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ゴッホの点描とダイバーシティー -ぼくらはどこまでいっても日本人-

三軒茶屋での話

友人と三軒茶屋でご飯を食べたときのことだ。そのお店はカウンター前で割烹着を着た渋いお兄さんが丁寧にお魚を捌いてくれるような、品のいい和食屋さんだった。お刺し身や天ぷらに加えて、センスよく選ばれた日本酒に舌鼓を打つ。おとな〜な空間ではあるけれど、それでいて高級すぎるわけでもないといったところだ。

年末の忘年会シーズンだった。その割にはお店はこじんまりとしていて、1フロアで20人も入ればいいような店内にお客さんの数はちらほらいるという程度。社会人のグラフィックデザインの学校で知り合った飲み仲間と、この日もプチ忘年会ということで集まったわけだ。

3人全員席に着いたところで、これまたテキパキとビールとツマミを注文する。「いや〜今年もおつかれさまでしたね!」なんてお決まりの会話に花が咲く。そんな話をぺちゃくちゃとしていたところ、坊主頭が映える割烹着を来た男の子がビールを持ってきてくれた。まだ高校生ぐらいなんじゃないかなという若さ。例えて言うならば、『渡る世間は鬼ばかり』に出ていた少年時代のえなりかずきみたいな(今でもそんな顔変わっていないけれども)。慣れない敬語を使いながら、おぼつかない手元から琥珀色のうまそうなビールをテーブルの上に順次置いてくれた。ぼくらは取り立ててなにか反応するでもなく、ぺちゃくちゃと年末的な話を続けていた。

その後である。怒声。

「おんめぇよぉぉぉ!お客すぁんがしゃべってるときぃ差し込むアホがいるかってんだよぉぉっ!」

見るとひと仕事終えたその少年が棒立ちになって、カウンター腰のお兄さんになにやらドヤされている。こちらも坊主。鋭く睨みをきかせている。この男40代後半といったところだろうか。ザ・江戸っ子という出で立ち&話し方。穴子の寿司を握ってほしいような、白い割烹着がこれまた似合うお兄さん。

この江戸っ子お兄さんは「ビールを出すとき、もっといいタイミングがあったはずよ」ということを言いたかったんだと思う。ただそのフィードバックの仕方があまりに強烈だったから、その場にいた客が全員箸を止めてカウンターの方へ一斉に視線を注いだ。ただその変な緊張感ある瞬間は、若坊主の「はい、すんませんでしたっっっ!!」という威勢のいい返事でぴしゃっと締めくくられた。その後は何事もなかったかのように坊主二人は仕事に戻り、我々も年末的な話を再開した。

シアトルでの話

ところ変わってシアトルでの話。日本人の同僚の方とシアトルのダウンタウンにあるレストランで集まってご飯を食べることとなった。シーフードが美味しいちょっとしたチェーン店。海が見える素敵な立地に位置したファミリーレストランといったところだった。その同僚たちとは日本支社にて同じチームにいたので顔馴染みではあった。ただ、ぼくがアメリカに来て会うのは初だったわけなので「いや〜アメリカ生活のここがあ〜で〜」なんて話で盛り上がった。そんな飲みの席での話。

カラフルでいてシマシマの制服をきたボーイの男の子がちょくちょく我々のテーブルのところにやってきては、"How's everything going?"といったお決まりのフレーズを聞いてくる (ここでは料理の味はどう?追加でなんか頼む?といった意味)。20代半ばといったところだろうか。なよっとしたポッチャリ白人男子。頑張ってスマイルを作ろうとしているのだろうが、口角がぜんぜん上がっていないので、逆に無表情が引き立つ。この男、気を遣ってちょくちょく様子を伺いに来てくれたのだ。…いや、ちょくちょくどころではない。10分に一回ぐらい来るのだ。最初はこちらも適当に会釈しながら「あざっす!」みたいな返事をしていたわけだけど、あまりにしつこく来るものだから、まあなんというかゲンナリした。一緒にご飯を食べていた同僚の方も「あいつ、しつこいよね?笑」と痺れを切らして漏らしたものだから、ぼくも思わず笑ってしまった。

自分がいる場所

これを書いている今、ぼくは「なんで三軒茶屋のお兄さんはあんなに怒っていたのだろう?」ということと「なんであのボーイの子はあんなにもたくさん"How's everything going?"と聞かなくてはいけなかったのだろうか」?ということをほぼ同時に考えている。前者は「それとなく察して気を遣え」という日本的なカルチャーを象徴しているような気がするし、後者は「言葉ではっきりとコミュニケーションを取ることこそが親切の証」といったアメリカ的な考え方を表しているように思える。両者に共通して透けて見えるのは、これらの行動は"個人の性格"や"人となり"といったものを遥かに超えたところで表出されているのではないだろうか?ということなのだ。それぞれの男が、三軒茶屋・シアトルに住む個人として、というよりは日本・アメリカのメタファーとして「このほうが正しいでしょ?」と潜在的に理解していることをそれぞれのやり方で表現しているような。どこかの誰かに習ったこととして。もしくは習わずとも"常識"として存在するものとして。

この三軒茶屋のお兄さんが言わんとしていたことをぼくはとてもよく理解できる。やっぱり「空気を壊しちゃいけない」といったモラルって日本のどこのコミュニティーでも存在するものだと思う。一方で、シアトルのボーイのしつこいアクションについては正直ぜんぜん理解できない。「なんでそこまではっきりとした口調で機嫌を伺うのだろうか」とぼくなんかは思ってしまう。「その行為ってそんなに必要かい?」って思ってしまうのだ。

そして、三軒茶屋のお兄さん坊主の言わんとしていることが"感覚で理解できる"ことについてもう少し付け加えたいことがある。それは自分が、"これまで何千年と生きてきた日本人の先祖の上にぽつんと石を積み上げてる存在"であることを認識せざるを得ないということだ。なぜなら"感覚で理解できる"というのはそういうことなんじゃないかと思うからだ。物心ついた頃から、その感覚を知っているという具合で。

なんというか、この理解ができるということに (または理解ができないということに) 国の壁というものをはっきりと感じてしまうのはぼくだけだろうか。ぼくはこうした違いを判別する際に、自分が日本人であるということを強く意識せざるを得ないのだ。言うなれば、ポジティブ・ネガティブな感情のいずれかではなく、事実として受け止めるという感じ。

文化の壁は超えられるか?

アメリカで生活していく中で、またはグローバルなテックの会社で働いてく日々の中で、それこそ本当に多種多様なバックグラウンドの人と時間をともにするわけだ。時間の感覚や思いやりに対する考え方で、「いやーぼくはそういう風には考えられないなー」と思う場面はやっぱりある。その小さくない文化の壁が立ちはだかるときに、"文化の壁を超える"ってみんな簡単にいうけれど、そう簡単には出来ないんじゃないかと思うこともしばしば。心の深いところで理解しあうということが出来なさそうだなと思った際には、その交われなさに言いようのない孤独を覚えることもある。

この感覚って長くアメリカに住むことで変わっていく部分ももちろんあると思う。慣れていって許容できる部分がたくさん出てくるという話だ。ただ、はっきり言って「100%アメリカ人と同じ感覚になる」ということはないんじゃないかと思うのだ。それこそアメリカに10年・20年と住んだ人にお会いして話した時に、これを強く思った。みんなどこまで海外に長く住んでも、その社会に馴染んでも、日本人っぽいところはどうやったってあるように見える(もちろんそれでぜんぜんいいのだけど)。

ぼくがこれから何年もアメリカに生きたところで、整形をしまくって外人の見てくれになったところで(実際にそんなことはまったくしないわけだけれど)、骨の髄から日本人であるということには変わりはないのだろうなーと思う。日本で生きた先祖が何世代にも渡って積み上げたその先にいる存在なのだから、当たり前といえば当たり前だ。ただ、こういう事実を海外に生きていると強く受け止めざるを得ない場面が出てくるということなのだ。

多様性 (ダイバーシティー)の話

そんなこんなをアメリカに来てからグズグズと考えてきたのだけど、ぼくなりにひねり出した答えというものがある。それは「自分自身のルーツを受け入れ、それと同じように他人もルーツごと引っくるめて受け入れればいいんじゃない?」ということだった。別の言い方をすれば、「文化の壁はぜんぜん越えなくていいよん」ということである。

繰り返しになっちゃうけど、文化の壁が厄介なのはやっぱり個人の性格とかそういったものを超えたレベルで存在することがよくあることだと思う。そんな大きな壁に向かって、個人の努力だけで立ち向かおうとしてもムリがあるよねって話だ。じゃあ壁が超えられないということであればどうすればいいか。それはもうそんな違いを全部引っくるめて受け入れるってことなんじゃないかと思うのだ。

ゴッホなんかが多用した点描という絵の描き方がある。点描というのは、絵の具をパレット上で混ぜ合わせるのではなく、それぞれの絵の具をポツポツと点を打つようにして描き込む。完成した絵をみると、それぞれの色は見る人の目の中で混じり合い、鮮やかな色彩として立ち上がるというものだ。ひまわりの絵を例に出すまでもなく、ゴッホのあのカラフルで素敵な絵たちも、じっくり目をこらして見れば赤・青・黄色というそれぞれの色がキャンパス上で独立して存在している。

なにが言いたいか。ぼくもあなたも、赤・青・黄色のどれかであればいいんじゃないの?ということなのだ。みんな違った色を生まれながらに持っているものだと思う。赤は青に、青は黄色にはなれない。「えーあたしピンクがよかったー」とかなんとかいっても真っ青色なやつは、もうね、どこまでいっても青なんだよな。その自分の色というものを受け止めることから、すべては始まる気がする。

今アメリカ人、インド人、中国人、そして日本人を含むその他いろんな国からきた人間と仕事をしているわけなんだけれども。ぼくが今Amazonでやっていることは、それはもうゴッホのひまわりの絵を描くようなことなんじゃないかと思ったりする。国籍とかそれにまつわるバックグラウンドとか (もっというとエンジニアリングやデザインといった専門性も込みで)、それらを全部ひっくるめてみんな違った色をそれぞれ持っている。そして職場というキャンパスの上で割り当てられた部分で、自分の色ではっきりと点を打つことが仕事をするということなんだと思う。それらの点が一つのキャンパスになんとなしにまとまった時、それを見たお客さんなんかが「なかなかいい色味ね、この絵」ってなことを思ってくれることがある。そんな瞬間にぼくは多様性というものの素晴らしさに強く強く胸を打つのだ。「違いを乗り越える」じゃなくて「みんな違ったまま自分ができることをやろうぜ」ってことだとぼくは思う。

そんなところです。今日はポートランドで訪れたカフェの写真で締めます。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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