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私たちは「思ったより」も「無知」である─『知ってるつもり』

なんでもは知らないわよ。知ってることだけ。

と言ったのはどこぞの(元)メガネ美少女だったか.
彼女は自分にどれくらい知識があるかわかった上で,自らは全知ではないと語る.

一方,私たち人類は自分が「何を知らないかすら知らない」ばっかりに,ある意見に流され,簡単に,浅はかな判断をしてしまう.
そんな人間の愚かしい姿を明らかにするのが本書『知ってるつもり 無知の科学』である.

水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない……私たちがこうした「知識の錯覚」に陥りがちな理由と解決策を認知科学者コンビが語る。ハラリ、サンスティーン、ピンカーが激賞。

私たちは「思ったより」も「無知」である

あなたは水洗トイレがどのような原理で動いているか,と聞かれて正確に答えることができるだろうか.
もちろん答えられる人もいるだろうが,多くの人びとはその正確な機構については答えることはできないだろう.

私たちの生活は非常に便利になっている.一方で,私たちは私たちの生活を便利にしているものたちについて(ほとんど)その仕組みや原理を答えることはできない.私たちは自分に関わるあらゆる事柄について抽象的な理解のまま過ごしている.

本書では,そうした私たち人類について,私たちは自分の知識について「過大評価」している,と語られている.私たちは自分たちの身の回りのものがどう動いているのか知らない,と思っているのではなく,「知っている」と思い込んでいるのだ.

例えば,本書で紹介されている例のひとつとして,
「ファスナーはどのような仕組みで動くのか,詳細に説明してください」
と問われる.
多くの人はその前に問われた「あなたはファスナーの仕組みをどれだけ理解しているか七段階で評価してください」というアンケートに高評価を与えるが,実際に説明を求められると説明することはできない.
そして,再度「あなたはファスナーの仕組みをどれだけ理解しているか七段階で評価してください」と問うと,その評価は低くなる.

つまり,私たちは「何を知らないかを正確に理解していない」のだ.
私たちはそれについて説明できないことを知ることで初めてそれについて知らない,ということを知る.


私たちは度々,誤解する

私たちは物事を因果的推論によって理解しようとする.人間は地球上の生き物の中でもっとも因果論的思考に優れた生物である.
世界にはある原因やメカニズムがあり,それを踏まえ私たちは未来や結果を想像する.他者と会話するときすら因果論的推論を利用して,他者がどう思うかを想像しながら会話する.

因果論的推論は人間がここまで成長するに必要な能力であった.一方で,私たちは因果論的メカニズムについてもあまり理解していない.
本書では,因果論的メカニズムにおいて「直感型」と「熟慮型」が紹介されている.下記の設問について考えてみてほしい.

「バットとボールで合計1ドル10セントである.バットはボールより1ドル高い.ボールはいくらか.」

あなたはいくらと考えただろうか.
おそらく少なくない人が10ドルと「直感」的に考えたのではないだろうか.残念だが,それは間違いだ.

ただここから,それを正と考えるか,誤と考えるかによってその人が自身の「直感」的な思考についてどれくらい考えているかということが分かる.

本書によれば,「直感」的な回答について一旦「熟慮」する人を「内省的」と呼ぶ.「内省的」な人はリスクを取ることに前向きであり,衝動的ではない.ミルクチョコレートよりダークチョコレートを好む,そして神を信じない.

「直感」はある場合では適当で大雑把な回答を生む.しかし,それを熟慮しないままにアウトプットする人たちが多く存在する.
そこから「誤解」が生まれていく.


「無知」を知ろう

本書はこのように人間に認知システムとその錯誤をひとつひとつ丁寧に解き明かしていく.
私たちは脳の中にだけ知識を蓄えるのではなくむしろ物理環境とインタラクティブに作用することで思考する,私たちは他者と知識を共有し物事を達成していく...etc


人間は思ったより「無知」だ.だから,私たちは周りにあるありとあらゆるものを使い思考を補う.しかし,「無知」ということを理解できているかというとそうではない.

だからこそ,人間は簡単に,間違った,浅はかな思想に染まってしまうし,人を傷つけてしまう.「無知」は時として,悲劇を生む.

しかしながら,複雑な世界に対して人間の脳ではあらゆることに対して知っている,つまり「全知」になることはできない.その時に,私たちの「無知」は役立ってきた.私たちは「知らないこと」を武器に宇宙へ飛び出したし,南極にも繰り出したし,テクノロジーの発明など,ありとあらゆることへ挑戦してきた.


「無知」であることは恥ずかしいことではない.しかし,「無知であることを知らない」ことを知ることで私たちはより思考の精度を高めることができる.

なんでもは知らないわよ。知ってることだけ。

つまるところ聡明だとされている彼女は,自分が何を知らないかを知っているからなのだろう.
スタートは「何を知らないかを知る」ことなのである.

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