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また素晴らしい女性監督爆誕っ! 映画『ロスト・ドーター』ネタバレあり ~映画イラスト~

ロスト・ドーター2021年製作の映画)E STATA LA MANO DI DIO/The Lost Daughter
監督 マギー・ギレンホール
脚本 マギー・ギレンホール
出演者 オリヴィア・コールマン ジェシー・バックリー ダコタ・ジョンソン エド・ハリス ピーター・サースガード

四コマ映画『ロスト・ドーター』  

http://4koma-eiga.jp/fourcell2/entry_detail.htm?id=2810

やっとレダは「私は…」と言えたんですね。

画像1

http://4koma-eiga.jp/fourcell2/entry_detail.htm?id=2810


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また素晴らしい女性監督爆誕っ!

『クレイジー・ハート』(2009)でアカデミー助演女優賞候補になっている女優のマギー・ギレンホール。
『ダークナイト』(2008)でのレイチェル役が一番有名でしょうか。

弟がジェイク・ギレンホールで、夫はピーター・サースガード

女優としてもオピニオンリーダーとしても素敵な存在感を放つ彼女の初監督・初脚本作品がこの『ロスト・ドーター』!

素晴らしい女性監督がまた映画界に降臨してきましたよ。ありがとう!


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面白いっっ!!大好きっ。


映画やドラマに出てくる子供たちって
基本的には聞き分けがいいし
大人たちの邪魔になる時は「部屋で遊んできなさい」と言われたら
スッと部屋に消えていく。

作劇的に「子育てって大変」ってのを表したいときだけ泣き喚いたりワガママ言ったりするけど
そのパートが終わると、素晴らしく聞き分けの良い子供に戻る。

僕は子育てしたこともこの先の予定もないので予想でしかないですが、
子供ってこんなんじゃないだろうなと思いながら上記のようなものを見ていました。


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今作の子供たちは大変。。。。エンドレスに水かけてきたりする。。。

どうやって撮影したんだろ。。
母親役の女優さんたちはめっちゃくちゃ嫌がってるのに、あの子たちは絶対やめないしどんどん悲しくなっていく。

女優さんたちと良い関係が築けているからこそだろうし
撮影前後にメンタルケアが行われてるんだと思いますけど。

なかなかスリリングなシーンの連続でした。。
でもあれがきっと日常なんですよね。。

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言わないことでのミステリー。だって言えないんだもん。

主人公レダがどういう過去を持った人物なのかが執拗に〝語られない〟

彼女の回想シーンでじわじわと語られるんだけど、なかなか核心に近づかない。

彼女のラストのセリフでやっっっと彼女の姿が見える。
それが言えた彼女自身も傷を負いつつも(ホントの傷も…)ちょっとスッキリしたような空気。

もっと早く誰かに言えて、
分担できるような仕組みや雰囲気があったならば。


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〝なかなか語られない〟ってのがサスペンス性に繋がっているんだけど
それは映画としての楽しみだけのためではない。

言えないんですよね。
女性は。
彼女のラストのセリフを。

女性ならば母親ならばそもそも備わっているとされている圧力が凄すぎて、表に出せない。
めちゃくちゃ非難されたり冷たい目で見られるから。

レダが自分についてさくっと語れたのならこの映画は15分で終わってる。
でも言えないから。言わせてもらえないから。2時間たっぷりやる。

映画のテーマと映画の語り方が合致している上に、サスペンス映画としても上級。
最高。


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三人の女優たちの素晴らしい演技アンサンブル(演技バトルではない)


「正座して観るべき?」って思うくらいの
オリビア・コールマン、ジェシー・バックリー、ダコタ・ジョンソンら演技激ウマ人間たちの素晴らしいアクト。

オリビア・コールマンとジェシー・バックリーが激素晴らしいのは知っていたけど
ダコタ・ジョンソンがここまで地獄のように素晴らしい演技をする人だとは思ってませんでした。


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男性がよく出てくる映画(なのに…)

「女性脚本、女性監督ならでは」という言葉もなかなか使うのに覚悟が必要ですが、
女性脚本、女性監督作に多く見られる良い特徴は、多様な女性キャラが出てくること。

女性キャラが母か娼婦の2パターンしかない映画も多くある中、さまざまな女性キャラクターが活躍するのが女性が作った映画に期待できる点だし、実際それが結実している映画は多い。

ただ今回は出てくる人物が少ないし、
オリヴィア・コールマンジェシー・バックリーはレダという一人の人物だし、
ダコタ・ジョンソンもレダが過去の自分を投影して半分くらいは自分として見ている人物。(つまり女優は3人いるけど、実際は1.5人くらい)


で、
今作では男性キャラの方が人数多いし、キャラクターが豊かでしたね。
ここがほんとさすが。マギー・ギレンホール監督!

女性たちが主役の映画の場合、逆に男たちの存在感が異様になかったり男たちを薄く描くことで、
「男からの抑圧や解放」を表したりするんですが、
この映画の場合は男の方が人数が多いしキャラの描き込みが多い。

つまり男そのものが薄っぺらかったりいなくていいものなわけではない。
男は存在している。ちゃんと一人一人キャラクターがある。
なのに、それなのに、子育ての現場にはことごとく男はいない

男は画面に何回も映ってくるのに、子育てで死ぬ思いをしているのは女性ばかり。


っていうことの表現なのでしょうね。



***

ネタバレは以下に。



断片的に入ってくる過去の映像(幼い娘と自分)が不穏でしたね。。。
結局この二人の娘はどうなってしまったのか、それがずっと気になるし怖い。。

レダが娘のどちらか(もしくは両方を)死なせてしまったのかと悪い想像をしながら見てましたが。

母親業から降りたレダは男に走って家を出てしまったんですね。
戻ったのは数年後。
その罪の話でした。

「私、母性がないの」とレダが言えていればこの映画はもっと早く終わっていた。

でも、母親が「母性がない」なんて言えないよね。
悪者や欠陥扱いされそうだし、〝逃げ〟だと思われそう。

女性ってだけで「子ども好きじゃない」って言いにくいだろうに(男はすんなり言える)、実際に出産した母親がまさか「母性がない」なんて言えないし、言ったところで誰も温かく対応なんてしてくれない。

だから言えなかった。

だから、この映画は結果的にミステリーになった。
「言えない」っていう問題自体がこの映画の仕組みになっているわけだから、こりゃもう素晴らしいミステリーでしょうよ!

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母親なら母性が湧いて当然。女性なら子供が好きで当然。

「母親は…」「女性は…」と言われ続けていた(おそらく自分も自分に問うてきた)けど、

やっとレダは「私は…」と言えたんですね。


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導入。
ニーナに腹を刺されたレダ。
左腹部の白い服が血で滲んでいる。波打ち際で倒れる。

そして時間が数日戻り、レダが腹から血を流し倒れるまでの流れが語られる。

ラスト。
レダはニーナに人形を返す。「私が盗んだの。」

ニーナ「どうしてこんなことを?その人形がなくてみんな苦しんだのに」
レダ「私、母性がないの」
ニーナ「最低」
レダ「謝るわ」
ニーナ「あなたは病気よ!」とレダは(帽子を髪に留める)ピンでレダの腹を刺す。

ピンと言っても10センチくらいの長さはありそうなので、腸とか胃とかに届いているとしたらなかなかの致命傷になりうるのでは。

その夜、レダは荷物をまとめて自分で車運転して空港を目指す。
しかし途中で気を失い、浜辺近くの路肩に乗り上げる。

車を降り、海に向かって浜辺を歩く。波打ち際で気を失うかのように倒れる。

そのまま朝。娘たちと幸せだった頃の思い出が蘇る。

娘(ビアンカ)に電話をかける。

ビアンカ「ママなの?マーサ、ママよ」(明るい声で)

レダ「マーサ(娘?)もいるの?」

ビアンカ「電話がないから死んだかと思った!」(明るい声で)

レダ「死んだ?まだ生きてるわ」

ビアンカとマーサがレダに向かって話を続ける。

レダの手元にはなぜかオレンジが。レダはその皮を蛇のように長く剥き始める。

レダ「話し続けて」ビアンカとマーサは元気に喋っている。レダは幸せそうにそれを聴きながら皮を剥く。

それは娘たちが幼かった頃の幸せだった3人の構造そのまま。

レダはオレンジの皮を剥く。

幼い娘「切れないように蛇にして」

切れないように長く長く。

終わり。


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大人になった(おそらく20代半ば)ビアンカとマーサの無邪気な会話を聞く限りは、ビアンカとマーサは母親を強く憎んでいる感じはしない。

レダ自身が強くトラウマを抱えて過去に苦しんでいるのに比べて、娘二人はあっけらかんと健やかに育っている感じがする。

「母親が数年居なかった」という幼少期を過ごした娘たちだったけど、おそらくそれ以降の時間が3人の関係を修復しあたたかいものにしたのでしょう。

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レダが腹を刺されたのは、おそらく「罰」。

自分には母性がないことを誰かに知ってもらいたかった。
誰かに話すことで、ありのままの自分になりたかった。

自分でも罪の意識があるし、
これを言ってしまったら酷い扱いを受けることはわかっているけど、
罰を受けるってことはこれを誰かに言えたってことだし、
罰を一回受ければ私は過去のトラウマから解放されるのかも知れない。

腹刺されたんだから病院行った方がいいし、普通行きますよ。

腹刺されて血出たままにするってことは、罰(痛み)を受けていたかったんでしょうね。

そして、生命の誕生の地、海にたどり着くレダ。

そこで倒れる。
この罪が許されるのかどうか、この先も生きていていいのかどうかを神に問うたのかどうか知りませんが、

レダは幸せだった時の幼い娘たちとの思い出と共に目を覚まします。

そして娘に電話をかける。
するとすごく明るく元気な声で「死んだのかと思ったー」なんてとてもリアルな若者らしい憎まれ口をたたいてくるほどに、健やかな娘たちの声が聞こえる。

母性がない私でも二人の娘たちはこんなに素晴らしい人間に育ってくれてるじゃないか、と。

私の罪は神に許されたんだろうか、自分で許せたんだろうか、娘たちは許してくれてるんだろうか、世間はどうだろうか。

そもそも母性がないこと自体、罪だったのだろうか。

誰が罪だと言ったのだろうか。

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