日本を離れる日、NH879便に乗る前に
4月某日、私は最悪の気分で新幹線に乗っていた。
その日は一時帰国の最終日。
日本を離れ、在住国のオーストラリアに戻る日。
「二拠点生活のフリーランス」といえば聞こえはいいかもしれない。
しかし、実際は日本の家族の体調不良により変則的になっていく生活に悶々としながら過ごしていた……が正直なところだった。
東京へ向かう新幹線の中で、
手術は成功したとはいえ、家族を置いてオーストラリアに戻る行動が正しいのか、と思いあぐねていた。
さらに、これから控えている品川でのお取引先との打ち合わせ、SNSで知り合った方(仮にMさんとしておく)との約束に対する緊張が大きくなっていく。
頭の片隅には今夜のフライト
「羽田空港第2ターミナル NH897」
これから人に会うというのに、すっかり「飛行機で寝る格好」(つまり、かなりゆったりとした服装&ぺたんこ靴)で家を出たことへの後悔もわいてきた。
品川での打ち合わせは何の問題もなくすんなりと終了。
問題は……
1時間後のMさんとの約束。
それはSNS上の話の流れで「あやしげな喫茶店に行こう」というものだった。
オンラインで知り合った人とノリで会うのは普段だったら避けている行動だ。
しかし、文字だけのやり取りだったが、自分の言葉がきちんと伝わっている感覚をMさんにはいつの間にか持っていた。
でも。
「おかしな人だったらどうしよう」「話が合わなかったらどうしよう」という不安はお互いあったはず。
山手線の車内モニターに映し出せれる路線図をぼんやり眺めながら「なんか申し訳ないな」と。
Mさんにとって私は得体のしれない海外在住者だから。
待ち合わせ場所に向かって歩いているときに、
「ふくちゃん?Mです」
と声をかけられた。
ネットで使用しているハンドルネームを現実世界で呼ばれたことに少々の違和感をかかえながら
「はい。はじめまして」
と、答えた。
はじめまして、と言ったものの「1年に1回、親戚の集まりで会ういとこ」のような雰囲気の人……がMさんの第一印象。
普段、スマホの中にいるMさんが、3Dで現実世界に登場した不思議な感覚はあったけど。
日本にはまたしばらく帰ってこれないと思うと、何気ない風景がとても新鮮に映る。
初対面のMさんと数時間後にはお別れし、南半球に移動する……私の日常ではそうそう起こりそうにないシチュエーションが余計そう感じさせたのだろう。
「東京の鳩は警戒心が少ないですね」
あぁ、今、鳩の話なんてしなくていいのに。
思ったことをすぐに口にしてしまう癖は本当におとなげない。
「こういうの、日本ぽいなと思うんです」と街の風景にカメラを向け、とりとめのない会話をしながら、目的の「あやしげな喫茶店」を目指した。
店内は「純喫茶」に少々のうさんくささが混じった異世界が広がっていた。
なんの気なしにSNSに投稿した「日本滞在中にあやしげな喫茶店に行きたい」が実現した瞬間。
店内でくつろぐお客さんたちに対し「裏でやばい仕事してるのでは?」と勝手な妄想が始まる。
はたから見たら私たちも「平日の昼間からフラフラしている食い扶持が謎な人」だったかもしれない。
Mさんと私はSNSでお互いをフォローし合うようになってまだ日が浅い。
それでも昔から知っている人のように話ができたのは、
仕事上の共通の話題があったから、というより、
会話の中で私の視点まで降りてきてくれたからだと思っている。
そういえば、待ち合わせ場所で声をかけられたときも、背が低い私と目を合わせて挨拶をしてくれた。
Mさんとの会話は心の中のとげとげしたものを丸くする「保健室」や「白湯」のような効果がある。
もし、そう伝えていたら、どんな反応をされただろうか。
「シドニーには『戻る』『帰る』という感覚ですか?」
と聞かれた時、
たぶん私は自分に言い聞かせるように、
「そうですね。もう生活の基盤はすっかりオーストラリアなので」
と答えた。
「本当は今、とても寂しいです。もう少し日本にいたいです」を押し殺し、平気なふりをした。
その必要はどこにもなかったのに。
(日が暮れる前にここを出て羽田に向かおう、残っている仕事を空港のラウンジで片付けよう)
お店に入る前、そう決めていたのに、窓の外を見たらすっかり日は傾いていた。
羽田空港にむかわなければ。
今夜のフライト「NH879」でシドニーに戻らなければ。
お店を出るころには、今朝、新幹線の中で感じていた「最悪な気持ち」はなくなくなっていた。
自分が選んだ場所で、自分が選んだ仕事をしよう。
そして、また日本に帰ってくればいいんだ。
羽田空港に到着し、
SNSに「シドニーへ戻ります」と投稿をしたら、
まもなくMさんから
「お気をつけて」とコメントが。
この瞬間、Mさんは以前のように「スマホの中の人」に戻った。
羽田発シドニー行きNH879便。
飛行機は南を目指し、約10時間のフライト中にMさんとの時間はほんの少し過去のものになった。
「人生を変える出会い」でも「心の琴線に触れる会話」でもなかった……と言えば失礼にあたるだろう。
ありきたりなセンセーショナルな表現はしっくりこない。
もやがかかった気持ちがじわじわと整っていく不思議な感覚だったから。
春の日本から秋のシドニーへ戻り、仕事と散歩の毎日はとどこおりなく過ぎていく。
今、あの日のことを思い返すと、
Mさんは架空の人物で、一緒に行った喫茶店も架空の場所だったんじゃないか……
そんなふうに感じるほど、現実感が薄れていることに気付く。
ふわふわと地に足がつかない記憶のかけらが、
どこかに逃げていかないように、色あせないように。
時々、日本を離れた日のことを思い出しながら、私はシドニーで生きていく。
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