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自分を知る旅

《ミステリという勿れ》のワンシーン。


放課後の教室で、ぼぅっと窓の外を眺める久能君。大切な人との別れがあった。

その様子を見た天達先生が声をかける。すると、

久能「僕は常々、お花見の楽しみがなんなのか、分からないと思ってたんですけど…」
天達「ん?」

2人だけの静かな教室で、久能君は思っていることを話す。

「美しいものを眺めるなら、1人の方が静かで集中できるし、好きな時に好きなだけ好きなように楽しめるじゃないですか。でも僕、今年は初めて、誰かと一緒に桜を見たいと思いました。その美しさについて、誰かと語り合いたいって。そのことに自分でも驚いているんです。」

少しの沈黙のあと、先生は話し出す。

「“若いってことは、若いってこと。まだ何もしてないってことなんだ”…って言ったの、誰だったかな…。とにかく、これから変わっていけるってことだよ。」

久能君は先生を見つめる。
先生は元気づけるように、話を続ける。

「あなたはまだ、頭でしか知らないことが多いけど、この先体験することで考えが変わることもあるだろう。それは恥ずかしいことじゃない。

人に会い、人を知りなさい。
それは自分を知る旅だよ。」

自分を“探す”旅、ではなくて
自分を“知る”旅。
自分探しと銘打って、ここにいる自分をわざわざ探すことはない。自分はいつもここにいるのだから。知らないことが多い自分というのは、その時のせいいっぱいの自分の中で生きていて、喜んだり悲しんだり希望や絶望を幾度と繰り返しながら、今を生きている。知らないことで苦しむことが多いっていうのも、若さってことであり、経験や年齢を積むことで、老いを条件に人は変わっていける。知るというのは、そういう道程のことを言うのかもしれない。
そして、それを教えてくれるのは自分と同じ、やはり人なんだということ。人が唯一の師範でなくとも、人から教わることは多分にある。人に会い、人と話し、人とふれあい、人を信じ、人を知る。時に裏切られ、または苦しめられ、失い、どん底に落とされることも、自分を知る旅の過程なのだ。それでも、どれだけ経験や年齢を積んでも、全てを知り尽くすことはできない。その人の最期、その時の知り得た自分のままで旅を終えることが、“自分らしく人生を終える”ということなんだろう。
その美しさについて、誰かと語り合いたい…なんてことを思いながら。

人生。
人を知り、自分を知る旅の途中。

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