった。
個室に移動したから病室に泊まりたいと私は言った。
医者からは一人なら良いと許可が出た。
仕事の都合で、兄、私、そして母の順番で病室に泊まることになった。
母の番のその日の深夜、連絡があって急行し病室に入ると既に父は逝ってしまった後だった。
私に遅れること10分後に兄が到着してから死亡時刻の確認がされた。
それは母の思いやりだったのだろう。
葬儀社の迎えが来るまで、母は黙って病室の片付けをし、兄は父の顔を見ながら私に言った。
「お前、昨日は沢山オヤジと話をしたか?」と。
「耳は聴こえていることもあるらしい。だから話しかけたか」と。
衝撃だった。初めて知った。
私の夜の時、「お父ちゃん」と声は掛けたけど、思った事は声に出さなかった。
目の前の父は寝ていると思っていたし、何より明日逝くとは思いもしなかったし、バカみたいに奇跡を信じていたからだ。
そんな重要なこと、昨日に教えてくれよ!!
と、兄に怒りすら覚えた。

母の時はお見舞いすら出来ないコロナ期だった。
特別に病室に入れた時は既に昏睡状態だった。
父の時のことを思い出し、声に出して思いのたけを伝えた。
だけど、と思う。
はたして母の耳に届いていたのだろうか。
分からない。
先ほど、納得がいかないと書いたのは、勝手ながら私には心残りが多いからだろう。

明日、逝くと分かっていれば、私に何が出来ただろう。

やっぱり私には何も出来ない。
悲しみが前倒しになるだけだ。
嫌だ嫌だと、子供のようにダダをこねて泣きじゃくって、前倒しで目を腫らすだけだ。
本当に私は無力である。
虚しさだけが私を包む。
それでも、愛する者の死に対して何か意味を見出すのであれば、
何だろうかと考える。
漠然とだが、それは生きている意味を見出すことから始める事だと思う。
そして次は自身の事に思いを巡らすわけだが、
それはまた次回に。

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