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上杉鷹山はいかにして破産状態の組織を立て直したか

【名言から仕事の学びを得る】

第1回目:「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)」

こんにちは。福地 暁(ふくち さとる)です。
この記事では偉人たちの名言について下記の3点で調べてみて、新たな気づきと学びにつなげていくことを目指しています。

①名言を残した偉人はどういう人か
②どういう環境にいたのか
③異なる環境や立場ならこの名言はどうなっていたか

第1回目は、上杉鷹山の
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
です。

この名言に励まされている人、多いのではないでしょうか。私もその1人です。上杉鷹山の揺るぎない覚悟を感じる言葉です。

鷹山は55年間にわたって藩政改革の陣頭指揮を取りました。その間には歴史的な災害や幕府からの制度的いじめ、藩内の中心メンバーたちによる鷹山への一致団結した反抗もあったそうです。

多くの困難が目の前に立ちふさがりながら、なぜ強い覚悟が持って乗り切れたのか。今回、そのことを調べてみました。わかったのは、「視点をはるか先に持つ」ということです。

まず、上杉鷹山について調べてみました。

【1】本日の名言

為せば成る
為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり

[1-1]名言の意味

できそうにないどんなことであっても、強い意志を持って諦めずに取り組めば必ず実現できる。 実現できないのは成し遂げようと思って行動していないからだ。

【2】名言の背景

[2-1]誰の言葉?

1751年生〜1822年没の江戸時代後期の大名で、出羽国(現在の山形県の一部と秋田県)米沢藩の9代目藩主でした。上杉という苗字がしめすように、あの上杉謙信の子孫です(血のつながりはありません)。

[2-2]どういう背景?

米沢藩(上杉家)は関川原の戦いで徳川家の敵対勢力についており、戦の終結後は領地を4分の1に削られました。1664年にはさらに半分に削られています。つまり、関ヶ原の戦い前とくらべて8分の1にまで領地が減っています。しかもこの間、家臣を積極的にリストラしなかったようです。

会社でいえば、売上が8分の1に減っても同じ数の社員を雇い続けているわけです。収入が減っても人の数は減らさなかったわけですから、藩士などの人件費だけで収入の8割にまでなっていました。

当然ながら藩の財政は大赤字で、上杉鷹山が家督を継いだときには複数の商人から20万両もの借金があったようです。

当時の米沢藩の収入は3万数千両程度だったそうですから、20万両というのは藩の予算6年分にあたります。年商1億円の会社なら6億円の借金を抱えている計算になります。現代の感覚なら、破産ですよね。

当然上杉鷹山の米沢藩は悲惨な状況でした。借金の利子さえ返済がままならず、幕府に領地返上(倒産)を申し出る寸前にまで追い込まれていました。

しかも、藩の出費を抑えようとしても、なんでも藩主の自由にできるわけではありません。藩士の衣服や住まい、ほかの藩や幕府との付き合いにお金をかけねばならないという事情(幕府から課された義務)もあります。

[2-3]人件費カット

藩の収入が減ったわけですから、やはり人件費を削減せざるを得ません。

人件費をカットした後の米沢藩士の年収は、現代の経済価値でいえば平均200万円台だったようです。内職や農作業にもかなり従事していたようですが、本業ではないのでたかが知れています。

この収入で家族数名を養い、冠婚葬祭などのイベントで「武士の対面」を保てるように出費をし、学問や剣術のために子どもを習い事に通わせるわけです。藩士も借金まみれだったようです。

[2-4]困難な改革

藩も藩士も貧乏なうえに、しかも参勤交代の調度品や旅費、天明の大飢饉による大きな出費、義父(前藩主)の散財もあり、改革はたびたび失敗に終わったそうです。

鷹山は領内に暮らす民の協力を得て、商人から藩財政立て直しの応援をしてもらい、人材を育てるための学校を建て、優秀な人材を積極的に登用したりしました。

その途中、重臣7名が改革に対して真っ向から反対してきます。重臣たちは現場に直接指示を出せる立場にいますから、味方につけておかないと仕事をしてくれません。うまく懐柔するのが得策のように見えます。

ところが鷹山は、証拠や証言を確認して周囲の協力をとりつけたうえで、一気にその重臣7名を厳罰に処します。この処置により、領民も商人も藩士も、鷹山を強く信用するようになったと言われています。

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