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さよなら,わたし─『ハーモニー』

『ハーモニー』4度目くらいの再読.相変わらず素晴らしい作品である.

21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。
医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、
見せかけの優しさや倫理が横溢する"ユートピア"。
そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――
それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはすの少女の影を見る――
『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。

WatchMeと呼ばれる「医療分子」による体内の恒常的監視システムが開発された国民総健康社会,この社会ではだれもが互いを思いやり,慈しみ合う.

酒やタバコやカフェインなどの刺激物は制限され,人びとはライフスタイルデザイナーによって設計された健康的な生活習慣,食生活を過ごす.また人びとは社会評価を提示することを義務づけられ,この世界では「プライバシー」という概念はなくなっている(厳密に言えば,「プライバシー」という言葉は淫らな意味合いを持つ言葉として残っている)
建物は目に刺激が無いように淡いピンクやイエローなどの色で画一的な団地のようなものが並んでいる.

「派手な色彩の建築はまかりならん、と誰が法律で定めた訳でもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、何の個性もなく、それ故に心乱すこともない街だった…。」

「国」や「企業」という単位は解体され「生府」と呼ばれる医療合意共同体により,この社会は資本主義経済を抜け出し,医療経済を核にした福祉厚生社会が実現している.
「生命主義」と呼ばれるお題目により,人はひとりひとりが公共財産とされ,人びとは健康を第一とする価値観を形成している.

「真綿で首を絞めるような世界。」と主人公が形容するこの社会ははたして全く非現実的なものであるのか?
とてもそうとは思えないと読む度に強く感じる.

かつて大量に書かれたユートピア(ディストピア)小説の中でも,本作はジョージ・オーウェル『一九八四年』へのオマージュを特に感じる(作中に出てくる「二分間憎悪」など、ほとんどパロディにも近い扱いにようにも思えるが).

〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する超全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。しかし彼は、以前より完璧な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと出会ったことを契機に、伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが……。

『一九八四年』は,「ビッグブラザー」と呼ばれる謎の監視者(支配者)によって人びとが恒常的に監視されている社会を描いたディストピア小説である.
そこでは「ビッグブラザー」という「大きな物語」が提示されてるが故に,人びとにとっての敵というものが簡単にイメージできた(とは言うものの作中に「ビッグブラザー」は一度として現れない).また,作中には人類の敵としてエマニュエル・ゴールドスタインという人物も登場している.このある種わかりやすいモチーフは現実世界での全体主義などのメタファーとなっている.
かつての世界ではこのように現代の世界よりは多少は分かりやすい構図が存在していた.しかし,現代でディストピアやユートピアを描こうとしたときかつてのような構図を簡単には描くことができなくなってしまった.
それは,現代において「敵」なるものはどこに存在しているのかという問題はかつてに比べ非常に複雑な問題となってしまっているからだ.
『ハーモニー』でも「敵」はどこにいるのかという葛藤が描かれている.

「昔は王様がいた。王様をやっつけて、みんなはセカイを少し変えようとした。王様をやっつけたのは市民。要するにみんな。とはいうけれど、みんなで政治をやるには情報の流れが悪すぎる時代だったから、政府というのができて、今度はムカついたら政府をやっつければよかった」
「でもいまは違う。政府の後にできた生府社会には、やっつける人間は存在しない。みんな幸せで、みんなが統治してて、その統治単位はあまりにも細切れだから」
「生府。正確に言うところの医療合意共同体(中略)生府を攻撃しよう、っていったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩き付ける国会議事堂もありゃしない」

こんなわけで,『ハーモニー』では「敵」として採択されるのは「わたし」である.

WatchMeによって体内から恒常的に監視されている「わたし」
社会から公共財産として丁重に扱われる「わたし」


だから,「わたし」を傷つけることによって優しさと倫理に満ちた社会を攻撃する.

一方,現実世界での私たちの「敵」はどこにいるだろうか.ちょっと想像もつかない(というよりはありすぎて目に見えないのかもしれない).
どこかで聞いた話だが,国会議員が度々非難されるのは,国会議員がある種人びとの不満を受ける依り代のような存在と言えるだからであるという.
そうであるならば,もし国会議員が匿名的な見えない状態になってしまったら私たちはどうなってしまうのだろうか.

私たちは誰かを批判・非難したがっている.
案外,私たちはギリギリのラインで生きてるのかもしれない.

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