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「フィクション」,「リアル」,「リアリティ」について─背景が語ることはなんなのだろうか0

社会学者の大澤真幸が、1995年以降の時代状況を「現実から逃避する」のではなく「現実へと逃避する」と分析している。彼が「現実」に「リアリティ」とルビをふっていることに注意したい。現実は普通、リアルの語訳に当てはまるのであって、リアリティではない。ここで逃避が向かっている「現実」とは、「現実以上に現実的なもの、現実の中の現実、「これこそまさに現実!」と見なしたくなるような現実である」。つまり、「リアル」以上に「リアリティ」を持つ何かであって、私たちが生きている世界より、もっと身体的にまたは直接的に現実らしさを感じる何かなのである。
「リアル」と「リアリティ」の関係について、少し考えてみよう。たとえば、道に迷ったらiPhoneのマップ機能を使うという選択肢が生まれるのは、実際の地図がリアリティを持っているからである。間違っていたらその地図は使い物にならない。しかし、若林幹夫は地図とは一つの思想であるという。
私たちが現代の世界地図に描かれた南極地図やエベレスト山を実際に見たことがあるのかと言えば、大抵の場合そうではあるまい。なるほど、私たちはそれらを書物を通じて知り、テレビや新聞を通じてそれらに関する情報を知り、なにより「正しい地図」を通じて知っているのだと主張するだろう。けれども、そうであるなら中世の人びともまた同じように、怪物や楽園を聖書その他の書物を通じて知り、旅人の口から聞き、なにより教会に伝えられた「正しい地図」によって知っているのだと主張することができる。
そこに書かれていることがすべて正しいかどうかは、この目や耳で確認できないが、それを「リアル」だと信じている。その点で、中世の地図も現代の地図も同じならば、何に「リアリティ」を感じるかによって「リアル」は変わるのではないか。そのように考えると、「リアル」だから「リアリティ」を感じるのではなく、「リアリティ」を感じるものが「リアル」である、という逆説が生じる。
このことを、大澤の指摘と重ね合わせれば、私たちを取り巻くさまざまな環境、たとえば選挙のような政治的現実より「リアリティ」を感じるほうを、私たちは、「リアル」だと認めていると言えるかもしれない。
『ねもは 003 特集 建築のメタリアル  現場は建築を更新するのか 岸祐』

大前提として、私たちの生きる世界は現実そのものではない「リアリティ」のあるもので満ちあふれている。

人間は世界の解像度に耐えられない。
だからこそ、私たちは「リアリティ」を醸成することによって、世界を認知している。現実の解像度の高さに、あるフィルターをかけることによって、自分たちの認知レベルにまで持ってくる、それが人間の営みなのではないか。


たとえば、この地図の話で言うと観光地においてあるガイドマップはまぎれもなく「フィクション」だ。
ガイドマップでは実際的な距離情報は排除され、目印だけが示される。しかし、それはその地域を解説するわかりやすいひとつのツールとして受け入れられている。
「フィクション」とは「リアリティ」を強化するためのひとつのツールなのである。


「フィクション」から考えられること

別の角度から見ると建築映画に気付くということは、物語や意味を中心に据えた従来の映画の観方、語り方から自由になることだ。「物語」でもなければ「意味」でもないような、まったく別の観方・語り方を発見することだ。そしてもしも映画が「物語」や「意味」から解放されるとすれば、それは同時に建築サイドにとっては、「社会性」や「共同体」や「プログラム」といったような「意味」を中心に据えた従来の建築の捉え方・語り方から自由になることである。極端に言えば、人間にのみ奉仕する「有用性」という束縛から建築が離脱する捉え方・語り方を獲得することだ。…キャメラが建築を即物的に、唯物論的に、フィルムの上に取り入れてしまうからである。….この事態は要するに、建築的にも映画的にも、とりあえず「台無し」ということである。したがって台無しになったという自覚なくして建築映画は始まらない。台無し、それは基盤なき時代における基盤であり、それがすべての始まりだ。
『建築映画 マテリアル・サスペンス 鈴木了二』

近年の建築はワークショップやパブリックコメント,参加型の設計法などますます社会性を高めている。そうでなくとも、建築とは人が住まうものであり、集まるものであり、人間社会に何らかの形で奉仕するものだ。

しかし、建築は社会性を帯びる前にひとつの物質でもある。

鈴木了二が語る「建築映画」の重要性は、映画ではそうした建築にまとわりついた「社会性」をぬぐい去り、建築を即物的な視点で見られることにあるという、建築の見方に新たな視点を与えることこそにある。

また、アニメのような創作物を考えると、逆に建築は創作者の解釈を強調する形で現れる(例えば『傷物語』では「山梨文化会館」が増築される前の姿、それも中央には大木が備えられている)。それはある意味では、建築に秘められた別の可能性を提示することにも繋がると言えるのではないのだろうか。それもまた、建築の見方に新たな視点を与える。
ここでは、建築はいくつもの回路に接続する入口となっている。


建築と「フィクション」

東氏の明確な整理(『ゲーム的リアリズムの誕生』)に、本論ではあらためて「小説」の側から応接することを試みる。ひとつには、先の論述ではもっぱら「感情移入」という要素がポイントになっているのだが、この点を敢えてカッコに括ってみると、「メタフィクション」としての「小説」のあり方に、また違った照明が当てられるのではないかと思われるからである。「感情移入」すなわち「登場人物(の誰か)」への「共感」と、それが駆動する「物語」への「没入」は、筆者の考えでは「ゲーム」というメディア(テクノロジー)に備わった(コンシューマー対策的な)属性であり、それゆえに重大な評価基準であるとも言えるが、「小説」については、必ずしもそれと同じ次元で「感情移入」をはかることは出来ない。そのような観点は、いわば「ゲームのように小説を読む」ことによって立ち上がってくるものである。「小説」が「読者」に行うアプローチは、当然のことながら「ゲーム」が「プレイヤー」にするものとは異なった側面を持っている。つまり「小説」の「メタフィクション」的な方法論には、じつは「異化効果」と「感情移入」のいずれにも帰着しない第三の(あるいはそれ以上の)効果が内在している。そしてむしろそちらの方が本質的ではないかと思うのである。
もうひとつ、先ほどとは向きが反対になるが、東氏が「ゲーム的リアリズム」と呼んだ特性が、「ノベルゲーム」や「ゲームのような小説」にのみ見出されるわけではないということも示していきたい。「小説」と「ゲーム」の違いとは、紙かディスプレイか、テキストオンリーか+オーディオ=ヴィジュアルか、アナログかデジタルか、などといったことだけではなく、むしろそれ以上に、両者を取り巻く商業的/流通的なインフラ、それぞれのマーケットを支える諸々のコンテクストの違いである。『ゲーム的リアリズムの誕生』においては東氏は、「作品」にかんする分析に留まらず、そうした諸条件を縦横に巻き込んだ形で成される自らの批評的態度を「環境分析」と名付けている。「環境分析的な読解は、作家がその物語に意図的に込めた主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を作品に呼び込んでくると考える。」
だが、これも敢えてということになろうが、本論では「環境分析」から「作品分析」へと意図的に退行することによって、ふたたび見えてくる何かを探してみたい。「作品外的な事実」の束としての「環境」が「作品」をさまざまに規定していることは確かだが、だからこそ、その事実を踏まえた上で、たとえば「メタフィクション」と呼ばれる「小説」群の「作品内的な機構」に視線を注ぎ直すことによって、そこに「ゲーム的リアリズム」の起源を見出すことも不可能ではないと思われるからである。
『あなたは今、この文章を読んでいる。─パラフィクションの誕生  佐々木敦』

建築はフィクションを通じて語られる。同時にフィクションに影響を与えられることもあるだろう。

その語りもおそらくは建築の新しい可能性を模索するために導入される。

たとえば、磯崎新の「都市破壊業KK」と「流言都市」は文芸的なフィクションの手法を取り入れている。
『あなたは今、この文章を読んでいる。─パラフィクションの誕生では、「ゲーム」の手法を導入することによって新しいフィクションのあり方が模索されている。建築の語り方もそこから学ぶことがあるのではないか。


「フィクション」に見られる建築・都市の描かれ方から学ぶ。
「背景」から建築・都市の描かれ方を学ぶ。
それが本マガジンの目指すところである。

建築や都市は人間のつくるものだが、同時に人間の認知を超えたものでもある。そうした対象を捉える時に「フィクション」はヒントを与えてくれる、そう考えている。

私が面白いと思ったものをどう位置付けるか、そのことを意識して私が生きるために本マガジンは継続される。本マガジンは私の外部記憶装置である。

あなたはどんな「フィクション」を受容して生きていますか?
あなたの受容する「フィクション」はただのエンターテイメントではなく、あなたの生に大きな影響を与えます。であるならば、私たちは「フィクション」について考えなければいけないのかもしれません。
私は「建築」を生業としているからその観点から「フィクション」を考えようと思います。しかし、あなたの視線からは全く別のものに見えるかもしれません。

私は、あなたと私が見ているものは全然違う、という当たり前の事実を意識上にあげるために本マガジンを書いていきたいと思います。

願わくば、あなたにとって「フィクション」がなんなのかも知りたいところです。


サポートして頂いたものは書籍購入などにあて,学びをアウトプットしていきたいと思います!