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懐かしさ中毒
思い出は、人それぞれの中で、それぞれの意味を持っている。
最近、『懐かしがること』について考えていた。過去の記憶を遡り、その時の情景や言葉や感情を頭の中でリプレイする。その時に想いを馳せ、その時に意識を浸らせる。それは、ふと目の前に現れた道や山や海、住宅や学校や病院や街、部屋や引き出しやテレビ番組、気温や湿度や天気、朝だったり昼だったり夜だったり、そして写真だったり。思いがけないきっかけで突然リプレイされることもある。よく[セピア色]という表現で思い出が語られることがあるが、要するに色褪せて劣化してゆく様を[セピア]というフィルターで、鮮やかさを抑えて語られているのだと思う。過去の記憶はどんな内容であれ色褪せていて、今以上に鮮やかになることはないのだ。
突然[懐古のスイッチ]が入ると、僕の思考回路はその記憶に集約され、それ以外は機能不全になってしまう。重い懐古内容だと、たとえコンビニで飲み物を選んでいたとしても、そこで体は止まってしまい、空(くう)を見つめながら立つ人形のようになる。ぼーっと佇むおじさんに変身する。そこで感情が最大出力で溢れ出すと、涙もまた溢れ出てしまう。最近はそういった究極の状況は少なくなったけれど、とりあえず僕にとっての[懐古のスイッチ]は、そういった意味でだいぶ厄介だったりするのだ。麻薬的と言えば、そうかもしれない。
僕の場合だが、いい思い出も嫌な思い出も、その時の喜怒哀楽すべての懐かしさも、僕にとって[悲しみのエサ]になっている。他にも切なさや苦しさ、哀れさ、無力さなど、その類の感情も懐かしさによって肥大する。
なぜ懐かしさは、悲しくさせるのだろうか。
僕を機能不全にするし、悲しい思いをさせるこの懐かしさというのは、なぜこんなに頭の中にへばりついているのだろうか。
あくまで僕の場合だが、懐かしさは、[過去の時空が現存在していないこと]を美しく証明し、美しいが故に意識はそこへ執着し、毎回現場検証のように何かを探している。愛しい人を探すかのように。
(この美しい思い出の源流はどこだろう…)
(この記憶の辛さって、何が原因なのだろう…)
(そうか、もうあの頃には戻れないんだよな…)
空想を踏まえながら、永遠と御百度参りをしている感じで、懐かしさという領域で迷子になる。美しい絵画をみてうっとりするだけなら良いが、残念ながら当事者としての感情が、終わらない現場検証に惑わされている。愛しい人は、もうそこにはいないのに。
昔の写真を見返すという行為は、ほぼ100%、その時の気持ちを蘇らせる行為である。でも実は、その気持ちはすべて[再現されたもの]であり、[その時の気持ち]と思い込んでいたものは、いわば[レプリカ]なのだ。再現された気持ちは、当時の気持ちではなく、今の気持ちに他ならない。
つまり、[その時の気持ち]は[その時]をもって失われているのだ。
それに気づいた時、一瞬だが絶望を感じた。当事者なのに、記憶を持った本人なのに、この懐かしさは、レプリカなのか…。あの時の笑顔や泣き顔、喜んだこと、喧嘩したこと、感謝したこと、黙ってたこと、あの時の記憶も全部…。こんなに美しいのに、こんなに素晴らしいのに、懐かしさがもたらすのは、そこに存在しないことを証明することだけなのか…。
僕にとっての懐かしさは、記憶が美しさから儚さになって、切なさになって、悲しさになる。懐かしさに浸るということは、そこにある悲しみを迎え入れるということ。懐かしむことを習慣にしていたら、ずっと悲しいままでいることになる。
それからの僕は、自分の生活を日頃から忙しくするように心がけた。いつまでも同じ悲しみに翻弄されるのは嫌だからだ。けれど記憶を消し去りたいわけではない。ならば、今、目の前のこと、仕事や趣味や運動など、他の行為に意識を向かせ、勤しみ、この[今]を感じ続けることが大切だと思うように心がけた。目の前にやることがあるというのは、そういう意味で救済なのだ。懐かしさをそのままに、飲み込まれることなく生活を続けられる。
心を亡くすと書いて「忙しい」。卑しい言葉と捉えられがちだが、心の亡くし方を上手にできれば、僕にとって多忙は大事なスタンスとなる。要するに、コントロールの一種だ。
そして僕は気づく。
忙しいのに、器用貧乏だなぁ、と。
手先を動かしながら、僕は笑っていた。
時々。
その美しさに、悲しさに、
少しだけ会いに行く。
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